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終戦記念日に生まれて(2022年再録)

◯月◯日

8月15日。私は59回目の誕生日を迎えた。

終戦記念日の翌日、靖国神社を参拝した。

神保町の「エチオピア」にドライブがてらカレーを食いにいった。

ここで駐車場の料金が一時間止めただけで1760円だったことに心底驚いたのだが、まあ、それはいい。(最近、すっかり都心の値段設定についていけなくなっている)

ひさしぶりに都心に来たついでといっちゃなんだが、靖国参拝を思い立ったわけだ。

「靖国参拝」ってなんだ。

元はと言えば、靖国神社に行ってお参りをするだけの簡単な話だ。だが、いまではいろんな意味が付加され、その参拝自体が意味を持ってしまったり、その参拝をする人物の思想性やキャラクターにまで話が及んでしまう。

この際だから、少し話を整理してみようと思う。

靖国参拝の何が問題なのか。

①外国侵略をした「戦犯」が祀られている(合祀)ので、被害にあった国が嫌がる

②軍国主義を肯定するような「保守派」として認識され、平和主義者や左翼主義者などから、批判をされる

③明治以降の(比較的新しい)神社なのに、それをありがたがって、宗教心からではなく、愛国心のみに則り参拝をすることに、疑問を持たれる

ざっくり考えるとこんなところか。

で、靖国神社の「事実の部分」を整理する。

①明治時代初頭(明治二年)に戊辰戦争の官軍側の戦没者の慰霊のために(明治天皇によって)創建された招魂社が源流である

②その後、日清・日露戦争の戦没者も合祀される

③太平洋戦争の戦没者、英霊、戦犯(とされる方々)、すべて合祀されている

④現在は「政教分離」の建前のため、日本国政府とはなんら関係がなく、一宗教法人が営む施設である

と、そんなんでいいか。

曖昧な部分は

①日本国政府と関係がないと言いながら、日本の公人(政治家)が「正式に」参拝してたりする

②近隣諸国からガタガタ言われるのは、「内政干渉」ではないのか、世話になった祖先の「魂参り」ぐらい好きにさせろや

③陰謀論などにまみれ、意味不明の存在になりつつある、いわゆる「ネトウヨ」の聖地化し、コスプレ参拝などのイベント化など、本来の保守層の考え方とのズレが生じている(進化か退化か)

と、まあ、そんなわけだが、今回はあまり深く考えもせず、靖国参拝をしてきたわけである。

(ちなみに、俺の靖国参拝は初めてではない。約60年の個人史のなかで、たぶん3回目ぐらい)


◯月◯日

俺の実家というか本家のことについて少し書いてみたいと思う。

ちなみにいわゆる名家ではない。

俺の爺さんの名前は増五郎という。俺は小さい頃からこの強そうな名前が気に入っていた。

いかつい顔つきに立派な口ひげ。いわゆる「職業軍人」で、陸軍中尉だった。

職業軍人とは、徴兵などで招集されたわけではなく、いわゆる尉官として戦場に兵士を送り出していたほうで、爺さんはたしか明治38年の生まれ。太平洋戦争開戦(1941年)の頃には36歳。なるほど、いい年だ。

なにやらいかつい軍服姿の写真が残っているが、銃剣道の教官として、兵士の訓練を行っていたのだという。

私の父親は増五郎の次男坊である。その上に年子の兄がいる。本家を継いでいる叔父である。

そのふたりから何度か軍人時代の爺さんの話は聞いている。とにかく軍人らしく「厳格」な人物だったらしい。

まあ、そうは言っても俺の物心ついたときには、ほとんど口を聞かない「おっかなそうな」爺さんで、当時は、街の剣道場で子どもたちに剣道を教えるおじいさんという役回りで、頼まれてか、神奈川県剣道連盟の顧問や副会長などをやっていたらしい。いわゆる「外孫」であった俺には完全に近寄りがたい存在で、たいした思い出は残っていない。

