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泉山三六 アゴに噛みついた元祖・酩酊大臣

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 酒を飲んで「メートルが上がってしまう」。何とも懐かしい響きだ。私なども、若い頃はたいして飲まずにピチャピチャとやっていただけだが、そこは気がつくと中年、年々飲み方がだらしなくなってくるわけで、「メートルが上がる」という“深イイ”言葉も何となく分かるようになっているから、恐ろしいものである。

 日本は欧米などに比べると、酒には寛容な文化があると聞いていた気がする。新入社員が酔った勢いで宴会で同席した部長のハゲ頭をこねくり回しても、「まあまあ、酒の上のことだから……」とか、「酒宴には無礼講という言葉もあるし……」などと言って、あくまでも内々に収められる傾向にあるような気がする。野球選手が朝まで酒を飲み、翌日の試合に二日酔いのままマウンドに上がり完封勝利なんていうのも、その人間の「太さ」「豪快さ」みたいなものを表す武勇伝のひとつだった。


 最近では公の宴席の機会も減っているし、さすがにそういう風潮も薄くなってきているのだろうが、大の大人の酩酊行為自体が、それもまた文化なりと言うところであった。

 酩酊大臣として名をあげた中川昭一元財務大臣は、国民から袋だたきに遭い、大臣を辞職した。彼は、未曾有の経済危機の最中に開催されたG7財務大臣・中央銀行総裁会議で居眠りをし、その記者会見で意味不明な発言を繰り返した。いわゆる、「メートルの上がった」新橋のおっさん的状態の映像が全世界を駆け巡ったのであった。


 海外報道機関の皮肉たっぷりなニュースで世界中にその名を知られ、それまでの飲酒癖がクローズアップされる。どこの誰だか知らないが、おじさんやおばさんたちは怒り心頭、将来を有望視されていたこの政治家が自民党総裁候補者レースから大きく外れ、現在は自分の選挙区に帰り、後援会や有権者に涙目で頭を下げる日々を送っているという。


 世間とはそんなもの。何ともほろ苦い酒である。

 これは酒に対する寛容さが日本からなくなってきたということだろうか?

 実は飲酒が問題で大臣を辞めたのは、彼が最初の政治家ではない。


 1948年10月、第二次吉田内閣で大蔵大臣に就任した泉山三六という政治家がいた。彼は衆議院予算委員会の会議中に泥酔状態であった。

 それを野党議員に目撃され、スキャンダル視される。挙げ句の果てに、会議前の議員食堂で日本初の女性国会議員である山下春江女史に抱きつきながらキスを迫り、拒絶されると彼女のアゴに噛み付くというものすごい「失態」が発覚、新聞には「大トラ大臣」、「昭和酔虎伝」などと書きたてられ、大臣だけではなく国会議員をも辞職する羽目に陥った。


 泉山三六は1986年、旧荘内藩である山形県東田川郡大和村で生まれた。実家は下男が五、六人もいる豪農一族で、この家の末子三男坊であった。後に青森県八戸の素封家であった泉山家の婿養子となるが、養子先とは不仲ではないが縁は遠く、かなり自由気ままに育ったらしい。


 そういう育ちのためか、優秀はであるが、向こう気が強く、多少いい加減なところがあるバンカラ青年に成長する。第一高等学校から東京帝国大学政治科という当時のエリートコースを歩み、当初は外交官を目指していたらしいが、試験を受ける寸前に病気で倒れてしまい、外交官の道は断念。次いで海外貿易の最大手である三井物産の入社を考えるが、第一次大戦後の不況で新規採用枠がなく、仕方がなく1921年に三井銀行へ就職する。


 銀行に就職したものの、最初に配属された大阪で夜遊びを覚え、年間に93回も遅刻出社するほどの問題社員となり、その上、北浜で芸者たちと歩いている際に、警官から職務質問を受けて喧嘩、天満警察署に連れて行かれるが、ここでも警官数人と大立ち回りをやらかしブタ箱に放り込まれてしまうという新聞沙汰を起してしまう。


 現代ならば、ここでクビである。しかし、そこは酒や喧嘩に寛容でバンカラや豪傑という言葉が幅を利かせた時代である。彼は本店調査部勤務という、本人が言うところの「銀行の監獄」めいた部署へ送られるだけで処分は受けずに済んだ。


 この監獄のような「本店調査部勤務」が彼の転機となる。そこで彼は、後に日本銀行総裁や大蔵大臣を歴任することになる三井財閥の実質的な指導者であった池田成淋に気に入られ、普通の銀行業務とはいささか異なる財界人や役人との折衝、政府の経済政策支援などを行うようになった。生真面目なエリートとは違い、酒好きで遊び好きな上にお偉いさんにも物怖じしない性格は、こういう仕事にうってつけだったのだろう。


 彼は三井銀行で順調に出世していく。企画部長を皮切りに、戦時中に第一銀行との合併で生まれた帝国銀行では調査役に就任し、銀行員らしい銀行業務なしで出世の道を歩んだ。まるで漫画『サラリーマン金太郎』のような話だが、まだおおらかな戦前では、こういう豪傑肌のキャラクターが愛される余地があった。


 1947年には銀行を退職し、同年の衆議院選挙に山形から立候補するが、選挙間近まで事務所もなく運動員も寄せ集めという、かなりいい加減な選挙戦だったらしい。全国区どころか地元でも無名に近い彼だったが、戦後最初の選挙と混乱ぶりと「三六」という覚えられやすい名前が功を奏し、予想外の投票数第二位で当選してしまう。しかも、初当選の議員ながら、自由党で財務に明るい人材が不足していたことと、財界の大物達のバックアップもあり、いきなり大蔵大臣、経済安定本部長官、物価庁長官、経済調査庁長官の兼任の辞令を受ける。


 もし、彼がこれらの重責を無難にこなしていれば、遅刻癖の問題銀行員から経済重要閣僚に成り上がった漫画的出世街道驀進男として後世に名を残したことであろう。ところが、初めての大仕事である、GHQとの交渉を重ねた追加予算案の提出に成功し、祝杯を上げたことで、先の国会での「泥酔・セクハラ事件」を引き起こしてしまったのだった。(つづきは書籍で)


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