シンエヴァ感想3.0+エヴァンゲリオン大学卒業論文1.0
ー『我々は、再び何を作ろうとしているのか?』ー
この庵野監督による所信表明から始まった「エヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズ。2007年に第一作目「序」が公開され、つい先日長年の時を得て、最終作「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」が公開され、自分も初日に鑑賞し、当ブログをUPするまでに三回鑑賞してきました。
そして、9年弱在籍したエヴァンゲリオンという作品であり学校を卒業する事が出来ました。
まず初めに、この作品を完成へと導いてくださった庵野監督を初めとするたくさんのスタッフの皆様、キャストの皆様、作品に携わったすべての関係者の皆様、本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。
自分と「エヴァ」の出会いというのは中学一年の頃でした。タイミングとしては、「Q」が公開される少し前。金曜ロードショーか何かで新劇場版を観て、その世界観や雰囲気にエヴァパイロットと同世代でもあった故にシンクロ率はとても高い数字を持ち、そこから一気に歴代作品を視聴しどっぷりとエヴァへと浸っていきました。当然Qも劇場へ足を運びました。
そして、そんな作品群の中でも自分を特に引き込み、強烈なインパクトとトラウマを叩き込まれた作品が97年公開の「Air/まごころを、君に」。
当時の自分はその時期に流行っていた「まどか☆マギカ」や「けいおん!」などの影響で深夜アニメなどにも注目し始めていて、自分の中のアニメ世界が広がり始めていた時期であった。
そんな中でもエヴァ、旧劇場版から自分がくらった衝撃は凄まじく、量産機と弐号機の戦いはグロテスクな描写にも慣れていなかった自分には刺激的すぎる絵面で、量産機を見るたび体が震えてしまったり、腕から骨の見える全裸の綾波、次々と射殺され、LCLへと溶けていく主要人物たち、そしてなんといっても突如始まる実写シーン、「気持ち悪い」の一言を残し終劇のテロップが出るラストシーン。
まだまだピュアな中学一年にとって初めて見た時はまさしく作品内で絶叫するシンジと同じ感情、圧倒的な衝撃映像体験。
ですが、そんな衝撃映像は自分を引き離すことはなく、難解な作品だったこともありますが何度も何度も見返し、恐らく人生で最も観た映画であり一番好きな映画でもありました。
そして、自分の成長と共に何度も見返したり、当時の制作背景を知っていくと同時にこの「エヴァンゲリオン」という作品は監督である庵野秀明監督自身のプライベート・フィルムであることを理解していきます。
すると気付けば自分は監督の演出方法の虜になり、アニメ、実写作品、インタビューなど漁りまくり、エヴァンゲリオンを飛び越え、庵野秀明という一人の人間の存在に惹かれ、彼のことを愛するようになっていました。
エヴァンゲリオンを通して彼と会話をしている気分になっていたのです。自分自身、幼いころからウルトラマンや仮面ライダー、サンダーバード、鉄道、戦闘機、戦艦など彼を構成するものはほとんど同じく好きで、思春期の時点で他人とのコミュニケーションを苦手とする、そんな自分が大嫌いな自分になっていました。そんな自分にとって庵野秀明という男を他人のことのようには思えませんでした。
今回の「シン」の公開までおよそ九年弱という時間がありましたが、「シン・ゴジラ」所信表明でも語られたように「Q」の後にうつ状態になっていたのも知っていましたし、彼が学生時代に制作した「帰ってきたウルトラマン」も観ていたので彼の作る特撮映画ということで、「シン・ゴジラ」も初回で鑑賞し、素晴らしい作品でもありました。彼が気持ちよく制作出来るようならということでどれだけの時間でも待つことが出来ました。
そして、2019年の「0706作戦」において冒頭映像の公開、そして2020年公開と決定していたところに疫病の世界的流行により更なる二度の延期。そして公開10日前に急遽公開日発表。当然心の準備が一切できていなかったため、焦りに焦り、エヴァを含む庵野監督の歴代作品をざっくりと見返し、心と身体の準備を万全にしてシンエヴァへと向かいました。
そして、この「シン・エヴァンゲリオン劇場版」という作品はキャッチコピーであった「続、そして終。非、そして反。」「さらば、すべてのエヴァンゲリオン」という言葉通りの作品であり、この八年間の庵野秀明の赤裸々ドキュメンタリームービーであり、これを書いている過去の自分をも救済するフィルムでした。
・8年ぶりのエヴァ
まず、冒頭からパリを浄化するシーンでしたが、前日に「ふしぎの海のナディア」の30周年展示会に足を運んでいたのもあり、エッフェル塔での決戦はとてもアガりましたね。くるくる回る臨時戦闘型8号機、盾になるピアノ線で吊るされた戦艦、ハンドルを回しまくるマリ、4DX版は序盤が一番楽しかったですね。
冒頭の個人的な見解として、今回のキーパーソンであるマリがパリを浄化し、JAを手に入れる流れは、エヴァが作られたきっかけの一つであるナディアという作品において重要な聖地であるパリを救う=1990年の庵野秀明を浄化する。
そしてテレビ版エヴァオリジナル要素の一つであるJAを入手する、それによって過去の庵野秀明をマリが浄化していき、シンジを迎えに行く。ということなのかなとも解釈してます。
・待ちに待った続きと、最高のサプライズ
ここまではもう何回も擦りまくった10分間だったので、場面変わって「企画・原作・脚本 庵野秀明」のテロップと共にシンジ、アスカ、綾波の歩き続ける三人が出てきて、ここで「ようやくQの続きが始まるんだ!」という気持ちにさせられやはり興奮がすごかったですね。そして、3人を迎えに来た防護服の男性が聞き覚えある声で「お待たせ。久しぶりだな碇。」で頭混乱していつもの目覚めるカットからのトウジ!!!ケンスケ!!!委員長!!!
