好きな作品を語ろう(西尾維新編)
西尾維新の書く小説が好きだ。
どれくらい好きなのかと問われれば、それはもう筆舌に尽くし難いほどと言う他ないのだけれど、それでも強いてわかりやすく言葉を弄すのであれば、『インターネット上の悪いレビューに対して本気で嫌悪感を示し、誰にも見られないSNSの裏アカウントで長々と文句を垂れるくらいには好き』という感じになるだろう。
というか、いっそ正直なことを言えば、僕のこの思いは「好き」などという曖昧で簡単な言葉だけでは到底表現ができないのだ。
こういう風に言うと、なんだか恋愛をしている人間がよく使う"あの"言い回しに限りなく近くなってしまうけれど、しかし実際にこれが事実なのだから仕方がない。
「好き」なんかでは、全然足りない。
だって、西尾維新の書く小説は、もはや僕にとってのバイブル、いわゆる聖典になってしまっていると言っても過言ではないのだから。
キリスト教徒だって、別にわざわざ「聖書が好きだ」とは口に出して言わないでしょう?
それと同じだ。
この気持ちはその意気で、その域なのである。
救われたのだ。
僕は確かに、西尾維新の書く小説に救われた。
そして、今もなお。
現在進行形で救われ続けている。
それを「好き」というたった二文字だけで片付けられるほど、僕の言葉は枯れちゃいないというわけだ。
だから、始めよう。
戯言でも物語でもない、ただの自分語りを。
僕が初めて彼の作品に触れたのは中学生の頃だった。
自分で言うことでもないが、当時の僕はいわゆる"オタク"にカテゴライズされるタイプの人間ではまったくなかった。
本も読まなければアニメも見ない。
なんなら、その手の同級生からは倦厭され、思いっきり関わりを避けられるようなタイプの学生だったと思う。
恥ずかしながら。
そんな僕が、なぜその時分に西尾維新作品に触れたのかと言えば、触れられたのかと言えば、理由は単純明快。
姉だ。
三つ年の離れたオタクの姉が、戯言シリーズ第三巻『クビツリハイスクール 戯言遣いの弟子』の単行本を持っていたのだ。
一巻、二巻を飛ばして、三巻のみだ。
トイレに置いてあった。
風呂のなかでも読んでいたのか、紙が水分を吸収して妙な膨らみかたをしていたのをよく覚えている。
初めて表紙を見たとき、漫画だと思った。
当時の僕は『ライトノベル』というものを、そもそも知らなかったのだ。
鮮烈な黄色に、リコーダーを持った少女。
"首吊り"というインパクトの強いワード。
戯言遣いという意味のわからない言葉。
こんなの、そりゃライトノベルの存在を知らなければ漫画だと思うだろう。
ところがどっこい。
開けてビックリ。
文字がギッシリ。
もちろんと言ってしまってはなんなんだけれども、もちろん一瞬で読むのをやめた。
のちにバイブルの一角となる書を捨て、僕はトイレを出た。
出て、姉に訊ねた。
「これ、面白いの?」
姉は答えた。
「最高」と。
それが僕と西尾維新の、初めての邂逅だった。
邂逅から数年が経った。
正確な年数は思い出せないけれど、少なくとも5年以上は悠に経過していたのではなかろうか。
僕は長きにわたる紆余曲折を経て、折れたり曲がったり沈んだり溺れたりしつつ、気付けばいつの間にか、どこに出しても恥ずかしい見事なオタクになっていた。
アニメやゲームなど、様々な作品に触れ、ありとあらゆる萌えを求めてインターネットを彷徨う亡霊となった。
中学時代のオラつきなど、見る影もない。
そして、ついに。
ついに、僕の人生のターニングポイントである2012年がやってくる。
僕の人生が、ようやく始まる。
2012年。
この年に何があったかと言えば。
そう。
歯磨きだ。
歯磨きが、旋風を巻き起こした。
衝撃だった。
日常的に自分の手で行われている歯磨きが、こんなにもいやらしく淫猥な行為だとは夢にも思わなかった。
まるで目が覚めたような気分だった。
なにかに目覚めたような気分だった。
インターネットの中は大騒ぎ。
どこを見ても歯磨き。
誰と話しても歯磨き。
歯磨き歯磨き歯磨き。
凄まじい光景だった。
もちろん、2009年に放送が開始された『化物語』の時点で、噂は聞いていた。
