「いつも綺麗に使ってくださりありがとうございます」と感謝してくるトイレの貼り紙
noteの、「バッジ」概念とかそれを知らせるシステムがよくわからん。なんのためにあるの?なんか「うれちいでちゅね~いいねもらえまちたね~やる気が出まちゅね~」と幼児扱いされてるみたいで気持ちが悪い。
これで喜ぶ人いるんですか?本気で?
たまってお金とか実利があるならうれしいけど、バッジって何?
運営はどういうつもりなんだろう?と毎度思う。
いつもお世話になってます。
でもこの赤ちゃんプレイサービス?はなくしてほしいです。
って、こんなこと書こうと思ったわけじゃないんだけど、今思い出したのがトイレとかの「いつも綺麗に使っていただいてありがとうございます」という貼り紙。
時空感覚がバグる魔法の言葉。
いやそうじゃない、「綺麗に使ってください」と書け。
そう書けないなら「綺麗に使っていただけたらうれしいです」と書け。
そういう意味なんですよね?
はっきりと立場と要求を明らかにすることを避けたいからって、期待と完了をないまぜにして、使用者の行動を縛りながらその意図を感謝で誤魔化すようなやり方はいいの??
あれ本当にやだ。嫌い。気持ち悪いいやらしいやり方だと思う。
(時制と主語が省略可能で曖昧な日本語独自の婉曲表現なのではないか)
まだするともしないとも言ってないことに対して「ありがとう」って何。
指示命令して、それに従わない可能性は無視排除して、相手の意志行動をしれっと制限しながら、自分はその命令責任をまったく丸投げして、じゃあ誰に負わせる気?ねえ。
支配だろ、それは。コントロールだろ。
いやらしく支配操作しといて「ありがとう」はないんじゃないの?
狡猾だねえ。
汚らしいねえ。
不潔だねえ。
皆さまのおかげでトイレは清潔、あなたは不潔。
って、そういう張り紙、文言を見るたびいつも感じていたんだけど、これを書きながら今思ったことがある。
(それ、私もやってないか?)
期待。
「信じる」という言葉に含まれるもの。
あなたは、(私の想定している)こういうあなたであると信じてるよ。
私の期待に沿って動いてくれると信じてるよ。
(私の期待を、望みを)裏切らないと信じてるよ。
別に口に出して言わなくても同じだ。
「裏切られた」「そんな人とは思わなかった」「こんなはずでは」「計画がパーになった」
私の期待が、望みが、想定していたことが、その通りにならなかった。
なるはずなのに。なってほしかったのに。
そういう気持ちがあるから、相手や状況を型にはめて見ようとして、その期待、要求が通らなかった時かなわなかった時ににがっかりする。怒る。時に絶望する。
しばしばそれは傲慢さの別の顕れだ。
なんなら自然現象だって同じ。
天気予報。地震の発生確率。
想定して把握して理解して、それに備えたい。有利にしたい。安全にいたい。なんならそれを防ぎたい。起こらないようにしたい。閉じ込めたい。思い通りに管理したい。利用したい。
そんなの当たり前じゃんて思う。
人間だもの。
予測できるなら、被害(損)を最小限に抑えたいと思うし、なんなら(自分にとって)いい方(得)へと転ばせたいと思うのが人情。
祟るナニカも荒ぶるナニカも全部神社にお祀りして、神様いつも私たち人間を見守ってくださってありがとうと感謝してお酒とかお塩とか供えて。たまにダンスしたりとか。だから祟らないで呪わないで高校合格させて、だから水害起こさないで、日照りも勘弁。豊作にして。
それが少なくとも日本の伝統的なやり方だ。
そして自然を大事にしている、と言っている。
たしかにキリスト教的な人間中心主義によるわかりやすい自然支配ではないかもしれない。
でもそこにあるのは交換条件と操作だと思う。
他者性というものが存在しない。
明確なボーダーもなければリスペクトもない。甘えだけがある。なあなあさ。
動物はそれをしない。
だから、人に家畜化されたりペットにされちゃうし、魚は陸に進出しないし、シロクマは砂漠にもサバンナにも適応しない。
そして黙って絶滅に追い込まれていく。
彼らはあんまり、他(環境含む)を自分の思い通りにしようとしないね。