前作の時点では彼らは既に亡くなっている描写もあったので冒頭から完全サプライズで驚きと安心感で彼らを見た瞬間に涙腺が崩壊してしまいました。早い。みんな超いい大人になったんですよね。関さんと岩永さんの声の安心感も凄い。
トウジとヒカリが結婚してたのも嬉しいですし、ツバメちゃんに関しては是非とももう一度シンカリオンとエヴァにコラボしてもらって成長した姿を見せてもらいたいですね。
第三村というのはこれまでのエヴァの作風や雰囲気とは全く違う、昭和な雰囲気と自然あふれる村で人々が手を取り合い一生懸命毎日を過ごし、Qのディストピア飯とは違う火の通った美味しいごはんが出てきて、昔と変わらず優しい友達のまま、まともな大人に成長した友人たちが適度な距離感で疲弊したシンジを見守る。これまでのエヴァでは一切描かれず問題点でもあった、まともな大人と休息というのが長い時間をかけて描かれます。
また、8年ぶりのエヴァってことで戦々恐々と映画を見に来た自分も、生きていた友人たちや美しい自然のアニメーションになんだかうっとりするんですよね。果たしてエヴァを観ているのだろうかとか。
実際の話、庵野監督もQの後に壊れた際に向かったのは彼の師でもある宮崎駿氏の「風立ちぬ」でした。こちらの作品では「生きる」というテーマが強く描かれていましたし、ヱヴァQの後に田舎村へ行くというのも納得がいきます。
彼を支えた友人という意味でも、昔から変わらず情熱を持ち続け経営者としても動き続けるトウジには島本和彦先生の面影を感じますし、優しく見守りながらも仕事を与えてくれる友人としてのケンスケは樋口真嗣監督のことも思い浮かべました。
よくよく考えると、庵野監督は毎回エヴァを作るたびに壊れてしまうと話されていますが、製作期間という意味でも、TV版を作り終えて直ぐに旧劇場版の制作、旧劇場版が作り終わると「ラブ&ポップ」「カレカノ」と休む暇なく作品を作り続けていたので、今回制作に取り掛かれず休んでいた期間が恐らく今までで一番長いのもあり、「疲れた時は気が済むまで休んでよいんだ」という監督のメッセージも感じました。8年という歳月があったことにより、作中でもようやくシンジに対して優しさと休息を与えられたので、これに関しては映画を長い年月待ったことに対する意味を感じましたね。
あと、電車を家にしたり風呂にしたり図書館など施設にしてるのはめちゃくちゃ憧れますよね。
・現実を突きつけ、ヒーローでもあるアスカ
さて、アスカさんです。アスカさん、前回のQのラストからなんやかんやシンジの手を引っ張って歩き続け、今回はシンジに対しヌルヌル動く作画とカメラワークにより無理やり飯を食わすなど、死にたいシンジを”無理やりにでも生かしこの世に留める”という象徴としての存在にあります。
自分にとって辛いときや死にたいときにどういう存在に導かれながら生かされていたか。それはつまりニチアサヒーローの存在です。
日曜の朝にヒーローたちがいるおかげで自分は、日本の全オタクは生命を絶たずに済んでいます。(個人の見解です)
そして、庵野さん自身もシン・ゴジラの所信表明にて、「友人が続けている戦隊シリーズが特撮ファンとして心の支えになった」と申していたり、イベントで「エヴァQで壊れた後、ゴーバスターズ・キョウリュウジャー・トッキュウジャーに救われた。」と話しているため、今回のアスカの正体は間違いなくそれら戦隊の存在であると思います。それにアスカはレッドなので!(にしても鬱の時にキョウリュウジャーというのがタイミング良すぎる、嫌でもブレイブが燃え上がる)
(KREDIT(ヴンダー=船)からの支給品というのは「僕のアニメファンの源になっていた作品の新作」「ヤマト2199」で間違いないでしょう)
・綾波レイではない綾波レイの一つの解答・存在
話変わってそっくりさん、綾波。綾波、作品史上めちゃくちゃ可愛い生き物でしたね。個人的な話なんですが黒プラグスーツの綾波めっちゃくちゃえろくて好きなんですよね。黒プラグスーツ好きにはたまらなかったです。黒プラグスーツの田植え、、、最高すね、、、
「破」で綾波が一つ一つの感情を学んでいく姿を描かれるも、リセットされ、今回こうしてまた一から学んでいく姿はとても嬉しかったですね。綾波はフィギュアとしての存在ですが、そんな空っぽの存在でも一つ一つ学んでいけば唯一無二になるというのは素晴らしい表現ですし、後のゲンドウの「これはユイ(オリジナル)ではない!レイ(コピー)だ!」のように模造品しか作れない自分というのに葛藤し続けていた庵野監督がコピーとコピーをし続け、模造品を重ねて重ねた結果それが自分の色になった作風を最高の形で昇華させた「シン・ゴジラ」において庵野監督は恐らく自分の色を理解し、自分の知恵を振り絞り、ゴジラを凍結させることにより受け入れることができたのだと思います。