「何やら物凄いアニメが始まった」と。
全盛期のsupercellをEDに起用し、OPではサブタイトル毎に曲が用意されているという異例の力の入れ具合。
なかでも、恋愛サーキュレーションという、あの破壊的に可愛い伝説の曲が世を席巻していたのも印象深かった。
けれど、それでも僕の食指はまったくと言っていいほど動かなかったのだ。
いや、意図して動かさなかったと言ったほうが、これは正確なのかもしれない。
というのも、これは後にも語ることになると思うけれど、昔から僕は流行りものにはなるべく手を出さない畑で育った捻くれ思想人間なのだ。
そんな『流行りに屈するのは大衆に屈することと同義である』などと思っているタイプの厄介オタクにとって、当時のあの爆発的な流行りかたをしていた化物語は、真っ先に忌避すべき作品の筆頭だったのだ。
そしてもう一つ。
『声優一覧に釘宮理恵がいないなら、それはアニメ足り得ない』
そんな偏りに偏った思想を持っていたのも、僕が化物語にリアルタイムで触れられなかった要因の一つなのかもしれない。
(のちに釘宮理恵バージョンの恋愛サーキュレーションが出たときは可愛すぎて頭が破裂したが)
それが、そんな厄介な思想が、あの伝説の歯磨き回によってついに打ち砕かれたのだ。
阿良々木家長男のバカと、阿良々木家長女のエロに、打ち砕かれたのだ。
ありがとう、バカとエロ。
そして、僕は偽物語を観終わってすぐ、化物語へと物語を遡り始める。
そういえば、姉貴が持っていたあの本にも『西尾維新』という文字が書いてあった気がするな、なんてぼんやりと思いながら。
それが、僕のバイブルの総本山。
〈物語〉シリーズとの出会いだった。
昼夜問わず寝食を忘れ、貪るように原作小説やその他西尾維新作品を読み始めるのは、ここから更に一年後のことになる。
西尾維新の小説は、読めば読むほど面白かった。
心地のいい文章のリズム。
語彙選択。
登場人物によるウィットに富んだ会話劇。
テーマと、その裏にある別のテーマ。
その全てが僕の身体、換言するところの脳髄にフィットした。
カチッとハマる感覚。
これ以上身体に合う作家はもう他にはいないだろうと一瞬で確信できるほどの、それはカチッと具合だった。
実際、月間50冊ほど本を読んでいた時期があったのだけれど、どれだけ面白い作品に触れても、どれだけ上手い作家に出会っても、やはりと言うかなんと言うか、西尾維新の文章以上に身体に馴染む本や作家は他にはなかった。
特にリズム感だ。
どうも世間では『西尾維新といえば言葉遊び』のイメージが先行しているみたいだけれど、僕は彼の書く文章の最大の凄みは、圧倒的なリズム感だと思っている。
新世代ジャズっぽい。
要するに、目心地がいいのだ。
どれだけ文章が敷き詰められていても、活字疲れを引き起こさない。
疲れないから、ずっと読み続けられる。
などと言うと、「ということは、それだけ情報量が少ない(内容が薄い)ということなんじゃあないか?」
なんて斜に構えたことを言い出す向きもあるかもしれないけれど、そうではない。
そうではないのだ。
無論、文芸作品の読みとりかたなんて人それぞれであり、どう感じるかなんていうのは個人個人で全く違うものなのは理解しているけれど、しかしそれらをしっかりと理解した上でも「それは物語の表面しかなぞっていないからこそ起こる誤解なんだよ」と言わざるを得ない。
先に言っておこう。
僕はまごうことなき西尾維新信者ではあるけれど、それでも彼の作品を手放しで全肯定する盲目で敬虔な信者では決してない。
だから、少なくとも僕は「うるさいうるさい! 西尾維新先生の小説はどれも内容が濃くて全部面白いんだ!」なんてことは口が裂けても言わない。
たしかに彼の小説には、内容が薄い回もあれば、情報量が少ない回もある。
それは事実だ。
事実は曲げられない。
『読んでも読まなくても、それはどちらにしても同じこと』的な小説は実際に存在する。
というのも、西尾維新の小説には、いわゆるボーナスステージというか、彼一流のファンサ色の強い作品が多々あるのだ。
メインストーリーとは基本的に全く関係がない、毒にも薬にもならない"ただの水"のような短々編。