力づくで抑えつけて噛みついて殺して食べることはあっても、裏から手を回してうまく責任を回避しながら自分の欲望を遂げるようなことはしない。たぶんね。私はあんまり他の種の社会的力学やコミュニケーションについては詳しくないのですが。
犬は、ご主人様に、おねだりはするけど「おいしい餌をいつもありがとう、あなたは優しい素晴しい人だ、あなたに飼われて私は幸せ」なんて言って暗に操作的に暗示的に餌を要求催促したりしない。
考えるだけで気持ち悪いよねそんな犬。でもそんな人間はいっぱいいます。
相手を思い通りにしたい、コントロールしたい。
今はやりの「沼らせ」みたいのは、概念からしてそれだよね。
やられるより自分がやる側にまわりたい。
自分の責任は回避して。言質はとられないように。あくまで自分はリスクはとらず、汚れ役もせず、きれいな顔をして、メリットだけを得たい。
優しい人のまま、いい人のまま。
メリットだけを得たい。
これは結局、損得勘定の話なんだと思う。
自分は手を汚したくないし悪い人の役もしたくない。きつい言葉を言って嫌われるのも反発されるのも嫌だしめんどくさいし、だからってこの状況が続くことを受け入れるのも嫌だ。勝手にわかってもらえないかなあ。想像してもらえないかなあ。こちらの大変さを。察してもらえないかなあ。苦しいんだけど。大変なんだけど。あ、そうだ、ありがとうって言おう。ありがとうって言われて嫌な気持ちになる人いないよね。「してくれてありがとう」って、もう完了したことにしちゃえ。相手の意志とかは無視。だってこっちが本来あるべき姿だし。いいじゃんいいじゃん魔法みたい。もう、私の願いはかないました。ありがとう。感謝。
偽善と欺瞞と無言の圧力と空気読む力と調和と笑顔と優しさと常識と支配と排除と大嘘。
そういう思考の流れとやり口が例のトイレの貼り紙には象徴されてると思うし、さまざまなマーケティングとか広告とか、別に商業的な分野だけじゃなくて、普通の人間関係でも綿々脈々と続いてきてると思う。
いい顔しながら相手を自分の思い通りに動かそうとする。操作しようとする。視線とか無視とか笑顔とか、「何も言わない、しない」上での言外の圧。こう動け。とは言ってないでしょ。あなたが、勝手に、やった。私に、責任は、ない。空気を、読め。
それと、願い事をする心理って結構似てると思う。
期待と、願い事。
こうだと思う。こうなってほしい。こうなるべきだ。
実際には、予測も妄想だし、期待も妄想なんだよね。
でも人間は弱いし汚いし、何ひとつも本当は思い通りにはならないししようとしてはいけない(ていうかできない)、という事実に耐えられず、動物のように愚かに単純に純粋に今を生きることもできず、他者や状況や環境をコントロールしようとする傲慢さを持ち続け、それに気づくこともできずに生きていくしかない面が多分にある。
これは、私もそうだし、絶対に私だけじゃないと思う。
で、私は、それを薄汚い在り方だなとも感じるわけです。
嫌なわけです、それが。そういう自分が。
それを受け入れて、ずっとそのままでいたいとは思わないです。
今そうであるという事実を受け入れるのが必要というのはそうなのだけど、少しずつでもその傲慢さを手放したい。というと綺麗すぎるな。私は自分からその部分、薄汚れた欲望を削り落としたいと思っているわけ。
うん。思ってる。
操作しようとされたくないししたくもない。
責任をとらないで利益だけ取ろうとするやり方はあさましく小賢しく薄汚いと自分にも思うし、他人にも思う。ていうか、気づかれずに他人を思い通りに動かそうとする姿勢が気持ち悪い。されたくないししたくない。
無意識に、手癖のように、私もしてしまうし、してくる輩が沢山いる。やめろや。
それを、受け入れたくない。
してしまうけどしたくないしされたくない。
空気読め空気読まない空気読めない空気読みたくない、いや読め読みたくない読ませんな……!!!
ただ、そう思っているということだけ書いて、〆にしていいですか。
はい、ここまで読んでいただいてありがとうございました。
中途半端だね。
また似たようなことは何度も書くと思います。〆。
ここから先は
¥ 300
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?