だが、そんななかで強烈に覚えていることがある。

私が成人式を迎えた日のことである。昭和58年、1983年の話だ。

その当時の「はやり」というか、みんながやるからぐらいの理由で、俺もなんとなくスーツなんぞを買い込み、横浜文化体育館で行われる予定の(横浜市主催の)「成人式」に行くつもりでいた。

当日の朝、父親がめずらしく俺に話しかけてきた。

「成人式に行く前にちょっと顔を貸せ」と言う。なんでも、隣の駅にある本家に顔を出すということらしい。

私は深く考えずに、バスに乗り、本家へと向かった。

古い洋風屋敷の玄関に入ると、広い三和土の真正面に八畳敷の日の丸が貼られている。

私が小さい頃から見ている「ザ・日本国」である。

玄関に日の丸が飾られていることがどういうことなのか、他家と違って奇妙なことなのか、そういうことは、この光景が、小さい頃から眺めているあまりにも自然な景色のために、まったく考えることがなかった。

父親のあとにつき、本家に上がり込み、居間にいた「本家のおじさん」にぼそっと挨拶をした。

すると、おじさんは、「おう、よく来たな。爺さんに挨拶してこい」と言った。

私はあまりピンと来なかったが、ちらっと横目で見ると、大広間の奥の床の間を背にし、爺さんが背筋をピンと伸ばし座っている。服装は覚えていないが、さすがに軍服ではなかったはずだ。

お膳に上のものは覚えていないが、たぶん茶でも飲んでいたのだろう。

20歳になったスーツ姿の俺は、爺さんの前に歩み出た。

そして、なんとなく、ほんとうになんとなく「自然に」以下のような行動をした。

爺さんの横にきちんと正座し、「おじいさん、おかげさまで20歳を迎えることができました。ありがとうございました」と口上を述べ、両手を畳につけ、深々と頭を下げた。誰に教わったわけでもなく、また心底そう思っていたわけでは「ぜんぜん」ないのだが、ものすごく自然にこうなった。

私の口上をピクリとも表情を変えず聞いていた爺さんは、俺の手を取り、なんだか「ゴニョゴニョ」と言った。いや、比喩ではなく、ほんとうに何を言ってるのかまったくわからずゴニョゴニョと言ってるようにしか聞こえなかったのである。

80代にしては力強い手の感触だけがいまもかすかに残っている。たぶん、爺さんはすでにあの時、頭の中は、半分、向こうに行っていたのだと思う。(爺さんは、その2年後、88歳で逝った)

爺さんと歓談する空気ではないし、そういう間柄ではないので(序列的にも)、その場からさっと去り、居間にいる本家のおじさんのところに行った。

すると、おじさんは、「一杯、飲んでけ」と言った。そばにいた親父を見ると、静かにうなずいている。

おじさんの合図を皮切りに、本家のおばちゃんや従兄弟のにいちゃんの嫁やらがわさわさと料理を運んでくる。

宴席である。

どういう打ち合わせのもとこれが行われたのかは当時の阿呆な俺にはさっぱりわからないが、これが俺の成人を祝うための「儀式」であったことは、この時はじめて理解したのであった。

短い時間であったが、昼の宴席をあとにし、父親とともに帰路についた。

駅までの道すがら、俺が父親にぼそっとこんなことを言った。

「あのさあ、うちってものすごく右翼(古臭い軍国主義かぶれぐらいの意味)じゃねえ?」

父親は笑いもせず、こう返した。

「おまえ、今頃そんなこと気づいたのか。うちは天皇陛下万歳だ」

それ以上の言葉もなく、黙って駅まで行き、(成人式に行く俺と家に帰る父親は)別れた。

コートまでは買えない、スーツ姿が寒い日の思い出だった。

その後、父親を含む三兄弟は、昭和天皇崩御の折、回復を祈るための記帳に足繁く通っていたと聞いた。


◯月◯日

終戦記念日という言葉自体、長い間、違和感を含んでいる。この私もそうだし、実は世間だってそう感じているに違いない。まるで終戦を記念した晴れやかな日のような勘違いをしているが、日本が二発の非人道兵器を長崎と広島に落とされ、グーの音も出なくなりこてんぱんにやられ、アメリカ風に言えば「ルーザー(負け犬)」行きが決定した「敗戦記念日」である。