それを見て面白くないと感じる層がいるのは、まあそりゃそうだろうなという感じではある。
頷くほかない。
ファンでない人間にとって、ファンサービスなんてものは蛇足以外の何物でもないのだから。
必要のないオマケ、である。
ただ、それらオマケの回にも意味はあるという話だけはさせてもらいたい。
どれだけ内容が薄かろうと、どれだけ情報が少なかろうと、どれだけ本文が短い小説だろうと、必ずそこには意味はある。
どんな小説にも、意思があるのだ。
西尾維新という作家の根幹、根底にある想い。
作品に込められたテーマ。
短短編だろうとなんだろうと、西尾維新は結局ずっと、それだけしか書いていない。
それ以外のことを書いている作品を、僕はいまだに見たことがない。
それを深く理解するためには、一冊。
必ず読まなければいけない本がある。
この作品を読む前と読んだ後では、西尾維新の小説に対する評価は180度とまでは行かずとも、ガラリと変わるだろうことは想像にかたくない。
現に、僕もそうだった。
この小説を読む前から僕は西尾維新の書く小説が好きだったけれど、この小説を読んでから西尾維新の書く小説がより一層好きになった。
というか、"評価の位置がズレた"とでも言うべきだろうか。
ストーリーの面白さやコミカルさ、あるいは奇抜な演出などなど。
表面的な部分を読み評価していたところから、その裏面を読み評価するようになった。
その一冊というのがこれ。
『少女不十分』である。
少女不十分。
壊れた女児と、作家志望の変な大学生が、とある事故をきっかけに出会い、そして、出会うだけだった物語だ。
この小説をはじめて読んだとき、自分のなかの気持ちにやっと説明がついた気がした。
どうして僕は西尾維新の書く小説がこんなにも好きなのか。
そんな疑問に、明確な答えが出た気がした。
現時点で100冊以上の小説を世に生み出している西尾維新だけれど、彼はずっとこれを、飽きるくらいにこれだけを書いていたのだと気付かされた。
彼は、その一言だけを自身のテーマにして、物語を、『お話』を書き続けていた。
それは、僕なんかがここでこうして口にしたところで何の重みも持たないチープな言葉になってしまうような酷くありふれた言葉で、それこそ、言おうと思えば誰にだって言えてしまうような本当に簡単なセリフなのだけれど、けれど、彼はこれを言い続けるために何百万、何千万という文字を書き続けてきたのだ。
「いいんだよ」という、それだけのために。
「どんなにダメでも、どれだけ終わっていても、手遅れでも、取り返しなんて全然つかなくても、報われなくても、救われなくても、誰より不幸でも、誰より不遇でも、卑屈でも、偏屈でも、誰にも愛されなくても、誰も愛せなくても、どこか変でも、どこかおかしくても、異端で、傷んで、ずっと惨めでも、ひどくみっともなくても、全部滅茶苦茶でも、全部狂っていても、道を外れていても、間違っていても、脱落していても、堕落していても、破綻していても、まともな部分なんてひとつたりとも残っていなくても、それでも。
それでも、なにも幸せになっちゃいけないなんてことはないんだよ。
生きていてもいいんだよ」
なぜ僕は彼の書く小説が好きなのか。
それは、西尾維新の書く小説がとても、とてつもなく、優しかったからだった。
それからというもの、僕は以前にも増して彼の小説を読み漁るようになった。
リズム感がどうのとか、言葉遊びがどうのなんて、もはや一切考えなくなっていた。
ただただ浸かるように、読み漁った。
今まで手をつけていなかったシリーズや、ニンギョウがニンギョウのようなわけのわからない作品にも手を伸ばし始めた。
いや、ニンギョウに関しては流石に「よくわからないにゃ……」が先行してしまってアレだったけれど、それでもとにかくどれもが優しく、そして、生きていた。
ダメなやつがダメなまま、おかしなやつがおかしなまま、愚かなやつが愚かなまま、間違えたやつが間違えたまま、持たないやつが持たないまま、不幸なやつが不幸なまま、馬鹿なやつが馬鹿なまま、生きていた。
内容が薄かろうと、情報が少なかろうと、そこには変なやつが変なままに、生きていた。
