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(第4回)街角に着物姿の女性のいる風景

 倉敷を訪れた。

 「倉敷美観地区」と呼ばれる地区を歩いた。風情のある橋のたもとで、外国人観光客が、着物姿の日本人女性とうれしそうに写真に収まっていた。女性の近くには遊覧観光用の人力車が置かれている。通りの向こうから、観光客とみられる別の白人夫婦が歩いてきて、着物姿の女性の前で歩みを止めた。

 男性は着物姿の女性に「あなたの写真を撮っていいか」と声をかけ、了解の返事を待ち、少し興奮しながら何枚かシャッターを切った。その風景をそばにいた同伴の女性が、にこやかに眺めていた。

 ここでは日常の、何気ない光景だったのかもしれない。だが、その光景を見て、わたしは倉敷という街の「豊かさ」を感じた。

 着物姿の若い女性は、観光案内の一環として街の一角に立っている。観光客は、着物姿の女性を見て、そのフォトジェニックな姿によろこび、声をかけシャッターを切る。たしかに若くきれいな女性という意味もあるけど、観光客が得られてよろこんだのは、非日常の絵であり、帰国後に土産話の一葉として見せる「価値のある」絵なのだ。

 倉敷は江戸時代より幕府直轄の天領として栄えた。運河を張り巡らせた内陸の港町は、中心部には代官所も置かれ、中国・四国地方における政治経済両面での重要な場所となった。

 明治以降は、日本の工業の発展とともに、さまざまな産業が生まれ、倉敷を中心とするこの地域も大きな発展を遂げた。その中心にいたのが、倉敷紡績(クラボウ)、倉敷絹織(クラレ)など、ここ倉敷を「仕切る」企業群である。

 もともとが大地主であった「倉紡」の創業者は、代々に渡り、この街を大事にし、自社の発展だけでなく、街の発展に尽力した。病院や美術館(大原美術館)などを整備し、紡績工場の跡地に、倉敷の観光スポットとなるような施設もつくった(倉敷アイビースクエア)。

 観光地の物語を紐解いていくと、そこに現れるのは歴史上の偉大な人物や合戦や城などの「国造り」に関わるものが多い。民の活力は否定出来ないが、長い間の歴史の積み重ねとなるとどうしても、残っていくべきものの優先順位は公が先になる。

 利益を追求する企業は、ひとりの民間人の私的な思いからはじまる。企業はときには体制である国家や公の機関と相反しながら、企業としての私的な財産形成を推し進めていく。

 やがて企業には「故郷を思う気持ち」や「社会的責任」が生まれ、地域経済に貢献していく。だが、ここ倉敷のように、街の美観や文化形成、観光価値にまでを「仕切った」例はそう多くはないだろう。そういう意味では、倉敷市全体を単なる工業都市ではなく、観光都市としても発展させた「倉紡」の功績は大きい。

 私の眺めた、「街角に着物姿の女性のいる風景」は、まだまだめずらしいのかもしれない。風紀上の問題や人件費の問題など、現代社会では、もしかするといろいろ議論を呼ぶことなのかもしれない。だが、それでふと訪れた客人がうれしい気持ちになり、その街の文化価値が上がり「たのしい観光地」になるのなら、ぜひ、取り入れてほしい素敵な景色のひとつだと思った。

 国家でも企業でも地方公共団体でもいい。余裕と遊び心のある者たちだけが、美しく豊かな街の未来を描けるのだ。

〜2016年11月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂

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