再録「あのときアレは神だった」〜松平康隆
テレビアニメ、漫画、スポーツ、アイドル歌手などなど。
実在の人物から架空のものまで、
昭和にはさまざまな「キャラクター」が存在した。
われわれを楽しませたあの「神」のようなキャラクターたち。
彼ら、彼女たちの背後にはどんな時代が輝いていたのだろうか。
懐かしくて切ない、時代の「神」の軌跡を振り返る。
(2016年より、夕刊フジにて掲載)
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少し前のことになるが(2016年当時)、全日本女子バレー・リオデジャネイロ五輪最終予選で、対戦相手のタイの監督が審判からの警告を不服とし、敗戦後の記者会見で、「これはスポーツではない。日本のショーだ」と痛烈に批判した。
たしかに、バレーボールは一流のショーとなった。
アイドルタレントがコートサイドを飾り、見た目を意識した選手たちを愛称で呼んだり、ファンによって盛り上げられたニッポンびいきの応援ムードで、テレビ放映の高視聴率を稼ぎだす。だが、それは元を正せば、日本バレーボール界の神、松平康隆の「偉業」なのである。
1972年、ミュンヘン五輪で、日本男子バレーボールチームは、金メダルを獲得した。監督を務めた松平は、体格的に劣る日本選手たちを率い、いままでどの国もやっていなかった「クイック攻撃」や「時間差攻撃」などを駆使し、世界を「日本バレーのペース」に持ち込んだ。
松平はその「熟成」の過程を積極的に見せた。
「金メダル獲得への道」をアニメ・ドキュメントとして全国に放映したのが、ごぞんじ『ミュンヘンへの道』(TBS系)である。
大古誠司、森田淳悟、猫田勝敏、嶋岡健治、南将之、横田忠義。まだまだいる。運動能力だけではない。背が高くスラっとしたバレー選手は、若い女性にモテるはずだと確信した松平は、人気獲得のために、少女雑誌などで、積極的に男子バレーを紹介した。
「バレー部はモテる」。
わたしはすっかりこの松平の「仕掛け」にやられ、中学時代の丸刈り(野球部)から一転、高校のバレー部を目指した。
その後も松平は、日本のバレーボールを、「運営の成り立つスポーツ」として完成させようと努力した。そのかいもあり、いまや日本は国際試合開催の中心的存在になった。
「やるのは選手、まわりはショーとして盛り上げるのが当然」。バレーボールの「神」松平監督のそんな声が聞こえてくるようだ。(中丸謙一朗)