それは、僕にとって何にも変え難い救いだった。
もちろん、自分が異端だとは思わないし、別段変わった人間だとはそりゃ思わないのだけれど、先にも語った通り、僕は昔から性格がねじ曲がった偏屈野郎で、そいでいて頑固で、呆れるほどの馬鹿で、ダメなやつだったので、というか、今でもそれは全く変わっていないどうしようもないやつで、だからこそ、そういうやつがそういうままに生きて幸せになろうとする物語に救われた。
読めば読むほど救われて、読めば読むほど報われた。
評価の位置が、ズレたのだ。
評価の位置が間違っていた。
だから、この一貫性に気付かず物語の上面だけをなぞって作品の評価をしている人には「それは誤読で、誤解なんだよ」と、そう言いたくなってしまう、というお話だ。
まあ、とはいっても、正直なことを言えば普通に無理だけどね。
少女不十分を読まずに、作者の裏テーマみたいなものにちゃんと気付くって。
いちばん名前の通った現在絶賛放送中の〈物語〉シリーズなんて、基本的にずっとふざけ倒してるし、それこそ先述したように、あの、ほら、歯磨きだし……。
いや、既に少女不十分を通っている身からすれば、実際のところ〈物語〉シリーズがいちばんわかりやすいんだけどね?
わかりやすく作家のテーマが表現されてる最高の作品なんだけどね?
主人公の阿良々木暦にしたってそうだし、彼を取り巻く少女や幼女や童女や、まあ、専門家連中にしたってそうだ。
生きていていい、幸せになろうとしないのは卑怯だ、どれだけ不幸でもハッピーエンドを目指すべきだっていう作家の思想がよく表れてる。
そこへいくと、やはり〈物語〉シリーズは、西尾維新入門書であり、同時に修了書なのかもしれないと思わなくもない今日この頃だ。
と、まあ何だかんだとここまでダラダラ語ってきてしまったけれど、いやいや、そろそろタイトルを回収しなければならない頃合だろう。
忘れてはいけない。
この記事のタイトルは決して「好きな作家を語ろう」ではなく「好きな作品を語ろう」である。
このままだとタイトル変更を余儀なくされてしまう。いけないいけない。
さて。
とは言ったものの、好きな作品か。
ありすぎて困る。
というか、正直なところ順列がつけられない。
いちばん読み込んだという点で言えば〈物語〉シリーズだし、いちばん最初に触れたという点で言えば戯言シリーズだし、いちばん心が動いたという点で言えば少女不十分だし、いちばん燃えたという点で言えば刀語だし、いちばん萌えたという点でいえば怪盗シリーズだし……。
ここまで西尾維新フリーク、あるいはクラスタみたいなことを語ってきたくせに、まだ読めてないシリーズも実はあるし……。
うーん…………。
まあ、でもやっぱり、この人なくして西尾維新は語れないよなあ……。
はい。
ということで、登場していただきました。
哀川潤さんです。
やっぱ結局はこの人かよって感じなんですけれど、まあ……仕方ないよね。
だって好きなんだもの。
とはいえ、つまり戯言シリーズが好きってことでいいのかと問われれば、これは否である
いや、もちろんそう言ってもいいのだけれど、ここではどちらかと言えば最強シリーズと言っておいたほうがいいだろう。
戯言シリーズから派生した、哀川潤の婚活異端冒険活劇。
ここで、知らない人のために哀川さんについて説明してとくと、まあ、その、なんだ。
とにかくなんでもアリな人って感じだ。
推理小説における探偵、怪獣映画における怪獣。
赤き制裁オーバーキルドレッド、死色の真紅、デザートイーグル、仙人殺し、嵐前の暴風雨、相棒殺し。
炎上するビルの40階から飛び降りても無傷。
ソウドオフショットガンのゼロ距離射撃を腹に受けても生き残る。
理由なき最強。
理屈なき最強。
いわく。
"哀川潤が踏み入った建物は例外なく崩壊する"。
つまりは、規格外で枠外で埒外の存在だ。
理の外に生きているキャラクター。
物語の外で息をしているキャラクター。
