パリの匂いのする男〜書籍「誰にも見つけてもらえない」より
まるで映画のワンシーンのように脳裏をよぎる場面がある。
それは1940年代、パリの古い劇場。客席にはパリ市民の中にドイツ兵の姿も見られる。ステージに現れるのは、カンカン帽を被ったタキシード姿のエンターティナー。溢れんばかりの笑顔と軽やかなステップで明るい歌を歌い始める。
曲名は「Paris Sera Toujours Paris(パリはいつでもパリさ!)」。
このエンターティナーは、絶対にモーリス・シュバリエでなければならない。
モーリス・シュバリエは占領下のパリに残り、ドイツ兵にも自分のステージを提供したエンターティナーである。これは、彼が政治に無関心だったからでも、ドイツにシンパシーを抱いていたからでも、反ユダヤ主義だったからでもない。
モーリス・シュバリエこそ、どんな苦しい状況でも、世界中のどんな国のステージでも、パリジャンの矜持と心意気を見せつける舞台を提供し続けてきた稀代のエンターティナーだったのである。
世界を周り続けたエンターティナー
モーリス・シュバリエは、1888年パリで塗装業を営む父とベルギー人の母の間に生まれた。家庭は貧しく、13歳で軽業師としてショービジネスの世界に入った。その後、ショー中の事故で怪我を負うと歌とダンスに転向、飛び抜けた歌手、卓越したダンサーとは言い難かったが、その器用さと明るいキャラクターで認知されるようになっていった。
また、ステージの軽妙さとは裏腹に、ヘビー級チャンピオンのスパーリング相手もこなした体力の持ち主だったというから、相当に腕っ節のあるパリジャン芸人だったのだろう。
そんな彼だが、第一次世界大戦中の1914年、26歳のときに陸軍への召集が掛かり出征、ドイツ軍との戦闘中に銃弾を浴びてしまう。辛くも生き残ることができたが、捕虜収容所で2年間を過ごすこととなってしまった。
これが、その後、エンターティナーとして世界を周り続ける運命の転機になる。
彼はアメリカやイギリスの捕虜から英語を習い始めた。 彼の英語はフランス語訛りの奇妙なものだったが、その独特さが武器となり、当時勃興し始めていたジャズやラグタイムの知識を得、捕虜たちのスターとして独自の芸を磨いていった。
戦争が終了後、パリでの再起に賭けたが、なかなか成功できず、自殺すら考えたという。
だが、世界を回ることに目を向け、海外でのステージに自らの運命を掛ける。これが大当たり、パリを飛び出した最初のロンドンで、習い覚えた英語を生かしたステージが成功、1920年代にはハリウッドにも進出、多くの作品に参加することで、世界的な人気を得るに到った。
軽くて明るい、女と見れば口説かずにいられないというハリウッド流フランス人キャラクターは、シュバリエにその原型があると言っていいだろう。
1937年にはユダヤ人のダンサー・ニタ・ラーヤと二度目の結婚を行い、彼の人生は順風満帆に思えた。ところが、再び戦争が彼を襲う。第二次大戦が勃発し、瞬く間にパリはナチスドイツに占領されてしまったのだ。
彼はドイツ軍の侵攻後もパリに残ることを決めたが、これは第一次世界大戦に従軍した彼が、「歩兵の父」と呼ばれたヴィシー政権首班フィリップ・ペタン元帥を信頼していたためだとも言われている。
彼の世界的な人気を利用しようと、ナチスは何度もベルリン公演の要請をしたが、彼は断固拒否。 その代わり、10人の捕虜解放を条件にドイツ国内の捕虜収容所慰問公演を行うことにしたが、英米メディアの中には「対独協力者」と批難するものもあった。
しかし、それでもナチスのユダヤ人を妻にする彼へ風当たりは決して小さくはなく、戦争後期にはパリを離れ、巡業に次ぐ巡業で国内を転々とするしなければならなかった。
戦後もフランス国内での人気は衰えなかったが、1949年に反核兵器廃絶を目的にしたストックホルム・アピール運動に参加。「赤狩り」の風が吹き荒れるアメリカ政府からは入国禁止を言い渡されるが、マッカーシー失脚後は映画監督ビリー・ワイルダーからの要請でハリウッドに復帰。「昼下がりの情事」などの名作にも出演し、ヨーロッパ、アメリカ、南米など世界中で様々な人間と競演、多くのステージをこなした。
1968年にパリで80歳を記念した引退公演を開催するまで、彼は精力的に活動を続けたが、その4年後の1972年には腎臓疾患でこの世を去る。
享年83歳、70年のエンターティナー人生であった。
雑誌『タイム』は彼の死を「パリはその伝説と歴史の一部を失った」と評した。
一流のエンターティナーならば、ステージで自らのショーを見せるために、世界中を放浪するものである。モーリス・シュバリエも世界中のステージで人々を魅了したが、彼のステージには、あの華やかパリの匂いがしたと言う。
「Paris Sera Toujours Paris(パリはいつでもパリさ!)」。
世界を巡業し、放浪したモーリス・シュバリエ。しかし、それがたとえどこのステージであっても彼が歌い踊れば、そこはパリであった。