それが今回の綾波に現れているのではないかなと思います。そんな綾波がシンジの元を何度も訪れ、アスカに「アンタはファーストに好意を抱くように設定されている」と運命を決めつけられていても、綾波は「それでもいい」と受け入れ、「碇君が好きだから」というシンプルなセリフでシンジを再起させるのも良かったですし、破でのシンジとレイが逆になった関係も痺れました。
旧劇場版では愛に飢え「みんな僕に優しくしてよ!」と絶叫したシンジが今回は「どうしてみんなこんなに優しいんだよ!」と泣きながら叫ぶのも過去との対比、これも当時の監督の感情の対比でもあると思います。ここに来てシンジが自分への愛に気付き絶叫するというのはとても感慨深いですし、「世界の中心で愛を叫けんだけもの」「まごころを、君に」という最終回のタイトルが重なるのが良いです。
碇シンジという少年自体元々ポテンシャルもメンタルも物凄く高い人物でありながら、今まで彼に与えられなかった休息時間や自分を優しく見守ってくれる大人、自分の気持ちをぶつけられる相手、性的ではなく純粋な愛情がここに来て一気に与えられ、一気に回復していき物語を終劇へと導く存在になっていくというのも、始まって25年間の答えをも感じます。
そんなシンジの目の前から、限界が来た綾波は我々が見慣れた白のプラグスーツへと姿を変えながら、少女から教えてもらった「さよなら」という言葉を笑顔で伝えて消えていきます。思い返せば綾波がシンジの目の前で別れを伝えながら去っていくというのは勿論初めてなんですよね。エヴァ初号機に乗ったきっかけでもあり、初号機の覚醒などシンジの原動力の一つの要素であった綾波レイという存在が役目を終えたように消えていくのは、綾波としても今までで一番素敵な去り方でもあったように思います。また、別れの直前に名前の案を聴くも、「やっぱり綾波は綾波だよ」と「破」でのセリフが無駄にならなかったのも凄くよかったですね。
そして綾波が消えたことがシンジの最期の原動力となり、WILLEに行き、父と決着をつけることを決意するわけですが、トウジもケンスケも最後まで「無理に行く必要はない」と最後まで優しかったのも良いですし、それでも行くと決意した涙で目が腫れたシンジも最高です。
あと、本作の新キャラクターである加地リョウジくんはサプライズでしたね。声が個人的に好きな内山昂輝氏なのと顔面がミサトさんと加地さんの遺伝子が混ざってて大勝利ですね。シンジと同い年ということである意味兄弟であり、最後の友達という意味でも14年の時間を感じます。加地さんはやはり原作と同じ末路だったというか。原作ではミサトに対し電話で置きメッセージしか残せなかった彼が、今度は子供という形で一つの希望を残せたというのも良いです。
そしてヴンダーではシンジとリョウジのツーショットを見つめるミサトが「破」での自分がシンジに対し放った言葉への責任と罪悪感を感じて、シンジに対し冷たく接しながらも彼への愛情を捨てられていないという、時間はかかりましたが「Q」へのフォローが入ったのも安心しました。そしてミサトとリツコの関係性も成熟されていました。旧シリーズでは二人の関係がグチャグチャになったまま終わってしまいましたが、今回は二人が別れる最後の最後まで信頼が途切れず、リツコに関しては母親やゲンドウの関係なども髪を切ったことで”女を捨てた”という象徴になっているように無くなっていてある意味救われていましたね。個人的にはベリーショートの方が絶対可愛いリツコさん。
そして、マリに髪を散発してもらうアスカのシーンは個人的に今作でもお気に入りのシーンです。「見た目は変わらないのに髪だけは伸びるのは厄介。」「髪が伸びることは姫が人間である証拠だよ。」と。「髪には神も穢れも万物も宿る」というセリフ込みで好きですね。今作ではミドリが「誰のか分からない尿を浄化した水を飲んでいる」発言や、第三村のシーンなど今作では”人間の生きている証拠”としてのシーンも多く感じました。
いよいよの最終決戦ではやはり盛り上がりますね。これまでの新劇場版では「カレカノ」「ナディア」など監督の過去作の劇伴を再使用する場面もあったので、今回は「シン・ゴジラ」で入手した「宇宙大戦争マーチ」などの伊福部音楽を使ってくるのでは?などの予想を個人的にしていたのですが、予想を更に上に行った「惑星大戦争」の東宝特撮作品の劇伴を使用してきましたね。葛城艦長率いるヴンダーの戦いとこの劇伴の合わせ方には、「シン・ゴジラ」からの延長戦的な意味も感じつつ、オタク第一世代による最後の決戦のような意図も感じて熱くなりましたね。
世代ではない自分は「惑星大戦争」は今回初めて知ったタイトルなので、後日アマプラでレンタル視聴しましたが良い昭和特撮映画でした。こちらの作品を観てから当シーンを見るとヴンダーに対して、「いっけー!轟天!!!」とめちゃくちゃ楽しくなるのでお勧めです。