誕生日がこの日であるため、たぶん同世代の誰よりも早く、この「終戦記念日」という言葉を意識していたのだと思う。

勝負に、いや戦争に負けたのに、それを明言せず、なんとなく終わらせる日にしたそんな「ズル」は、子どもの自分にもなんとなく伝わっていた。ただ、それが日本国への「憎悪」や「違和感」かというと、実はそうではない。そういう「曖昧」な国なんだ、でも、それがこの国とこの国のおとなたちを包み込んでいる、一種の甘露水的やさしさなんだ、まだ小学生時代のやわらかく小さな脳味噌でも、そんなことを感じ取っていたのだと思う。

その日の映像を見ると、みんなが頭を垂れて泣いている。その絵は、えばったりよろこんだりしているのではない。悲しんだり謝ったりしている。

じゃ、いったい、誰が誰に何を謝っているのか。

天皇陛下が国民に謝っていたのか、あるいは国民が天皇陛下に謝ったのか。

負けた日本が勝ったアメリカに謝ったのか。原爆を落としたアメリカが日本に謝ったのか。

腹いっぱい食べさせられない親が子に謝っていたのか。命を賭しながらも国を助けられなかった「英霊」と呼ばれる若者の魂が、その親兄弟に対して謝っていたのか。

戦争を始めてしまった(あるいは始めてしまったとされている)一部の偉い人間が、国民に対して謝っていたのか。

馬鹿な戦争を起こしてしまった民衆が、目に見えない祖先の霊や神に対して謝っていたのか。

あるいは、謝る、謝罪という気持ちがいっさいない、単なる不遜で傲慢な一日なのか。

もちろん、当時の私にはわからなかった。いや、もしかするといまでもわかっていないのかもしれない。

手打ちのない、仲直りのないことはその後の思想のいらぬ歪曲を生む。

曖昧な感覚だけで示しているぶんにはまだ罪が軽い

日教組による「教育」という形で伝えられる「曖昧なのに強制的な」思想はけっこう罪深い。改めてそう思う。


◯月◯日

1975年。私は小学六年の時に横浜市に引っ越してきた。

東京・練馬区にある「桜台」という駅の駅前にある小さな小学校(卒業時には2クラス)から横浜市の小学校に転校してきた。当時は、都心部から郊外へと人口が流出する、いわゆる「ドーナツ化現象」が真っ盛りで、山野を切り崩して宅地開発を推し進めたものの、学校などのインフラ建設が間に合っていなかった。

そのため、私の家の近隣に小学校はなく(建設予定はあったみたいだが)、集団登校というかたちではあるが、なんと子どもたちだけの「バス便」での通学だった。

横浜市営バスの定期券を買い、なんとなく「おとなっぽくって」うれしかったのは一瞬で、やはりけっこうな距離を移動する(バス停で6,7個)バス通学にあまりいい思い出はない。

転校してきた横浜の小学校は7クラスだった。めちゃくちゃ多いとは言い難いが、2クラス生活で、同級生全部の顔と名前がわかっていた環境からいきなり放り込まれるには、なかなかヘビーな環境だったように思う。

なんせ転校したのが、小学校6年の11月かなんかに転校したもんだから(親も卒業まで待つとか少しは考えりゃいいのに)、当然のように「卒業に向けて一丸となっているような」クラスにはなじめず、あまりいい思い出がない。

で、無事、公立の中学に進学したわけだが、これがまた驚きの「インフラ不足」。

うちから、歩いて30分近くかかる中学校は、なんと16クラス。私は1年14組。なんだか、その数字を聞いただけでめまいがした。当然、教室は足りなく、プレハブ校舎を校庭に増設し、なんとかしのいでいた。翌年、建設中の中学が2校増設され、生徒は3つに別れたが、依然、10クラス体制だった。

