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(第17回)横浜中華街、僕の行きたい店


 「みんな中華街好きすぎるよ」

 とある週末の横浜中華街の、まともに道を歩けないほどの大混雑ぶりを眺めながら、そう思った。なにも格好をつけた嫌味を言っているのではない。私は(小学校の時からであるが)横浜出身である。高校も、元町や中華街の裏手にあたる山手地区に通った。場所柄、中華街に住む裕福な華僑の子が同学年に複数在籍し、折々の宴会で「そいつのうち」(もちろん中華料理店)を使ったりした。1980年代初頭の話である。

 この頃の中華街の印象は、普通の人にとっては、有名店である「聘珍樓」や「重慶飯店」など、結婚式やハレの宴席などで訪れるところといった感じだったように思う。そこそこの人気はあったけれど、(和食ではなく)どちらかというとエスニックに傾倒した人々や、外国人とのやんちゃな交流を気取る遊び人たちが訪れる街という印象だった。その証拠に、私が大学生の時、あるコンパを中華街の中型店で主催したことがあったが、学生の払える値段で座敷を借りきれた。当時は、そんな「余裕のある」場所だったのである。

 横浜の中華街は、江戸時代末期頃からあった。1887年頃の中華街には100軒前後の店舗があったことが記録されている。

 その後、大正の関東大震災、昭和の横浜大空襲で、中華街は二度焼け野原となった。その度に立ち直ってきたが、なかでも戦勝国の国民でもあった華僑は、戦後優先的に受け取れる物資を元に「おいしいものが食べられる」中華街を復興させた。

 また、この時期から朝鮮戦争の時期にかけて、中華街周辺の米軍施設を中心に、外国人向けの繁華街の要素が加わった。横浜、そして中華街の夜は賑わいを見せたが、同時に「怖い」「暗い」というイメージも生み出した。一時期、日本映画の暴力団やギャングが登場するシーンには中華街が頻繁に使われていた。

 横浜の中華街を、サンフランシスコのチャイナタウンに負けないような人気の観光地へと復興させる呼びかけは、1953年から始まっていた。

 日中国交回復なども手伝い、70年代にじわじわとそれが実を結び、観光地としての基礎ができ始めた。だが、「牌楼門」が派手な現在のものに建て替えられ(1989年)、近隣に地下鉄の駅(元町・中華街駅、2004年)が開設し、開港150周年を記念して「横浜媽祖廟」が建立(2006年)されるまでは、段階的にかなりの時間を要した。

 1976年のデータによると、中華街には約200店の店舗(中華料理店、中華食料品店、中国物産店他)があった。2018年の正確な数字は見つからなかったが、2003年時点で540店舗が確認されており、現在、70年代の3倍の規模になっているということは想像に難くないだろう。横浜中華街は凄まじい勢いで進化しているのである。

 残念ながら、私にとっての中華街とは、近くにありながらも、おとなでもこどもでもない中途半端な時期に、「中途半端な観光地」として存在していた場所ということになる。

 そんな私にも中華街に思い出の一軒がある。「安記」「海員閣」「順海閣」などの老舗有名店が居並ぶ「香港路」にある「上海飯店」である。

 ここは学生の頃、(空いているという理由で)よく訪れていた。観光客用というよりは、どちらかというと、地元客用の体裁である。おっかないオヤジがまるい大きな中華用のまな板に向かって乱暴に包丁を打ち付けながら、いつも夫婦喧嘩をしていた。ほぼカウンターのみの店内で、ひとりふらりと訪れた私は、飛び交う罵声を聞き、うなだれながら中華麺をすすっていた。

 今回、ひさしぶりに中華街を訪れると、その店はまだあった。路上と各店舗の大混雑をよそに、店内には仏頂面のおやじがひとりいるだけだった。

 「ピカピカケバケバ」に進化することもそれはそれでうれしいけれど、ここには私にとって失いたくない中華街があった。

〜2018年6月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂


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広東料理の地に四川料理が混在するようになった「香港路」。上海飯店は手前。

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