ラス・メイヤー 巨乳の大海原を漂う男
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「泣く子とおっぱいには勝てない」というのは誰が言ったか知らないが、とにかく、泣くほどわがままな子ども(男)とおっぱいは、座りのいいセットだ。
泣こうがわめこうが、漂流しようが自分探ししようが、最終的に男はふかふかのものに戻る。ただし、その男が戻ろうとするおっぱいは、ただひとつのものであるという保証はない。
泣きながら戻るはずのおっぱいにさえも、漂流していた男がいた。その男の名前は、ラッセル・アルビオン・メイヤー。「キング・オブ・ヌーディーズ」と呼ばれ、50〜70年代にかけ、「セックス&バイオレンス映画」を撮りまくったコア映画監督・ラス・メイヤーである。
巨乳こそが正義である
ラス・メイヤーの作風は単純にして明快、胸のでかい女性が出てくることのみが正義である。
初期の商業的に成功した作品『インモラル・ミスター・ティーズ』(1958年)や代表作『女豹ビクセン』(1968年)など、巨乳を前面に出した映画を死ぬまで製作し続け、自らのドキュメンタリーと銘打たれた遺作『パンドラ・ピークス』(2001年)ですら、最初こそ自叙伝的なセリフが展開されるが、途中から有名な超巨乳モデル・パンドラ・ピークスがストリップしているという、ほとんど意味のないショットが延々と続いていたりしている。
彼は、映画の芸術性や文学的なエロティシズムに何の価値も見出さなかった。何よりも巨乳が重要。そこにあるものはまるでエサを求めるような(無駄な)エネルギーの発露と終わりなき浮遊感。ただただ、巨乳の大海原を漂う男の姿であった。
ラス・メイヤーは、1922年3月21日カルフォルニア州サン・レアンドロに生まれた。父親は警官、母親は看護婦だったが、彼の誕生後に二人はすぐに離婚。一月50ドルの養育費を条件に母親に引き取られて以降、生涯、彼が父親に会うことはなかった。その反動なのか、母親はこの息子を溺愛した。彼の最初の妻となったベティー・バルドビニョスが、「彼に何かあれば、彼女に殺されていたわ」と証言するほど、その母子の繋がりは濃いものであった。
この母親について、ラス・メイヤー自身が後にインタビューでこう答えている。「よく聞かれるんだ、『おまえの母ちゃんの胸もデカかったのか?』って、答えはイエス」。ある研究者の調べでは6回の結婚歴があったとされ、当時としては恋多き母親だった彼女だが、もらった結婚指輪を質屋に入れて14歳の息子に8ミリカメラを買い与えるなど、後の映画監督ラス・メイヤー誕生のきっかけを作った大海原の発進基地、まさに港のような女性だった。
その後、ハンサムな青年に成長し、高校でガールフレンド(巨乳)を作るなど、アメリカの学生らしい青春を謳歌した彼だが、母から貰った8ミリカメラの魅力にのめり込み、アルバイトで稼いだ金は、すべて撮影機材につぎ込みながら、映画学校に通い、商業映画用35ミリフィルムの撮影技術を習得し、自分の「思い」を発揮する時を待った。
そして、第二次世界大戦真っ只中の1943年11月、その時が来る。彼はアメリカ陸軍に志願し、第29歩兵師団第166通信撮影中隊所属の戦闘カメラマンになった。D-デイには師団とともにノルマンディーに上陸、ブラッドレイ将軍やパットン将軍指揮の下、激戦だったフランス・アルデンヌの森から血みどろのドイツ国内まで、あらゆる最前線でニュース用のカメラを回し続けた。彼の撮影したフィルムの評価は高く、後に映画「パットン大戦車軍団」(1971年)にもその一部が使用された。
意外なことに、この戦場での撮影は、ラス・メイヤーにとって至福の時間だったらしい。「戦争が終わって欲しくなかった」「日本にも撮影に行く予定だったのに、あのクソ爆弾に邪魔された」。これは彼のセリフである。
ベトナム戦争を経験し屈折した心情を抱いたその後の映画製作者と違い、彼の映画が最後まであっけらかんと性や暴力を描写できたのは、一致団結しファシズムに勝利するという第二次大戦の、こうした「体育会的GIメンタリティー」を終生持ち続けた結果なのではないだろうか。しかし、この時点でまだ巨乳は現われない。
老人と乳
漂流は思わぬきっかけから始まる。巨乳の求道者ラス・メイヤーが完成された重要な出来事が、この戦争中に起こっていた。1944年8月23日フランス。彼の部隊はパリを目前にした、ランブイエという町で足止めを食らっていた。そこに忽然と現れたのが、アーネスト・ヘミングウェイである。(つづきは書籍で)
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