(第10回) 街角の「肉」
住民であるわたしたちには見慣れた風景でも、たまたまそこを訪れる外国人の目には新鮮なものに映る。たとえば、渋谷のスクランブル交差点、たとえば、鳥居だらけの伏見稲荷大社。たとえば、何気ない看板。
街は人をがんばらせ、人を癒やす。街は人を包み込み、叱咤激励をする。そして、街はときおり、おもしろいことを言う。
旅人の目線に飛び込んでくる、へんな景色や奇っ怪な風景。それは自然の造形だったり、古ぼけた看板であったり、また、意図していなかった生活の営みだったり。それは、街の遊び心。私はそれを「街の冗談」と呼んでいる。
たとえば、街なかのイカ。日本人には馴染みのあるスルメ干しだが、外国人観光客の目線になってみると、あちこちに干されたイカの姿がなにやら意味を持ってくる。
まるで謎の宇宙生物に少しずつ日本が侵略されているような気になる。飲食店の軒先になにげなく干してあるイカの姿だが、それはまるで捕獲した宇宙人。意図的に用意されたキャラでないぶん、グラフィカルな迫力がある。
街の古ぼけた看板もおもしろい。ある街角で、「肉」という文字を見つけた。
「肉」のサインに思わず接近したくなる景色。これこそ、街の冗談である。
なにかの看板の一部なのか、全容はわからない。ただ巨大な「肉」文字が風景のなかに浮かび上がる。事情のわからないアメリカ人には、カリフォルニアの「HOLLYWOOD」のような観光的に意味のあるサインに見えている(嘘)。
工事現場用の(動物などのキャクターの描かれた)柵や、こどもの飛び出しを警告するための「飛び出し坊や」もまた、おもしろい。それは、さまざまな意匠の製品としての愉快さもあるけど、また、長年風雪に耐え、痛み、味わいを深め、景色のなかに君臨するさまは、旅人の目になんとも言えない哀愁を訴えかける。
個人的には、古ぼけた店頭のショーウインドウも好物だ。色あせ埃にまみれた、ラーメンや八宝菜などの食品サンプルが、何十年もの間、ピクリともせずに存在し続けたという事実は、もはや、街の冗談というより、街の宝、時代の隙間に置き忘れた「忘却遺産」のように感じる。
いま、日本はインバウンド客による空前の観光ブームである。多くの外国人が、高い旅費のもとを取ろうと、ニッポンの景色を、目を皿のようにしてたのしもうとしている。もちろん、日本独自の自然の景観や観光施設も重要だし、彼らを迎え入れるための施設の充実も外せない。だが、それほどおカネをかけなくてもできる、景観へのちょっとした遊び心なんてのもいい。ホストとして日本の個々人が、そんなものを持ち合わせるようになれば、日本はもっともっと魅力的になる。
環境整備、再開発の名のもとに、日本のなかの多くの景色が画一化されている。便利さの追求や新しさのアピールだけでは息が詰まる。もちろん、外国人観光客も大切だけど、それよりもまず私がこの日本の景観をたのしみたい。
旅の帰り際、ある石材店の庭に置かれた石像を見つけ、その遊び心に、わたしはうれしくなった。
〜2017年8月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