再録「あのときアレは神だった」〜王貞治
テレビアニメ、漫画、スポーツ、アイドル歌手などなど。
実在の人物から架空のものまで、
昭和にはさまざまな「キャラクター」が存在した。
われわれを楽しませたあの「神」のようなキャラクターたち。
彼ら、彼女たちの背後にはどんな時代が輝いていたのだろうか。
懐かしくて切ない、時代の「神」の軌跡を振り返る。
(2016年より、夕刊フジにて掲載)
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かつて野球界のヒーローが覚醒剤使用で逮捕された。
「堕ちたヒーロー」の転落した顛末(てんまつ)と栄光の過去をヒロイックに書き立てたが、そもそも「ぼくらのヒーロー」というものは、いくら人間関係で悩もうと、いくら寂しかろうと、そんな大それた「犯罪」を犯すはずはない。
ヒーローとは、死ぬまでヒーローで居続けるものなのである。
本当の「ぼくらのヒーロー」とは、王選手(王貞治・福岡ソフトバンクホークス取締役会長)のことである。
本塁打世界記録があるから言うわけではない。また、国民栄誉賞を取ったから言うわけでもない。王選手は、いまや選手でもないのに「王選手」と呼んでしまう。いつまでも現役時代の輝きのまま、ぼくらの前で人生を歩み続けている。
かっこいいおとな、頼りになるおとな。そんな存在が昔も今も必要だった。
物分かりの悪い父親や変に若ぶる親戚(しんせき)の伯父さんや大学出たての学校の先生。少ない「知っている」おとなたちのなかにそんな「まれな存在」を見つけ出そうとした。
王さんって、僕らの時代の校長先生みたいだ。もっと言えば、校庭の二宮金次郎的でもある。すごいし、偉いし、努力家だし、あったかいし、他の先生と違って、ちょっとだけノリ悪いし。いや、それはそれでかっこいいのだ。
最近、「やんちゃ」という言葉が安易に使われすぎていると思う。頼れるおとなや校長先生や、ましてや「ヒーロー」が年中「やんちゃ」してたら、それはけっしてぼくらの心に響かない。彼らには彼らの「本分」がある。いつもまじめそうな校長先生や担任の先生が、ほんのたまにぼくらの「やんちゃ」に付き合ってくれるからうれしいのだ。
彼らの本分はもちろん記録であり実績である。でも、たとえそれが「無冠」であっても、そのぶれない姿勢がぼくらの心の糧になる。それが本当のヒーローの姿なんだと思う。 (中丸謙一朗)