ちょっと病院に行ってみたんですけど。
記録として通院メモをのこそう。
良い医者って何だろうなぁと思う。
長生きなんてしたくないという人間だから、極力自分からは病院に行かないで生きて来た方。
だから自分との相性の良し悪しや、所謂当たりはずれというものが分からなくて、こんなもんか。医師も医学は万能じゃないしな。って無理矢理納得しておく。
ただ産婦人科に限っては、妊娠出産のためにどうしても行かなきゃならないこともあって、今のかかりつけで5院目。
同じ産婦人科の看板をあげていても、こんなに医者の腕も方針も態度も違うんだなぁっていうのを体感したから、
そういうのを総合して、相性や当たりはずれ、ということを個人個人で選んでいくのだろうなと、なんとなくの理解をしている。
先日、いままで予約の段階で二の足も三の足も四の足も踏んできた、
心療内科/精神科を初めて受診した。
どこがいいんだろうってパブサしてもやっぱり良く分からない。
まずは通える診療時間と立地が最低限で、ホームページに説明が多くて、丁寧そうなところ?
そしてなによりまずは予約が取れなきゃ話にならないので、選ぶというより消去法。。。
どの診療科目にしてもそうなんだけど、もっとホームページに細かい医者の方針を書いて欲しいと常々思っている。
漢方薬推しなのか、そもそも薬はあんまり出しませんの人なのか、サクサク診察なのか、時間をかけて患者の話を聞くタイプなのか、患者から質問されると不機嫌になるお医者「様」タイプなのか、
そういうこと書いていてくれたら、最初からココ来なかったのに!っていうイラつきが減るのになぁ。
で、今回わたしが初診予約取れたところが、パブサした中で比較的よさそうな気がしたところだった。
良く分からないけど、最近は産婦人科や小児科にしか縁がないこともあって、親切すぎる対応に悪い意味で慣れ過ぎていたわたしは、
別になにも意地悪なことされたわけでもないのに、心療内科のナースって意外とドライなんだなぁと思ったのが最初の印象。
まぁでもそうだよな、過剰にやってたらキリがなさそうだ。
むしろ努めてドライである必要もあるんだろうな。
で、そのあとの心理士さんも絶妙な温度加減で話しやすかったなぁと思った。
お若い方だったんだけどすごいなぁ。
心理士って院出るか、大卒後実務経験積まないと受験資格ないんだったよね?
実力って年齢や歴と必ずしも比例しない、適性っていうモノは少なからずあるんだろう。
最初なのでまず生育歴などを順を追って話していく中で、
これはこの業界では当たり前のことなのかはわからないのだけど、
現在の家族についてに差し掛かったときに、生まれてこられなかった一人目の胎児の事を「一人目のお子さん」って言ってくれて、
戸籍上の正式な第一子である長女の事を「二人目のお子さん」って言ってくれて、そこでわたしはびっくりと、他人に認知された一人目に対しての報われたような(適切な表現がみあたらない)感じがして、
顔の筋肉が一気に緩んで泣いてしまった。。。
もうしっかり心拍取れてて、産婦人科医も元気だね、もう流産率もグッとさがる時期だねって言っていたけど、まだギリギリ死産の時期ではなかったから、当然分娩じゃなかったし、戸籍にも残らないし、連れて帰れないから葬式も火葬もない、祭壇やお墓的なものもない。
そもそも死産だったとしてわたしが一般的な葬祭の流れをやったかはわからないが、
だとしても本当になにもなさ過ぎて、この世界的には最初から存在しなかった命と同然で、自分の記憶と心だけが存在証明、みたいになっているのが割としんどいんだよね。
だから不意打ちで、生まれてこられなかった子を第一子としてカウントしてくれたことに、うああああーーーーーーーーってなった。
つらいこと掘り起こして聞いてしまってごめんね、みたいな声を掛けてくれたけど、そうじゃなくて、どちらかというと嬉しさや感情のドアを自分から開こうかという心の動き?なのかな。
なんか、これだけでも病院に来て見てよかったって思った。
とはいえ、やっぱり全然しんどくないわけではなく。
それまでは自分の成育歴を、うだうだ言っても仕方ないんことなんだとか、自分にも責任があったんだ、親だって致し方無かったんだ、って割り切ってというか、
自分を騙し騙し受け入れられたように錯覚させることで、
脱塔後希望も持てない余生、人生のアディショナルタイムをどうやって生きるか?に渋々立ち向かってこられたというのに、
自分が長い時間かけて迎えたいと思った子どもが、生きる事を許されなかったことで、
親にとって子育てって何だったのか?
