人を、愛することができたらな、と思う

私は、他者を愛することが出来ないのかもしれない。

これは深刻な悩みだった。

そして他者を愛せないかもしれないという疑念が、私をどんどん孤独にしていった。
私が抱えていた孤独の大部分は、この「愛」をうまく扱えなかったことに起因していると、今になっては思う。


私にとって、友達と過ごす時間は苦痛だった。

先生の愚痴や、勉強の愚痴、流行りのYouTuber。
今日は暑すぎるだとか、寒すぎるだとか。
ネタはそれらのローテーション。
何が嬉しくて、こんな会話してなきゃいけないんだって思っていた。

雑談が面白くない。
リアクションが怠い。
面倒くさい。話しかけてくんな。

って、そんなことばっかり考えてた。

それでも、教室で友達が居なくて孤立することを、極度に恐れた。
何故だか分からないけれど、友達が居ないことは可哀想だと、すりこまれていた。

だから私には友達が必要だった。

友達が居ない可哀想な自分には、なりたくなかったから。

移動授業の時に、1人だと思われないためのカモフラージュ。
お弁当の時に、1人で可哀想だと思われないようにするためのエキストラ。
班作りの時に、1人であぶれて目立たないようにするための道具。

私にとって友達はそういう存在だった。

だから、友達なんて誰でも良かったのだ。

私が1人だと思われないようにするための要員であるから、表面上、仲良くしておけば役満だったのだ。


もし私に、友達と楽しく雑談をするスキルがあったなら、友達を道具呼ばわりするような拗らせ方はしなかっただろう。

しかし残念なことに、私にとっての友達と過ごす時間は苦行でしかなかったのだ。
私はうまく、友達との時間を楽しく共有することができなかったのだ。

そこから、だ。


ある一種の疑念が湧いてきた。

「私は友達を道具としてしか、見ることができていない。」
「じゃあ、友達も私のことを、道具としか見れていないのではないか。」

その疑念はじわじわと、私を侵食していった。

侵食する過程でどんどん、他の疑念も生み出していった。

「私は友達と過ごす時間を楽しいとは思えない。」
「じゃあ、友達も私と過ごす時間に苦痛を覚えている?」

「私は友達の話が微塵も面白くない」
「じゃあ、私の話も面白くない?」

私が友達との時間を楽しめなくなればなるほど、それは自分にも向けられた感情だと勘違いする、循環が始まってしまった。

段々と、自分の居場所がどこにも無いような心地がしてきた。

私は友達のことを大切にしたい、だとか、この友達とずっと過ごしていたいとか、そういったことを感じた試しが無かった。

友達とは苦痛の伴うものだと、心底思っていた。


そんな負のループの中で勝手に孤独に溺れかけていたけれど、私は友情に憧れていた。

楽しく友達と時間を共有している中高生の青春を羨んでいた。

USJのCMとか、ポカリのCMとか、羨ましくて、羨ましくって、大嫌いだった。

羨ましいと言っている割に、実際の自分は、友達と夏祭り行ったり、冬休みに友達と旅行したり、それなりに青春の形は過ごしている方だ。
多分、客観的に見たら、青春を謳歌している楽しそうなJKだろうと思う。




でもどんだけ形をなぞっても、心の底から楽しめない。

面白くない。

かけがえのない、青春の思い出になってくれない。

どうでもいい奴らと過ごした、どうでもいい夏になっていってしまう。

もう、虚しくってしょうがない。

どいつもこいつもどうでもいいって、思ってしまう。
そして思われていると思ってしまう。

友達と別れて家に帰った時の虚無が、辛くて辛くてしょうがない。
楽しくなかったと振り返るのが怖くて怖くてしょうがない。


この孤独から逃れる方法は、自分が他者を大切に思う感情を知ることなのだと、悶々とする日々で結論づいた。

私が他者を大切に思えないから、他者を愛することができないから、私がいつまでたっても他者との間に一線を引いてしまっているのだろうって。


ボカロで「愛されたい、愛されたい」って曲、いっぱいあるけどさ。
私は他者を「愛したい」

この人は自分にとって大切な人ですって、そう言うことができる、そう思うことができる人に、心底なりたい。

どうしたって、他人がどうでもいいんです。
自分と関わる人間のことを、大切に思うことができないんです。

人を、愛することができたなら、と思う。



つい一昨年まで私が抱えていた葛藤。
どれだけ友達と充実した時間を過ごしても、虚しくてしょうがないという慢性疾患を抱えていました。
人を大切に思えないからこそ、その人と過ごす時間に価値を見いだせないんですよね。
同時に、相手も、自分と過ごす時間に価値を見いだせていないんじゃないかっていう疑心暗鬼が顔出す。
誰かと一緒にいても、ずっと1人な気がしてしまう。
終わりがないです。

今でもその孤独に若干浸ってはいるものの、かなり孤独は緩和されました。

去年になってから、大切に思える友人に出会えたのが大きいです。
正直、友達と過ごす時間が面白くなかったのは、話題が悪かったからなんじゃないかと、今になっては思っています。
実存主義の話だったり、日本の近代史だったり、税金制度の話だったり。
少しアカデミックで知的好奇心がそそられる話題。
この手の話題が一番ワクワクするんですよね。
そういった話題を同じテンションで議論できる友人に恵まれなかったものだから、ずっとつまんない顔して生きてたんだろうなって今振り返ると思う。
今の友達の1人は、飽きもせず難しい話題を一緒に展開してくれます。
すごく楽しいです。
同世代の友達と過ごす時間の楽しさを知った今は、友達に抱くこの手の呪縛からある程度は開放されています。
未だに友達との時間が苦行ではあるけれど、まだ、前よりは幸福です。

友達を大切に思えないとか、大切に思えないとか悩んでいる人(いるかどうか分からんけど)に伝えたいのは、多分、それは自分の「愛せない」という性質の問題ではなくて、単純にその友達と話す話題が合わないってだけじゃない?ということです。

なんか、またひょっこりと自分は他者を愛せないのではないかっていう疑念が顔を出してきたので、文章を書く気まぐれを起こしました。

まだまだ、他者を愛することは、得意になれません。

他者を大切に思える人間は、幸せになるポテンシャルが高いような気がしてなりません。

どうして他人をどうでもいいって思っちゃうんだろうね。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?