「冬月、後は任せた」と旧劇場版と同じゲンドウのセリフからの冬月VSヴンダーはオタクの妄想の具現化みたいで面白かったです。
当然ですが、WILLE対NERVという構図は独立したカラー(&TRIGGER)とガイナックスというのが反映されている訳ですが、この戦闘でミサトの「タイマン上等!」のカットなど明らかに過去のガイナックス的ノリが癖的に残っていたのがなんだか良かったですね。ちなみに”ヤマト作戦”なんですが由来はやはり宇宙戦艦の方のヤマトなのかと思いきや、庵野監督お気に入りの「ウルトラマン80」の”オペレーション・ヤマト”の説もあってまあどちらでも良いのですが。(笑)
ウルトラマンといえば、今作はガッツリ絡んでましたね。新劇場版のアダムは四体居て、それのモデルがマン、ゾフィー、セブン、ジャックですが、今作のゲンドウの計画で重要な舞台である”ゴルゴダオブジェクト”のゴルゴダの由来が最初パッと出てこなくて、流れてきたツイートで思い出したのですが、「ウルトラマンA」でヤプールが上記のウルトラ四兄弟を十字架に封じ込めた惑星が”ゴルゴダ星”ということで「やったな~!流石!!」と思いましたね。
そんなゲンドウは手だけではなく遂に人間やめましたね。ネブカドネザルの鍵すごいっすね。個人的にはミラーナイトとハカイダーがモデルなのかなと感じました。(思えばミラーナイトも最初は目を赤くして体育座りをした心を閉ざした状態での登場でしたね)デザインした前田真宏監督によると、『「目は魂の窓」ですから、もはや人間の目線を持っていない』最高だと思います。この一言に尽きますね。「預けていた初号機を返してもらう」と初号機を抱えた13号機の絵面もいいですよね。
そこに今回も旧劇場版同様、量産機にボロボロにされた弐号機の残骸が飛んできますが、前回ロンギヌスの槍を左目に貫通させられたアスカが、その左目の眼帯を外し覚醒と特攻をするのが対比としてかっこいいですし、眼帯の外し方が「トップをねらえ!」のノリコが左胸を破る演出にも見えて燃えました。というかやっぱり使徒封じ込めてたんですね、アスカ。
そして、ミサトに初号機に乗ることを決意するシンジを止めるミドリ、サクラ。新キャラの女子二人がここまで絡んできますが、”自分の親と生活を奪った敵である存在”と見るミドリと、”一度は自分を救った恩人であり、兄の親友でもあり、自分の両親を奪った英雄でもあり敵でもある存在”としてシンジに対しグチャグチャになった感情を持つサクラの対比はなるほどと。
そんなサクラに対し、「もうやめよう、明日生きてくことだけを考えよう」というところに着地するミドリも、自分と歳の近い存在としてもなんだか現代の若者を表しているところが腑に落ちましたね。
・母になれたミサトさん
視点変わってシンジとミサト。ここでようやく我々の知っている”ミサトさん”に戻るのが良すぎました。旧劇場版と対比になってるのが良くて、旧劇場版では「ここで逃げたら絶対アンタのこと許さないからね」「これが大人のキスよ。帰ったら続きをしましょう。」と上司であり、異性でありの存在としてと無理やり初号機に向かわせたわけですが、今回のミサトは”母”という存在に一括しており、"エヴァに乗せたくない母の気持ち"もありながら、自分から”エヴァに乗ること”を決意し進むシンジ。
シンジは第三村で「破」で加地さんに言われた「葛城を守ってほしい」という言葉を思い出したのがヴンダーに戻る決意の一つというもの良いですし、そんなシンジが本当の息子であるリョウジを「僕は好きだよ。」と純粋な”友としての気持ち”ミサトに話し、シンジの顔を抱きしめるシーンは本当に胸に来るものがありました。
新劇場版ではミサトから”性的愛情”の要素が完全に排除されているのが素晴らしい変化ですよね。それは恐らく、TV版の時はミサトのモデルとして、庵野監督が過去に付き合った女性の面影が強かったせいもあるからか、ああいう描かれ方になっているのでしょうが、今はその女性も一人の母親として生きているからというのも影響しているのでしょうね。
最後の最後に反動推進エンジンを使うと同時に髪をほどいて、僕らの”ミサトさん”の姿に戻るシーンはテンション上がると同時に安心感が沸き立ちますね。シンジに対し希望の槍を届け、息子の生きる世界を守る、”母親”として散っていく姿は本当に勇ましい姿です。
そして、マリに連れられ初号機へと向かうシンジ。マリが「13号機の中に姫が取り残されているかもしれないから救ってほしい。」「君がどこにいても必ず迎えに行くよ」と告げます。本作の冒頭にも全く同じセリフがあり、冒頭では低めのトーンで、”捕まえる”という意図も感じますが、再開し成長したシンジに対しては同じセリフでありながらも、”救済”の意志も強く感じました。
・碇ゲンドウ
初号機の中には「破」で助けた髪が伸び切った綾波がずっと守っていて、シンジが交代していよいよゲンドウとの最終決戦。エヴァンゲリオンで25年間描かれてこなかった”父との決着”。