(若い世代の人はこれを読むと、だっておまえら元々人数の多い世代だろ、と思うのかもしれないが、同世代人口が多いのはいわゆる「団塊の世代」で、それは我々より、15,16歳ほど上の世代。うちらの世代は他の時代に比べて、多くも少なくもない世代だ)(なお、正確を期すために書き足すと、団塊の世代は、昭和22年、23年、24年生まれの人たちである)

さらに、これはあとになってよくわかってきたのだが、いわゆる「給食の問題」である。

当時、私たちにとってはそれが当たり前だったので違和感は感じていなかったが、横浜の中学校に学校給食はない。弁当持参である。弁当を用意できない家庭のための配慮で、事前申し込み制の購買部での「菓子パン」の販売があった。日にクラスで数名がお世話になるぐらいの感じで、基本的にはみんな弁当を持参してきた。

数年前の市長選挙絡みで、横浜市の学校給食をスタートさせるか否かとの論争があったみたいだが、なぜ横浜市には学校給食がないのかという質問に対して、「当時の急激な人口増加によるインフラ対応に追われ、正直なところ、給食設備の拡充にまで手が回らなかったとのコメントを見つけた。

でも、2022年のいまになってもその状況が改善されていないというのは、たかが給食ではあるが、なんだか不思議である。

(ネット記事によると、2021年春から民間事業者の配達弁当を「給食」と位置づけスタートしたが、利用は選択式で、一部にとどまっているとある)

◯月◯日

わりとよく言われることだが、横浜の人間は、「横浜市歌」を歌える。いや、逆に言えば、横浜市歌をソラで歌えない人間は、ぽっと出のミーハー移住者であり、真の横浜人ではない。

(ちなみに私は浜っ子なんていい方は嫌いだ。370万人もいる横浜市民がどいつもこいつも「浜」を意識するほどの横浜人ではないはずだ。江戸っ子ぐらいはまだ許すが、浜っ子なんていうのは本当に阿呆な言葉だと思う。)

(いやもちろん、何代にも渡って、しかも、横浜市の中区、神奈川区あたりに住んでいる真正の浜っ子を馬鹿にする意図はまったくない。横浜市でも新興の山野切り開き地帯である港南区出身の俺が浜っ子なんて名乗らないのは礼節の部類だ)

ともかく、それぐらい、横浜人はいつもいつも横浜市歌を歌わされたのである。

森鴎外作曲だかなんだか詳細は忘れた。ネットで調べてほしい。変調を繰り返すようななんだか変な歌だ。これを入学式、卒業式のたびに全校で歌わされる。

以下は、少しおとなになってから気がついたこと。

横浜市歌ばかり歌わされていたのはなぜか。

それは「君が代」を歌わせたくなかったからである。

当時の横浜市は(東京もそうだったけど)革新政権。社会党の委員長である飛鳥田一雄さんが市長だった。

国家反対、国旗掲揚、けしからんという立場で、いたいけな子どもたちの脳内にへんな(笑)横浜市歌を延々と流し込んだ。

別に怒っちゃいないが、子どもがやらされていたことにさえも「政治的」背景があるなんてことは、ずいぶん年取ってからわかってくることだ。

右なのか左なのか。そんなのは知らん。俺は前を向いて進んでいる。

保守なのか革新なのか。少なくとも「日本軍」はないのだから、爺さんの「勇姿」は俺の中の個人的な思い出に過ぎないし、日教組にさんざん弄り倒され、横浜市歌をソラで歌わされ、大学でマルクス主義を学んだ俺だが、いまの日本を転覆させようなんて、あたりまえだが思っちゃいない。

上の世代の考える思想はなかなか下の世代に伝わらない。すべてにおいて「おやじ構文」と馬鹿にされて終わりだ。

いつもの繰り返しになるが、冷笑ではなく諦観。

けっして手は離さず、諸行無常と戯れていく。

いささか文学的な言い方だが、俺はそういう言い方は嫌いではない。

横浜市長さんよ、早く給食ぐらい食わせてやってくれ。

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