再録「あのときアレは神だった」〜太田幸司
テレビアニメ、漫画、スポーツ、アイドル歌手などなど。
実在の人物から架空のものまで、
昭和にはさまざまな「キャラクター」が存在した。
われわれを楽しませたあの「神」のようなキャラクターたち。
彼ら、彼女たちの背後にはどんな時代が輝いていたのだろうか。
懐かしくて切ない、時代の「神」の軌跡を振り返る。
(2016年より、夕刊フジにて掲載)
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甲子園で活躍したオコエ瑠偉が楽天に入団し、今後の活躍に期待が高まる(現読売ジャイアンツ)。
ハーフ系の人といっても、一昔前は、アジア系やアメリカ系が多かったような気がするが、ふと街を眺めていると、いまや、アフリカ系、インド系、アラブ系など、その系統はさまざま。その多くの若き人たちが日本語を話し、日本社会の中枢で活躍していることに感慨すら覚える。
プロ野球の名投手、太田幸司は、ハーフの有名人が少なかった時代に現れたヒーローだった。
1969年夏。太田幸司は、青森県代表・三沢高校のエースとして、愛媛県代表・松山商業との決勝戦で、延長18回を1人で投げ抜いた。
アメリカ人を父に持ち、彫りが深く色白。背が高く薄茶色の髪のハンサムな風貌。太田幸司は瞬く間に「甲子園のアイドル」となった。後年、定岡正二(鹿児島実業)、バンビ坂本(東邦高校)、荒木大輔(早稲田実業)、斎藤佑樹(早稲田実業)ら数々の「甲子園のアイドル」が生まれたが、そのれっきとした元祖が太田幸司である。
太田がドラフト1位で近鉄バファローズに入団した70(昭和45)年は、第三次佐藤栄作内閣、万博や歩行者天国など、高度経済成長で街は上り調子だった。
おしゃれになったとはいえ、まだまだ日本人の顔は基本のっぺり。みんなが「彫りの深い」ハーフ顔に憧れた。だが同時に、(今とは違い)その歴史の複雑さを体現したような顔には、悲しげな物語を引きずったような憂いも感じていた。
実よりも名が先行した人間は苦労する。太田も最初は苦しんだ。だが、太田は潰れなかった。そして、いまでも野球解説などで、そのたくましく優しげな表情を見せている。 (中丸謙一朗)
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