シンジの記憶世界という虚構を前提に、ウルトラマンのDVDメイキングでよく見る撮影所を意識したセットにて初号機と13号機の戦い。予告では違和感あるCGの動きでしたが、撮影場面をそのまま流しているということだったとは思いませんでしたね。
夕日と街を正面に向かい合うという実相寺的、対話という意味でもメトロン星人的リスペクトもあったでしょうね。
にしても、ミサトさんの酒クズテーブルだったり教室内で「よーい、スタート!」みたいなノリで一騎打ちする両方は笑っていいのかどうなのか問題ですね。恐らくエヴァ史上最もコミカルなシーンですし、あれを再現したジオラマフィギュアとか出たら買ってしまいそうですね。
特撮リスペクトからはじまったこの作品が、最終的に特撮”現場”へのリスペクトへといくのも特撮ファンとしての恩みたいなものも感じます。ミニチュアの看板の中には庵野さんが関わる「アニメ特撮アーカイブ機構(ATAC)」の看板があったり、今作にもそういった文化を残していくという意思も感じますね。
・Rebuild of THE END OF EVANGELION
そして、ついにゲンドウが自分のことを打ち明け始めるというゲンドウの”心の保完”が始まると同時に、恐らく旧劇と同じ原画を利用したリリスが動き、CGになった巨大綾波が出てくることによって、「本格的に旧劇のリビルドが始まった!」と興奮しましたね。
ここでミドリが「なにこれ…絶対おかしい…やっぱりおかしいよ」と巨大綾波にツッコミを入れるシーンはもう最高ですよね。ついにエヴァ世界でツッコミを入れてくれる子が出てきたという。伊藤計劃氏が話していた
たぶんエヴァの悲劇、エヴァの弱さというのは、は巨大綾波を観て「うははは、でかすぎだろそれ!」と笑ってくれる観客があまりにも少なかったことにあるのじゃないか。あれが公開された夏を思い出すに、そんな気がする
長年の時を得てこれが回収されたのもありますね。キャラが突っ込んでくれたのとやたらリアルなCGのおかげであのシーンに対して突っ込みを入れて良いという風潮が完全に仕上がったのがなんだか感慨深いですね。
ゲンドウの話に戻りますが、ゲンドウが心に秘めていた感情だったりというのは元々知っていた通りの事ではありますが、今回はもう完全に赤裸々に独白していました。
ゲンドウ→シンジ→綾波→シンジ→アヤナミ→シンジという順番で捨て、拾ってを繰り返した唯一の父との繋がりの象徴であるS-DATを「拾ったものは返す」というセリフと共にゲンドウの元に帰ってくるのが物凄く丁寧なやり取りですよね。ゲンドウもシンジと同じく音楽で自分だけの世界に浸っていたと。シンジに対しATフィールドを出し拒絶してしまうも、父と話したいという気持ちとS-DATがATフィールドを突き破る演出も良いですね。
駅のホームで泣いているシンジのシーンは過去にゲンドウとの関わりが分かる数少ない印象的な場面の一つですが、ホームに戻りシンジを抱きしめ「すまなかった」と謝罪するシーンにはかなりグッときました。庵野さんが庵野さん自分自身を許し、抱きしめたとも見える。そして子供に向き合う事でその先にいるユイの姿をようやく見付けることが出来たのでしょう。旧劇では初号機に喰われながらシンジに謝罪をしていたのが今回は抱きしめながらってのがホントに良いもんです。
ようやく、最後の最後に親子になれたのかなと。25年かかってようやくゲンドウの保完が遂に終わり、それは1995年当時の庵野秀明の心の保完であり、父との和解を得た碇シンジの保完でもあると思います。
ゲンドウが心に秘めていた”孤独”というのは、”エヴァ”という作品に入り込んでいる人間、そもそも人間なら誰しもが持つもので、共感を覚えたという人も多いのではないかなと。もちろん自分もその一人です。自分も子供のころから友達少なかったですし、未だに他人の家に行くのは苦手ですし、めちゃくちゃ音楽で外の音をシャットアウトしてますし。
だからこそ、最後の最後にずっと自分を見下ろしていたゲンドウが凄く近いと目の前にきたというか、ようやく彼のことを好きになれた気がします。だからこそ、シンジを抱きしめ理解したときに”見えなかったものに気付く”というシンプルなところに行きつくことに何かを感じますし、「大人になったな、シンジ」というセリフの深みも、庵野秀明が庵野秀明を理解し、それを見ている僕らの目を見て話してくれて、僕らのことを優しく抱きしめてくれた庵野秀明。正直、今文章書いてて庵野監督とシンジとゲンドウがごっちゃになってわけ分からんことになってます。
さあ、そしてゲンドウとの対峙を終えたシンジはさらに前へ、「僕はもういいんだ。傷ついても大丈夫。僕よりもアスカやみんなを救いたい」とカヲルに告げ、彼も答えます。
「君はイマジナリーの中ではなく、既にリアリティーの中で立ち直っていたんだね。
