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死を受け入れるまで~第三部~

第二部では、入院から治療、看取りへ移行するまで心の変化と覚悟を書いた。

死を受け入れ、看取りきる。

10月11日を境に大きく動き出すこととなる。

ルートを取れないなら、中心静脈からの投与も考えられたが・・・
祖母の実娘である母は、治療しないことを選択した。

つまり、看取りを選択したことになる。

この状態での看取りの選択とは、そう遠くない死へのカウントダウンを開始することである。

今日死ぬかもしれない
明日死ぬかもしれない
1週間後、もしかしたらまだ生きているかもしれない

ただ一つ言えるのは、経口摂取ができず、中心静脈栄養や胃瘻、経管投与を行わないと言うことは、近い未来必ず死がやってくることである。

家族がやることは決まっていた。
残された命の灯火に対して、穏やかにそして祖母が望むであろう最期の迎え方を、一生懸命支えていくことだけだ。

看取りの方針となった段階で、施設での看取りが決まった。

ただ、在宅医との面談は早くても17日であり、最短でも18日にしか戻れないと。

家族の皆が、施設に戻るまで生きてられるかな?
と思っていた。

ただ、戻る日は祖母の耳にも届いていたと思う。

母から点滴を外してからは見守るだけになったと聞いた。

方針が決まったところで、何もしないのはやるせないと思い、せめて水分はあげられないかと。

唇を濡らす程度はさせても良いか母から看護師さんに聞くように伝え、その日からガーゼを濡らして唇を濡らしてあげられるようになった。

その行為を見た施設の方が、
お孫さん(僕)がいつも買ってくる飴を舐めさせてあげたらどうですか?
と言ってくれた。

僕がいつも買う飴とは?
あめやえいたろうが売り出しているスイートリップのことである。

スイートリップ

晩年、流動食だった祖母にも安全かつ喜んで食べてもらえるお菓子だったので、帰省の度よく買っていた。
実際に喜んで食べているところを僕は見たことはないが話を聞いていたので、次帰るときは買って帰ろうと思っていた。

10月11日から点滴を止め、いつ亡くなるか分からなくなった。

本来なら今すぐ大阪に帰りたい想いがあったが、奇しくも東日本に甚大な被害をもたらした台風19号が接近しており、職場の近くに住んでいる僕は、いつでも出勤できる必要があった。

もともとは、15日当直明けで16日が休みだったが、台風の影響でシフトが変更となり、上司に状況を話し14日に当直明け15日を休みしてくれた。

10月14日はすぐに帰省した。
ただし、スイートリップとメロンのゼリー(祖母がメロン好き)を購入して新幹線に飛び乗った。

9月24日に続いての2回目の帰省

交通費なんて関係ない。
恐らく、このタイミングを逃したら生きて会える機会はないからだ。
この帰省の目的は、感謝とお別れを言うためだ。

覚悟を決めた帰省

病院へ直行し、祖母の穏やかな顔を見て、肌に触れて温かさを感じながら、生きているうちに再開できたことになんとも言えない想いが溢れた。

寝ていたので、お土産はお預け。

病院について2時間ぐらい経ったとき、いきなり目を開けた。

帰ってきたで!

っていうと、うんうんと、首を縦に振ってくれた。

焦る想いを抑えながら、ガーゼにみつあめをつけてあげるととても喜んで吸ってくれた。

その日は当直明けだったが、1祖母の付き添いで病院に泊まった。

2時間ごとに、訪室する看護師さんを見ながら、看護師さんの仕事に改めて感謝する機会となった。(病院で働いていてもなかなか見る機会がないので)

誰にも話していないが、付き添った日、夢に元気だった祖母が現れた。
何か話したような気もするがはっきり覚えてはいない。

一方で、3週間に及ぶ入院生活にかなり疲れ切っていた両親を休められる日を作れたのは個人的に親孝行だとも思っている。

ところで、ACPの基本は当事者の想いが中心となるが、このような状況下ではなかなか当事者である祖母の意思を知る由がなかった。(晩年アルツハイマー型認知症でほとんど会話できず、更に今回の入院後はかなり意識レベルも低下していた。)

しかし、定期的に訪室する看護師さんの対応中は病室を出るため、廊下で祖母の好きだったことや旅行の思い出、病状の進行など思い出話をしていた。

3週間近い入院生活となり、ひげや鼻毛や眉毛が伸びており、僕は気づけば鼻毛をずっと抜いていた。(きっと痛かっただろう・・・ごめん)