哀川潤が初めて登場する戯言シリーズという作品は、はじめ新本格推理小説だと思って読んでいたら途中から推理小説的要素が一気になくなってバトルとか殺し合いが始まったりする"ちゃんと読まないとよくわからない系"のシリーズなのだけれど、その"よくわからない"を引き起こしている原因というのが、哀川潤を含む『"お話"のなかに居るメタ的存在、"物語の外"にいる存在』なのである。
作中では『因果から追放を受けた存在』と語られていたかな。
要は、戯言シリーズという作品は、
"何の特殊能力も持たない一般的な推理小説の主人公"が紡ぐ『戯言シリーズ』という物語(世界)を、とある人物が「物語(世界)の終わりを見たい」という理由で壊しにくるというメタ構造たっぷりのシリーズで、そしてその小説の主人公の一番の味方、あるいは拠り所が『哀川潤』という物語の枠を超えたチートキャラなわけである。
いや、何を言っているかわかんねーと思うが、一応ありのまま起こったことを話しているぜ。
正直、自分でもわけがわからなくなってきている。
つまり、"本当になんでもあり"なチートキャラというわけだ。
そんな物語のルールを超えたバイプレイヤーのチートキャラが満を持して主役を張ったスピンオフ作品こそが『人類最強の初恋』を初めとする"最強シリーズ"なのである(伝われ)。
最強シリーズ。
先にも述べたような無茶苦茶なキャラクター性の哀川潤が大見得を切って主役を、のみならず、語り部をつとめる物語だ。
当然、その内容が理路整然としたものであるはずかない。
その内容が無茶苦茶でないはずがない。
第一話冒頭で世界中からハブられてみたり、かと思ったら宇宙人が飛来してきて世界中から頼られてみたり、と思ったら今度は月に飛ばされて月面を殴りつけてみたり、植物と戦ったり、人魚と戦ったり、挙句の果てには電子書籍と戦ったり……もう本当に意味がわからないし本当に無茶苦茶である。
けれど、それでいいのだ。
それがいいのだ。
哀川潤はそうでなくてはいけない。
そうでなければ、哀川潤は哀川潤たり得ない。
ここでわざわざ別作品の名前を出すのはややルール違反な気がしなくもないけれど、チェンソーマンよりマキマさんのセリフを借りるならこうなるだろう。
「哀川潤はね、やること全部がめちゃくちゃでなきゃいけないの。めちゃくちゃで、無茶苦茶で、突飛で、突然で、破天荒で、常識外れで、野放図で、傍若無人で、無尽蔵で、無制限で、尊大で、不遜で、自由自在で、自由気ままで、手前勝手で、前人未到で、前代未聞で、空前絶後で、最上で、最高で、最強でなきゃいけないの」
だから、最強シリーズは、哀川潤が主役を張る物語はあれでいいのだ。
あれで正しいのだと、心から思う。
言葉に重きを置かない人間からくだらないジュブナイルだなんだと揶揄されようが、この思いは揺らがない。
彼女の物語は、どう考えてもああなる他ないのだから仕方がないのだ。
人類がアリとは敵対しないように、哀川潤は人類と敵対しない。
歯牙にもかけない。
ならば何と戦うか。
何と向かい合うのか。
そりゃあ、宇宙人とか人魚とかガス状生命体などという"常識外"の存在と戦うしかないだろう。
SFと真っ向勝負するしかないだろう。
それが人類最強の請負人、哀川潤という規格外の超存在なのだから。
申し訳ないけれど、もう少しだけ語りを続けさせてほしい。
語り足りないからあとで追加で記事を書くなどということはあまりしたくないので、思いの丈を目一杯ここで吐き出させていただきたい。
さて。
我々には、個々人が思うヒーロー像というものがあると思う。
それは例えばMARVEL作品の誰かなのかもしないし、仮面ライダーや戦隊モノと呼ばれる作品群のなかの誰かなのかもしれない。
あるいは、身近に存在している頼れる人間なのかもしれないし、あるいは別の、ワンパンで敵を仕留める超越者なのかもしれない。
それが、僕にとっては哀川潤だった。
理想のヒーロー。
強くて、クールで、ニヒルで、傲慢で、孤高で、孤独で、いつもどこか寂しそうで、それでも常にシニカルに笑っていて、いつだってそこで眩しいくらいに赤く輝いている。
憧れのヒーロー。
実のところ、僕は元々この手のキャラクターがそれほど好きではなかった。