この二つのセリフを聴いた瞬間に「ああ、本当にエヴァが終わるんだな」という感情になりました。イマジナリーの中では何度も立ち直り自分を受け入れるも、すぐに現実にやられてしまう。そんなシンジは”現実の中”で立ち直り、前にようやく進み、自分ではなく自分を支えた存在を救うという、これまでのエヴァではありえなかった展開なんですよね。
流れでは旧劇場版をなぞっていますが、やっていることは全然違う、まったく真逆の方向であり、後にアスカの話もしますが、”旧劇場版という過去の自分自身”、”これまでの自分自身”を救済し、それを許すという展開です。こんなの泣くんですよね。
アスカの話は後にするとして、アスカを救ったシンジは「次は君の番だ。」とカヲルの保完へ。カヲルという存在の保完というのも正直今まで考えられなかった展開です。カヲルはカヲルで、シンジを幸せにしたかった。何度もシンジを幸せにしようとし、何度もあの場所で出逢ったと。
ですが、シンジはカヲルに対し、「それは君自身の願いだ。」と告げます。シンジを救うことはカヲル自身も救うということに気付くんですね。一方的なエゴだったと。
カヲルは、シンジのイマジナリーフレンド的側面がありますが 「カヲル君が13号機にいたのは、父さんと同じ匂いがしたからだ」や、指令室に座るカヲル、ゲンドウと同じピアノ設定など、カヲルはシンジの理想の友であり、自分を包んでくれる優しい理想の父、もう一人のゲンドウという存在も感じます。理想の同世代の女性であり、母性の象徴の綾波との関係性もしっくりきます。
また、そんなカヲルのことを最初に救ったのも"仲良くなるおまじない"を与えたシンジ自身であったと。(あのシーン完全に劇場版セーラームーンRの衛とフィオレのオマージュですよね。イクニもイク二で庵野に救われていたのかなとも)
そして、今回制作に多く使用したというモーションキャプチャーを操作するリモコンを地面に置き、歴代エヴァンゲリオンのスーツが並べられたスタジオの中で二人きりになった綾波。旧劇場版でも二人きりのシーンでしたが、あの時は「それでも、世界に帰りたい」に対し、「エヴァがなくても生きていける世界を作る」と告げ、その背後に映写される旧劇で使用されたセル画の連続シーン、歴代作品のタイトルフラッシュ、それら過去のすべてをも受け入れたうえで新しい世界を作る。
『NEON GENESIS』
25年をかけたタイトル回収。そして、松任谷由実さんの「VOYAGER~日付のない墓標~」が流れながら天から舞い降りる大量のエヴァが人間へと戻っていき、世界が新たに修復され想像されていく。旧劇場版では人類が一つになっていく描写と共に緩やかなメロディでありながら自分と他人の恐怖を歌った「」とは正反対の描写でありながら、流れるのはユーミンの真っすぐで純粋でただただ優しい愛の唄。それと共に流れるシンジの「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン。」のセリフ。このシーンはホントに卒業式で仰げば尊しが流れて、生徒代表が想いを語っているような、無条件にウルウルしてしまう、そんな印象でした。
ソードマスターヤマトのように物理的にすべてのエヴァンゲリオンを碇両親を筆頭に串刺しにしていくのがいいですね。「父にありがとう、母にさようなら」ですね。
そして青い海、青い空の浜辺で体育座りのシンジ。作画から、色が抜け、原画になっていくという白紙、もうあきらめかけというタイミングでマリが迎えに来てくれました。そしてエヴァ8+9+10+11+12号機という”最後のエヴァンゲリオン”に別れを告げるマリでしたね。
・真希波・マリ・イラストリアスとは
さて、今回でマリの正体というのがはっきりしました。貞本版エヴァの通り、マリはゲンドウの同期でユイに恋をしている。マリというのは新劇場版から出てきた旧作には存在しないキャラであり、エヴァのキャラクターはほぼ庵野さんが作り上げた庵野さんの心の中にいる人物がモデルでありながら、マリは鶴巻和也監督の作り上げたキャラクターであり、”他人の象徴”という存在でした。マリが歳を取らないのも、ゲンドウ(実際の庵野秀明)と同期であり、自分の世界にはいない存在、違う世界の人物が庵野秀明のエヴァンゲリオン世界にダイブするために使ったアバターとしての意味もあると思います。
エヴァをゲーム感覚で楽しそうに操縦しているのも、いわゆるエヴァに詳しくないオタクが興味本位で「私もエヴァ乗ってみたい!」という感覚なのかなと。
そんな他人の象徴であるマリが最後に唯一取り残された真の自分自身であり、好きな人、ユイの面影があるシンジを迎えに行くという、やはり安野モヨコなのだと思います。
