見出し画像

イザイホー(2022年再録)

東中野ポレポレでドキュメンタリー映画を観てきた。

昨日、東中野ポレポレでコレ観てきた。

沖縄・久高島のイザイホー(12年に一度行われる祭礼)を扱ったドキュメンタリー映画だ。

1979年作品のデジタルリマスター版。(イザイホーは1978年)

アーカイブ的に貴重な作品。10年来久高島を見に行っているが、イザイホーはこの年以來行われていない。

ただひたすらに祭りの様子を追ったドキュメンタリー。正直テーマ性は薄いが、もう二度と観られないという資料性はじゅうぶんすぎるほどに貴重だ。

ちょっと、手抜きだが、以前、久高島について書いた原稿を再掲する。

沖縄・久高島(くだかじま)は、沖縄本島南部からフェリーで約20分ほどの距離にある。周囲の大きさは約8キロほどの小さな島で、そこには、「母神」を戴く原初信仰がある。久高島には神がいるのである。

沖縄の言葉 「ニライカナイ」は、豊穣や生命の源を表し、理想の神界であるとされる。久高島は、この「ニライカナイ」への入り口である。

久高島では、長い間、荘厳な祭礼が行われていた。それは「イザイホー」と呼ばれ、選ばれた女性の聖職者(ノロ)たちによって12年に一度、島の祭儀場で執り行われていた。

島の中心的祭儀場である「フボー御嶽(ウタキ)」は、祭礼の行われなくなった現在でも、完全なる男子禁制の場である。

この地が注目を浴びたのは最近のことではない。1960年代に、芸術家の岡本太郎がこの島を訪れた。

島に伝わる伝統的な祭礼の文化に魅せられた岡本は、当時、某週刊誌に詳細なルポを書いた。古く見過ごされていたここ琉球の、「奇妙」にも映る風習や文化に世間からの注目が集まり、観光や研究対象としてこの島が一躍脚光を浴びることとなった。

密やかに行われていたはずのことが、陽の目を浴びたおかげで、本土との違和感や、島民の醸しだす時代感覚のずれが浮き彫りになった。後、新たな聖職者の不在などの要因も重なり、島の風習を含む祭礼自体が執り行われなくなってしまった(現在は中断という認識である)。島民はおおいに悲しみ、本土の人々は困惑を隠せなかった。琉球の貴重な無形遺産が消えたのである。

70年代には、多くの芸術家がこの島に魅せられた。売れっ子写真家・篠山紀信がこの土地を気に入り、足繁く通った。もちろん、そのなかにはのちの奥様、シンシアこと南沙織(沖縄県出身)嬢の撮影も含まれていた。

島には200人ほどの住人がいる。私有地はひとつもない。案内をしてくれる琉球の旦那は言う。「ここは誰の土地でもない。母なる女性たちが神様を見守る祭礼の地だ」と。

久高島(沖縄県南城市)へは、沖縄本島南部の安座真港からフェリーまたは高速船で渡る。一日6便。島内はガイドのクルマやレンタルサイクルなどで周る。島内のルールは厳禁。最近では観光振興にも力を入れ始めている。

本土から久高島に渡り、「観光」をして回るには、さまざまなルールがある。

勝手に動き回ることはできないし、入ってはいけない場所もある。飲食に関しては不自由を余儀なくされるし、アクセスには天候や時間的な制約もある。そして、人々は、厳かな気持ちで、母神のいる海岸にお邪魔し、彼女の通る道をすまなそうに通らせていただくのである。

人類は「超越的なるもの」と同居することでしか、自己を確認できないのだという。現代人が当然のものとして考えている人間の「意識の統一性」や「自我の同一性」は、最初から強固なものとして存在しているわけじゃない。

「未開人は、予期しない何らかの衝撃を与えられると、非常に簡単に意識の水準が低下し、自己意識、すなわち、今、ここにおいて、他ならぬこの私が世界に対峙しているという現存在の意識を喪失し、他社や環境に同調する『即融』(コイノイア)状態に陥ってしまう」(『呪術的世界 歴史主義民俗学のために』E・デ・マルティーノ)

人間と「超越的なるもの」との関わりは本質的なもの。

私はこの考えを「完全に」支持している。(いわゆる合理的科学論者ではない)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?