(第23回) 宮沢賢治とイギリス海岸
小さい頃、うちの庭に置いてあった物置に登って、私はよく空想にふけっていた。都会育ちの私の家には自然がなく、空き地のような庭と古ボけたイチジクの木と塀の向こうに見えるアパートの目隠しが目に入る、そんな風景だった。
何を考えていたかは定かではない。ただ、一日中、トタン屋根の上で、庭の隅のある場所に名前をつけたり、板塀の穴の物語を考えてみたり、意味のない思いつきの言葉を宙に向かって呟いたりしていた。
夕食時、屋根の上で思いついたそんな「戯言」をうれしそうに母に喋ると、母は黙って夕食の支度をしていた。
宮澤賢治は、岩手県を「イーハトヴ」と名付けた。生まれ育った故郷を愛し、「田園の風と光に満ちた不思議で楽しい楽園」ととらえていた。
岩手県花巻市にある「イギリス海岸」は、宮沢賢治が名付けた「不思議で楽しい楽園」である。「イギリス海岸」は、花巻駅東方約2kmにある北上川西岸にあり、賢治は同名の作品(現在は青空文庫に所蔵)を書いている。
泥岩が顔を覗かせる「イギリス海岸」の景色
河川なのに海岸である。賢治はあたりの景色を、「全くもうイギリスあたりの白亜の海岸を歩いてゐるやうな気がするのでした。」と記している。
川底からは約100万年前の「青白い凝灰質の泥岩」が顔をのぞかせ、賢治は、クルミの化石や偶蹄類の足跡化石などを採集しながら、イギリスのドーバー海峡にあたりの風景に思いを馳せていた(現在は、河川管理が進み、水位が下がらなくなったため、泥岩層は通常は水面下である)。
地球の歴史や地理に不案内でも、この場所にいると、「なんでもいい。想像してごらん」、そんな囁きに包まれる。
「ひとたび心に現れた現象は、間違いなく事実である」。
賢治は、理論や学問に対する「直感の優位」や、具体を離れて生じる「観念への飛躍」を「心象」という言葉で説いた。心象風景である。
見えるものがすベてではない。感じるものにも生命は宿る。物語を紡ぎ出す山々、感情や愉しみに満ちた河川、満天の星、孤独の森。何気ない場所でも、それは訪れる人の心の作用によって幾重にも変化を遂げる。
抽象や物語は、たとえそれが「戯言」だとしても、知性によって「戯言」ではなくなるし、いやむしろ、「具体」ばかりを追いかけている世の中で、本当の意味で「心象を追う」ことの難しさのほうが、今の気持ちに差し迫る。イギリス海岸は、そう思わせてくれる場所だ。
お土産屋さん、顔ハメのパネル、路傍のソフトクリーム。私たちは、観光地に具体を求め過ぎている。正直に言うと、宮沢賢治の代表作『銀河鉄道の夜』は、小さい頃から、そしていまだによく理解ができていない。ただ、(夏休みの読書感想文を書かされていた)昔から一貫して、「きれいだな」と思うだけである。でも、それでいい。思ったことを口にして大事にすればいい、そう思う。
小さい頃がけっして純粋一筋だとは思わない。だが少なくとも、何もない原っぱで、夜露に足元を濡らしながら、ただぼんやりと夕日を眺められていた。
「この百万年昔の海の渚に、今日は北上川が流れてゐます。昔、巨(おお)きな波をあげたり、じっと寂(しづ)まったり、誰も誰も見てゐない所でいろいろに変ったその巨きな鹹水(かんすい)の継承者は、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴた昔の渚をうちながら夜昼南へ流れるのです。こゝを海岸と名をつけたってどうしていけないといはれませうか。」(『イギリス海岸』)
宮沢賢治はこう記した。
〜2018年11月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