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ASD母|今は末っ子を抱っこするのは1日一回だけ
手をつなぐ保育園のお散歩も、小学校のフォークダンスも、私は嫌いだった。
誰かと手をつなぐことが苦手だったし、それが楽しいとも思えなかった幼少期。
最近、私の子どもたちも大きくなった。
末っ子は、まだ抱っこが好きな年ごろかもしれない。
「子どもとのスキンシップは大切」——よく耳にする言葉だけれど、私にはしっくりこなかった。
なぜスキンシップが重要なのか、説明を聞いてもピンとこない。
自分の体感として「スキンシップが必要」と思えないため、その良さも、抱っこされる側の気持ちも理解できない。
私は、意味や理由がわからないものが苦手だ。だから、抱っこがとても苦痛なのだ。
「自分の子どもを抱っこしたくない親がいるなんて」と驚かれるかもしれない。
でも、それは決して愛情がないからではない。
「愛情」と書いたけれど、世間一般で言われる「愛情」は、私には備わっていない気がする。
この部分だけを切り取れば、「子どもが愛情不足でかわいそう」と思われるかもしれない。
でも私は、私なりの世界、私なりの常識の中で、精一杯の愛情を注いでいるつもりだ。
今は、愛をくれる子どもたちに愛を返すためにも、「世間一般の愛情とはどんなものなのか」をインストールしている最中。
インストールしなければ分からないほど、私には“普通”の愛情表現が備わっていない。
子どもたちには、「母親によって愛し方や接し方は違う。普通と違っていても、それは決して“愛されていない”ということではない」と伝えていこうと思う。
伝えなければ、「愛されなかった」と認識されてしまうことを、私も理解しているからだ。
以前は、「普通の母親ならこうするはず」と、無理に自分を合わせようとした。
でも、すぐにボロが出てしまう。
「ちゃんと子どもと接しなければ」と思うほどイライラし、パニックになり、めちゃくちゃになった。
そこで、「なぜ私は抱っこができないのか」、そして「普通の愛情表現と自分の愛情表現はどう違うのか」を、できる限り整理することにした。
自分と“普通”の間にある溝を埋めるのは難しい。だからこそ、埋められない部分とその理由を、子どもたちに丁寧に伝えるようにした。
(ただ、子どもが小さい頃にはそれができなかったので、どうしようもなかった。
そのことについては、また別の機会に書けたらと思う。)
すると、お互いの不安が少しずつ減り、無理をしていた頃よりも、抱っこの時間の大切さが分かるようになってきた。
もちろん、子どもは母親に「自分の感覚の中にある愛情表現」を求めるものだ。
それとは異なる形で愛情を示されると、混乱し、不安を募らせることもある。
だからこそ、そのあたりも慎重に大切にしながら、私と子どもたち、それぞれの感覚でスキンシップを捉えていく。
その重なりが、我が家なりの愛情表現の一部となるのかもしれない。
我が家の抱っこの時間は、朝、子どもが目覚めてトイレに行くまでの間だけ。
でも、その短い時間に、私たちなりの大切な時間が流れている。