「推し」と「蛙化」
いつしか「推し」という言葉のランクが下がった。
元々は「推しメン」なので、アイドルに対して使っていた言葉であり、
それが「推し」と省略されて意味が広くなった、という体感。
今ではアイドルだけでなくアニメキャラ、さらには学校に「推し」がいるというのも聞いたことがある。
そもそもアイドルは「偶像」で、一部にはガチでアイドルを”信仰”に近いかたちで応援している人もいる(というかアイドルオタクは一度はその道を通るだろうし、僕もそうだったし)わけで、推すという行為は単なる応援とは異なる、ある意味神聖なものでもあったと思う。
となると、先に上げた学校の例での「推し」の使われ方では明らかに元のニュアンスとは違う。
言葉としてのランクが下がっているように感じるのだ。
意味が広くなって言葉として使いやすくなったことや、最近は自分に推しという存在がいること自体がひとつのステータスになっているように感じる。
あるいは、「推し」という言葉を使うことで、自分が「好き」な人について誰かと話しやすいということもあるかもしれない。
恋愛経験の少ない10代にとって"誰かのことが「好き」である"ということは話題に出しにくかったり、からかわれるのではないかと思ったりするだろう。ある意味、自分を守るために使っているところがあるのではないかと思う。
そんなこんなが、昨今の「蛙化現象」という言葉の流行にもつながっている気がする。
「推し」という言葉のランクが下がったことにより「好き」と混同し良い面ばかりを見ていたところ、ちょっとした行動で冷めてしまったみたいな例もあるんじゃないかなと思う。(ここには「蛙化」の意味が広くなったことも含まれるけど。)実際、アイドルとオタクの関係も似たような感じで表面しか見えないので、演者が飲み歩いていることや芸人に食い荒らされているという現実に気づかない。
以上が、僕が持っている「推し」という言葉への感覚。
日本語はどんどん言葉の意味が変わっていくものなので、今後もこの言葉そんなニュアンスだったっけ?的なのがいくつも出てくるかも、と思っている。
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