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ショーケンの直食いの反対。たまには洋食器ディナーについて考えてみる

たとえば、スーパーで買ってきた刺し身をパックのまま食卓に並べ、醤油をかけて食べるより、きちんとお皿に盛り付けツマやネギなどを足し、ひと手間かけたほうが断然おいしくなる。

70年代の人気ドラマ、ショーケンこと萩原健一主演『傷だらけの天使』のあまりにも有名なタイトルバックは、ショーケンが新聞紙を前掛けがわりにし、冷蔵庫にあったトマトやコンビーフをそのままかじり、口に咥えた瓶の牛乳で流し込む映像だった。そこには器はひとつもなかった。でも、それはとてつもなくかっこよくて、そのままコンビーフを齧ってみたり、年長の兄貴を真似して、インスタントラーメンを鍋のまま平らげたりもした。

そんなわたしが食器に目を向けるようになったのは、つい最近のことである。ましてや、ただ見せるだけの皿の存在を知るなんて。それはちょっとばかり、新鮮な驚きだった。話は洋食器の世界である。

「サービスプレート」と呼ばれる皿がある。高級レストランの席に着くと一枚の皿が目の前に置かれている。「おもてなし」としてゲストを歓迎する意味を持つこの皿はディナーがはじまると下げられてしまう。その皿は、料理を盛らずカトラリーで傷つける心配がないため、全面に華やかな絵付けが施されている。テーブルには自然と華やかな雰囲気が漂うのである。

ディナーセットの洋食器はオーケストラに例えられる。

西洋の宮廷文化によって育まれた洋食器の生み出す「交響曲(シンフォニー)」に耳を傾けることは、「高級なる」食文化のひとつの味わい方である。次々と現れる華麗なる皿ときらめくカトラリーな数々。それぞれがおいしい料理を載せて次々と食卓へと運ばれてくる。その調べを体験することは、もちろんけっこうなお値段ではあるが、けっして悪くはない。

大航海時代以降、東洋から大量にもたらされた磁器を西洋文化が育み、艶やかな光沢をたたえた白い素地と華やかな絵柄として結実した。洋食器は、「料理の色が引き立つ白」、「色気のある白さ」を目指して素地を作るとされている。

日本の洋食器の歴史は、安政5(1858)年に締結された日米修好通商条約まで遡ることになる。

条約の不均衡により、しだいに日本の良質な金銀が海外に流失した。これを憂いた森村市左衛門は、貿易によって外貨を獲得するために、陶磁器、漆器、竹製品などの輸出を開始、やがて主力を陶磁器に置き、「森村組」として勢力を拡大していった。その後、絵草紙屋であった大倉孫兵衛が参加。1893年にシカゴで開催された万国博覧会を視察、ヨーロッパの陶磁器を見て日本製の生地や彩画が見劣りすることを痛感。日本の職人たちが持つ伝統的な技法を洋風画に取り入れた独自の意匠を構築、欧米に受け入れられるような質の高い洋食器を作り上げた。彼らこそが、現在の大倉陶園、ノリタケカンパニーの創業者たちである。

昭和の高度経済成長以降、庶民の間に急速に洋食が広まった。慣れない西洋のテーブルマナーにとまどいながら、結婚式などのハレの舞台で洋食器に親しみ、徐々に家庭へも浸透していった。ピカピカの銀のスプーンや大きくて真っ白な皿やバラの花の描かれたティーカップなどが、民具としてしっかりと生活に根づいていった。

たとえ一部が割れてしまったとしても、大切に母から娘へと受け継がれていく継ぎ接ぎのディナーセット。そんな西洋式な「食卓のジュエリー」を持っている家庭ももはや少なくない。洋食器のため息の出るような美しさと質感の物語には、名古屋駅近郊にある「ノリタケの森」で出会うことができる。

〜2017年12月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂

【ノリタケミュージアム(ノリタケの森)】1904年日本陶器株式会社創立以降、工業製品として作られた食器を中心に展示。世界の食卓を彩ったノリタケ食器のデザインや歴史を鑑賞できる。





 



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