わたしの生きて来た道程や命の意味、
死ねそうなチャンス(危機ではなくあくまでチャンス)はいくらでもあったのに生かされ続けた理由、
命の価値って同じじゃないよな、
宗教を学んでいたのにコレか?
そういう問題をなかったことにしては、わたしは平穏に生きていけないのだって分かったし、
改めて母、そして実家は悪い意味で普通じゃないこと、そこで育ったわたし自体が謎の生物なんだって思い知る出来事になってしまったわけだから、
わたしがなんで今こんなかんじになっちゃってるのかに対して、大きな要因であったことは間違いないんだもんな。。
で、肝心の?医師は、ちっちゃいおじちゃんだった。
外見は関係ないはずなのだけど、先入観ってこわいもので、
自分が知ってるクソみたいなおっちゃんと背格好や顔が何となく似ていたので、なんとなーく、この人で大丈夫なんか???って少し不安になった。
当たり前だけど、会話が始まったらそのおっさんみたいなヤバそうな感じは全然しなくて、
初診だったことや、予診票に①仕事②親③宗教④子ども、大きく4つの事を書いたので、わりとゆっくり、かつ問題を分けながらの問診をしてくれたのかな、という印象。
③に関しては、かつてエホバの証人の子どもを診た経験があるとのことで、
宗教の問題は一筋縄ではいかぬのだという理解で、時間と回数を重ね慎重に進めていきたい。
そしてまずは体調を回復させることと、過剰な感情の起伏、その前提にある常に重く考えすぎている思考回路を、良い方向に持って行って、
日常生活を立て直す、その次に難しい問題(宗教や親のこと)に立ち向かえる心身の体力をつけること。
そうしないで解決を急ごうとするとぶっ壊れるから(意訳)っていうような方針を語っていた。
意外?だったのが、わたしってよく、他責!言い訳ばっかり!保身のための屁理屈野郎!って言われがちだし、自分自身もそういう人間だなーという理解だったのだけど、
何回も、なんでそれを自分のせいだと考えたの?とか、それってあなたのせいじゃないよ?それどころかあなたが考えたり悩まなきゃいけないことじゃないよね?って言われて、
要はアドラーで言うところの、自分の課題/他人の課題、って言う部分の区分けをする事を意識して思考パターンを変えていこうって指摘だった、びっくりした。
でも、本当にそれでいいのか?って思いが未だに拭えない。
確かに過度に自己責任と言われる時代や国民性ではあるけど、
人のせいで終わってたら自分って成長できないんじゃないか、
人任せでは状況の打開も自分の運命も人任せじゃないか、
人のせいな事象にしても、他人事だからわたしは知りませんは冷たすぎないか、とか。
そんなの完全に区分けしないで、時と場合によりってできるのが自他境界線のちゃんとある大人の思考回路なんだろうなぁ。
そういうの、わたしはうまい匙加減というものがわからない。。
というかんじで、この先生が自分に合っているのかとか、医者として有能なのかは全くわからない。
が、特別ムカつく対応もなく、不信になるほどの材料もなかった。
同じように医者だって、初見で患者の事が全部見通せるわけはないし、
何回かは同じところに通ってみようかなぁと。
あとエホバの証人の子(二世なのか三世なのかとか細かい事は不明)を一度でも診た事がある人だったのが、ちょっと心強い?かもしれない。
別な医者に行ってみようと思ってもまず、一番近い病院が初診が6カ月先です!とかなので、現実問題同じところに通うしかないっていうのもあるのだけど。。
お薬さ。。
一回飲んだときの体の状況がすごくて、これ飲んでたら日常生活送れないってかんじだから自己判断でストップしたけど、
でもやっぱり負の感情が内向きで済んでるときはまだいいが、
外に向かおうとしているときは飲みたくなるんだよね、
自分の頭と体の電源を強制終了させてしまえば他害する事はなくなるわけだから。。
でも飲んだ時の、頭がふわふわして思考がまわらときのあの感覚はすごく気持ち悪いんだよなぁ。。
それなのに飲みたくなるって、大丈夫なのかって思うよね。。
慣れたら秒で飲むようになりそうとしか思えない。
ここまで書いた後に流れて来た話なんだけど、
カウンセリングって医療行為ではなく保険適用外だし
精神科医の仕事=適切な薬を選ぶ、病名を推察する、
そのために問診するのであって、カウンセリング自体は心理士の仕事、
日本の今の医療システムはそういうことらしい。
たしかに行った病院のホームページには、カウンセリング予約が別枠であって料金も書いてあった。そういうことか。
じゃ、薬の使用は最低限にしたいなら、カウンセリングメインで予約取った方がいいってことなのかー。
医療の事以前に、自分自身のことがわからないから、わからないことがわからない。
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