「破」での初対面シーンではシンジに対し「君いい匂いがする、私と同じだね」というのもシンジ(庵野)はオタクである自分に嫌悪感を感じている一方、恐らくマリ(モヨコさん)はオタクである自分を認めている、面白いオタクが好き、オタクを受け入れることが出来る存在なのかなと。そしてシンジのイヤホンを唯一強引に外したのも空からやってきてぶつかったからなので、その時点で外へ連れ出す存在としての伏線が張られていたのかと分かりましたね。
そしてマリは突然現れ突然去っていく風来坊的要素(鶴巻キャラでいうところの「フリクリ」のハル子、「トップ2」のララ)であるため風来坊といえばウルトラセブン!モロボシダン!なので赤い眼鏡=ウルトラアイをかけているのかなとも感じました。
旧劇場版の庵野さんのクレジット終わりのコメントで「このシャシンを再び終局へと導いてくれたスタッフ、キャスト、友人、そして5人の女性に心から感謝します」だったのが、シンエヴァのパンフレットではスタッフ、キャストに加えて「ファンの皆様、そして公私に渡り作品と自分を支え続けてくれた妻に感謝致します。」というのに旧作と新劇場版の違いがかなりハッキリ出ててますね。もうこれが全てを物語っているというか。
・Beautiful World -Da capo-
マリの「お待たせ。」のセリフと共に目を覚ますと、庵野さんの地元駅であり、今作のポスターの線路でもある宇部新川駅。大人になり、声変わりをして神木隆之介の声になったシンジはびっくりしましたね。そんな神木シンジのDSSチョーカーをマリが外すと共に「One Last Kiss」のイントロが流れると同時にマリの手を引き、外へと飛び出し、背景が現実世界へと戻っていきエンドロールが流れ幕が閉じるわけですが、いやまあ、最高の終わり方ですね。
旧劇場版での実写映像はストーリーが突如ぶつ切りになり一気に現実へと引き戻すようにザラザラした映像を流し観客席を見せつけたわけですが、今回は徐々に徐々にゆっくりと、心地よく目を覚まさせてくれているような感覚で、綺麗な街と日常、青空と海が映し出されエンドロールに入っていくという旧劇場版の実写映像とは全く違う実写映像で、純粋で何気ない世界の美しさを真っすぐにカメラで映していた印象でした。
この終わり方に対し、「オタクは結婚しろ、現実に戻れ」というメッセージを受け取っている方々も多いそうですが、自分としてはそんな意思は一切感じませんでしたね。
それよりは、「世界は美しい。君がどこにいても必ず見つけに来てくれる、そのままの君を受け入れてくれるマリアの存在を絶対に諦めずに信じろ。」という気持ちや想いを感じました。最終的には、こんな世界ですけど、それでも生きることや信じて待つことの大切さ、生きていく力、勇気を庵野監督から受け取りました。なんというか、このメッセージを抱きしめるだけでも、エヴァンゲリオンがなくても生きていけるような肌感覚で、ラストシーンの空気のような温かさを感じます。
何より、25年間庵野監督の気持ちを反映させ続けたエヴァンゲリオン、がこういったメッセージをシンプルに優しく送るというのも長寿作品ならではというか、ようやく結論を出せたのかなと。
「オタクのままでいい、でも現実も美しい」という最終結論があるからこそ、オタクであることを受け入れ、アニメ特撮のアーカイブ団体を立ち上げ、オタクとして「シン・ウルトラマン」を制作するわけですからね。
また、だからこその次回作である「シン・ウルトラマン」のキャッチコピーが「そんなに人間を好きになったのか、ウルトラマン。」というのにも一つの説得力であり、最終的な答えを感じます。
余談ですが、本作にはラストの宇部新川駅や国鉄、たくさん鉄道が出てきますが、今年刊行された「エヴァンゲリオンと鉄道」という雑誌を読んでいたのもありかなりすんなり入りましたね。この雑誌、鉄道興味なくてもめちゃくちゃ面白い雑誌で、ヱヴァの参考書としても間違いなく持っておくべき資料なのでおススメです。
旅と鉄道 2021年増刊1月号 エヴァンゲリオンと鉄道 https://www.amazon.co.jp/dp/B08LNKYH9B/ref=cm_sw_r_cp_api_i_MQ7H6GTXFE3Z1JYZ5XZ9?_encoding=UTF8&psc=1
・僕とエヴァとアスカ。
さて、ここまでは作中の話と庵野秀明監督のことを中心に話してきましたが、最後に自分とエヴァ、アスカという女の子の話をしようと思います。
自分自身、アスカというキャラクターが大好きで、そして最初に話した通り、「Air/まごころを君に」という作品がホントにホントに大好きで、大好きだからこそ何百回も観た作品なのだけれど、それに入り込んで観ているうち、ホントにアスカに対して申し訳ない気持ちがいっぱいで、ホントにアスカの事を考えると胸が苦しくて、だからこそアスカの事が大好きでもあり、顔を合わせられない、彼女に対して罪悪感の気持ちが存在する自分にとって複雑な存在。救ってあげることが出来ない存在。