再三言うように、僕は自分でも自分が面倒くさくなるくらいには根がひん曲がった偏屈人間で、そもそもヒーローなんてものは道義や正義を笠に着て人を殴る異常者だとしか思っていなかったし、いわゆる萌えという観点で見ても、創作に登場する人物は可愛ければ可愛いほど良いと思っているクチの人間だったのだ。
だから、そんな僕がまさか哀川潤のようなアンチ癒し系、リバース和み系のキャラクターを好きになるなんて考えてもいなかった。
その価値観が明確に大きく揺らいだのは、戯言シリーズ第二巻クビシメロマンチストにおける哀川潤のとあるセリフを読んだときだった。
「例えばあたしを殺してみろ。安心しろ。それでも世界は何も動かねえよ」
心臓を緋色の弾丸でぶち抜かれたような気分になったのをよく覚えている。
戯言シリーズという、ひどく特殊な世界観のなかでも際立って目立ち、他の誰よりも圧倒的な力を有し、また強大な影響力を持つ哀川潤が、あっさりとこんなことを言ったのだ。
世界は何も動かない。
それくらいのことでは、何も。
言っていることは至極当たり前のことながら、どうにも身につまされる思いだった。
色々なことを考えた。
色々なことを、考えさせられた。
きっとあの瞬間から、哀川潤は僕のなかのヒーローになったのだと思う。
少しずつ、なり始めたのだと思う。
主人公のいーちゃんは「でも、どちらにしたってそれは戯言ですよ、哀川さん」なんて嘯いていたけれど、バッチリ刺さっちゃってたしなあ。
ここで改めて言っておくけれど、僕は戯言シリーズよりも最強シリーズのほうが好きだ。
『天 天和通りの快男児』より『アカギ』のほうが好きみたいなものである。
意外と多いのかもしれないなあ、この手の現象っていうのは。
タマゴが好きかニワトリが好きか。
まあ、これもやはり、"どちらにしても同じこと"なのかもしれないけれど。
結局は冒頭でも言った通り、西尾維新が書いた小説はどれよ基本的に、同等くらいに好きなのだから。
とはいえ。
いや本当、心の底から思うよ。
中高生の頃にどっぷりハマらなくてよかったと。
自我の露出を制御する方法を知らなかった思春期に、自己の増長を止める術を持たなかった成長期に、この劇薬、西尾維新に出会わなくてよかったと心から思う。
たぶん、哀川潤の言葉を真似して「我最強、最強ゆえに理由なし」とか言ってたぞ。
『職業・人類最高の請負人』
とかプロフに書いてたぞ。
ネットの中で『戯言遣い』とか名乗ってたぞ。
………………………………………………。
恐ろしすぎる……。
あまりにも恐ろしすぎる……。
あの日、姉が持っていたクビツリハイスクールを読まなくて本当によかった。
危ないところだった……。
姉は平気だったのだろうか……たぶん無事では済まなかったのだろうなとは思うけれど……。
いや、もちろん、もっと早く出会いたかったと思う気持ちが全くないかと言えばそうではない。
けれど、それにしたって適切な時期に、適切な距離で出会えてよかったと本当に思う。
間一髪、ギリギリセーフって感じだ。
これも、何かの縁。
あるいは因果ってやつなのかね。
だとしたら本当、上手いことできてるもんだよ。
と、いうわけで。
自由に色々、長々書いてきたけれど、いい加減一万字だ。
ここらで幕引き、閉店ガラガラである。
ご清聴ありがとうございました。
本当は物語シリーズやら刀語辺りに対する愛とかも書ければよかったのだけれど、いかんせん全てを書くには長くなりすぎる。
ので、それはまた今度ゆっくり。
現在放送中のアニメが完結したときにでも語るとしよう。
気の利いた化け物はそろそろ引っ込む時分である。
ところで、モンスターシーズンのキービジュアルに登場していた幼女の声優は誰になるんだろうね。
アニメ勢に配慮して名前やパーソナリティは伏せるけれど、あのキャラ、僕の予想というか、原作を読んでいるときに頭で鳴っていたのは悠木碧さんの声だったんだよね。
シャフトとの親和性もかなり高いし、戯言OVAでも玖渚友の声優務めていたから西尾維新適正もあるんだろうし。
果たしてどうなるか。
邪の道はヘブンまで!
追記
先生をつけろよデコスケ野郎!!
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