僕が何度も指摘してしまったので、翌日母が綺麗に剃ってくれた。

おかあちゃんは、常に綺麗にしていたな。
眉毛が薄いからしっかり描いていたな。

だから、最後まで綺麗にさせてあげたい。
と母が言った。

少し話は飛ぶが、施設に戻る日、綺麗に化粧をしていた。

そういえば、母は次のようなことを言っていた。

一日でも長く生きてくれるから、しっかり死と向き合えて心の準備ができる。準備の期間をくれてありがとう。

準備期間を目一杯使って、母は祖母へ手紙を書いたり、棺桶に入れる品物を揃えたりしていた。

看取りと心を決めた瞬間に、遺影の写真を決めたと言っていた。
一番いい顔の写真を見つけられて喜んでいた。

看取りのいいところは、残される人の心の準備期間を与えられるところだと思った。

もちろん、様々な思いが生まれる。良いことだけではない。

父は次のようなことを言っていた。

食事を食べさせない、点滴もしない、何もしない
見ているのが辛くなる

看取りについて知識を持っていないと、何もしないという行為が辛いと思ってしまう。看取り期は、必要以上なことをしないのが基本なのですが・・・
(僕の経験を含めて多くの方にしっかりと伝えていきたい)

話は戻るが、点滴を止めて日が経つにつれ、むくみが無くなった。
有り難いことに、痰が絡まることもほとんどなく過ごしていた。

ただ、目を開ける時間は1日10分も満たなかったように思う。

14日から15日にかけてできる限り祖母のそばにいた。
しかし、東京に戻る時間が刻々と近づく中、出発10分前に目を開けてくれた。

次はない。

またねや元気でな、長生きしてななど
言えなかった。

なんていえばいいのか。

施設に戻るまでは生きてほしい。
ネガティブな声掛けで寿命が縮まられても困る。

掛ける言葉が見つからなかった。

そして、僕は「ありがとう」とだけ言った。

おでこを合わせた。

その時の祖母は凄く嫌がった顔をした。

とても嫌がっていた。

これが最期になることを悟ったのか?

今日が最期になることを躊躇するほど、複雑な思いが湧いた。

しかし、後悔はない。

4人いる祖父母で唯一同居する機会があり、とても縁が強い祖母であった。
(アルツハイマー型認知症の祖母と一緒に暮らすことで、教科書で書いてあること以上に学ぶことが多く、現在は認知症サポートチームとして病院内外で関わる機会をいただいている)

3週間の間に2度帰省し、15日を最期の別れと選択した自分は間違っていないと思っている。

その後、当初17日の在宅医との面談が16日へと前倒しになり、17日に施設へ戻れた。

17日の夜は文明の利器を精一杯利用して、テレビ電話で祖母の姿を眺めることができた。

日に日に寿命の灯が消えかかっているのは感じた。

ついに訪れた灯が消える瞬間

18日の朝も無事迎えることができた。

しかし、この日は明らかに弱っていたと後日父から聞いた。
血圧も下がり脈も乱れ、四肢のチアノーゼが顕著に表れ、パルスオキシメーターで酸素濃度が測定できないことも度々あった。

しかし、施設に戻ってからは飲み込めるのなら、アイスなどもあげていいと言ってもらい、アイスやスイートリップ(みつあめ)を食べさせていた。

しかし、夕刻も過ぎたころ、みつあめを舐め、今日一日はもつかな?と思って、夜の付き添いの準備に動き出そうとしたら、父が祖母が呼吸していないと気付いた。
施設の看護師さんより医師を呼ぶこととなった。

最期の晩餐は、大好物のスイートリップ(みつあめ)を舐め、天命を全うしたそうだ。
これは、僕にとっても嬉しかった。

僕は連絡を受け、仕事を終えて帰省した。
大阪に着いた時には19日になっていた。

無言の再開

祖母とは3日ぶりの再会であった。
3日前と違うのは、温かいか冷たいか。

ただそれだけ・・・

ただそれだけなのに・・・悲しい

ただ、祖母の顔を見て救われた。

穏やかな顔、まるで寝ているようだ。

この顔を見て、ふと母を筆頭に選んだ道がきっと祖母も望んだ道だったのだと・・・

僕は仕事だったので、死に際には立ち会えなかったが、後悔はなかった。

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第三部を最後まで読んでいただきありがとうございます。

先日の台風15号及び19号で甚大な被害を受けた皆様にはお見舞い申し上げます。一刻も早い復興をお祈りいたします。

現在、私事で現地に伺う余裕はありませんが、この記事を読んで何か感じる方がいれば、形式上有料記事にしています。(無料でも全て読めます)
私の手元に入る分は全て被災地支援に使用させていただきます。

つたない文章ですが、共感して下さった方は宜しくお願い申し上げます。

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