今回、アスカの保完場面であの浜辺が同じ構図で出てきました。めちゃくちゃビックリしました。赤い海を観るとトラウマというか、正直また首を締めてしまうんじゃないか、また他人の事を拒絶してしまうのではないかと少しヒヤッとしたのだけれど、イマジナリーではなくリアリティーを乗り越えたシンジは彼女に対して「あの時"好き"って言ってくれて嬉しかった。僕も好きだった。」とヴンダー内でのアスカの告白に対しての解答を告げたのが、ホントにもうあの瞬間にボッロボロ泣いてしまいました。
そのアスカは今作のシーンの中でもトップクラスに美しく描かれ、インターフェイスが外れ、傷もなくなり、それは彼女自身の”エヴァに乗ることでしか存在を証明できない”呪縛からの解放でもあります。ようやくアスカに対して謝罪が出来て、あの浜辺のトラウマを克服できて、ホントに伝えたかった事を最後に伝える事ができた気がしました。アスカの傷は、好きな人の傷でもあり、自分自身の傷でもあったので。
「Air/まごころを君に、」に魅せられ、救われ、映画を見る度に自傷行為のような感覚を持っていました。それが楽しかったけど、心の奥底では泣いていたかもしれません。正直言ってホントにつらい映画です。オタクで夢ばかり見ている自分を否定し、それでも現実に戻ることを決断するも、結局は他人に拒絶されてしまう。自分自身を表現している映画。
だからこそ、海辺でシンジがアスカに対して放った言葉に対する、アスカの表情で全てが報われ自分が救われ涙が溢れたんでしょうね。あのシーン以降は劇場出てからも1時間くらいはずっと涙が止まりませんでした。
それによって、大好きな映画であり、大嫌いな自分自身を表現した映画の呪いを克服できた気がしました。自分自身の傷跡を優しく、それもシンジが、庵野さんが受け止めてくれたような感覚でした。
正しく"まごころ"を受け取れたような気がします。
アスカの保完はアスカの救済として完璧な救済だったと思いますね。クローン設定とかは置いといて、アスカのぬいぐるみは着ぐるみになり、ぬいぐるみに””中の人”が付く、それがケンスケなわけですが、個人的にケンスケめちゃくちゃ納得なんですよね。シンジは先にも話した通り、互いに幸せになる関係ではないというか、ぶっちゃけ似たもの同士ですから。
第三村での優しく適度な距離でシンジを見守ってくれてたケンスケを見るに、間違いなくアスカに必要なのもそういった適度に見守ってくれる存在なのは間違いないわけで。オタクとギャルは分かり合える一つの希望を残したようにも感じましたね。(そもそもシンジは少年の庵野監督であり、オタクとしての庵野監督はケンスケという解釈もあればそれはそういう…)
自分としては元々ケンスケ大好きだったのですが、今回で更に大好きになってしまったので二人に関しては大肯定ですね。幸せになってほしい。
さて、エヴァンゲリオンってなんだったのかなと。監督の気持ちや辛さを吐き出し、その気持ちや辛さは見ている人の気持ちを吐き出せる存在だったのだろうかな。
庵野監督の世代はコンテンツを大量に摂取し、育ってしまったが故にそれらを真似た模造品しか作れないという病。ですが、自分たち下の世代としては、模造品を重ねて重ねて重ねた結果、それは紛れもないオリジナルなわけで、それに影響された作品やクリエイターも無限にいるわけで。それがこの大きな作品になっているのもそうですし、そんな庵野監督の演出に出会わなければ恐らく自分は、マイティジャックにも謎の円盤UFOにも岡本喜八にも寺山修司にも出会えていなかったわけで、下の世代にも繋ぐ架け橋という意味においてもやはりかけがえないんですよね。
今回の映画としても、10代でエヴァに出会い、21歳の自分には凄く突き刺さる、新劇場版の所信表明でも話していた「今の若者に向けた作品を作る」という言葉通りの作品でしたね。ホントに今の年齢、この時期に観れたことが幸せだったなとただただ感じる、本作を一言で言うならここに尽きます。
恐らく、”庵野監督率いるスタッフが作り上げたエヴァ”を映画館という環境で見れるのは今後の人生でも恐らく限られていると思うので、まだまだ映画館には通うと思いますが、今回のシンエヴァでようやく自分自身、晴れやかな気持ちでエヴァを卒業できたと思います。
と言っても、”さようなら”はまた会うためのおまじない、もしまた自分自身エヴァに乗らなければならない時がくるのであれば、そういうことでしょう。
そんなわけで、何もかも包み隠さず全裸でこの作品を生み出した庵野監督、全裸でそれに対し答えたスタッフ、キャストの皆様、最高に気持ちのいい夢を本当に本当にありがとうございました!
私があなたと知り合えたことを
私があなたを愛してたことを
死ぬまで死ぬまで 誇りにしたいから
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?