わたしとわたしの往復書簡

注)
この記事はわたしの一世的思考に触れている部分が大きいため
二世の人が読むと言い訳がましいと感じられて精神を害されるおそれがあります。
且つ、わたしは一世とも二世とも言い切れない人間であり、
一世の思考を代表するわけでもなければ、これが一般的な考え方ですらないはずです。

一世性と二世性が自分自身のなかに共存するという自己矛盾への整合性のためにアウトプットする必要があるだけで
多くの人から読まれたいとか共感や慰めが欲しいのでもありません。

なので読み進めることをおすすめもしたくない、
けどわたしのような、カテゴリ分けするなら1.5世とでも言うような、
母数の少ないであろうタイプの人に出会えたとき、何らかの化学反応があるのだろうか?という興味を理由に公開記事としています。




いつもは自分が二世ゆえの問題についてばかり考えているから
最近わたしのなかで解像度が高まりつつある、自分に存在する一世性について棚卸ししてみる。

https://twitter.com/tomato2mk/status/1750143590570004883

わたしって二世なんだろうか?
長年半信半疑でありつつも、わたしは狡い人間なので、
それ以上突き詰めて考え答えを出そうとすることを保留にしてきた。

母親がいまも現役で、多くの二世が強いられてきたライフスタイルを、
子どものころのわたしも受け入れなければ生存できなかったのは事実で、
精神的・肉体的虐待により支配を受けていたという意味ではわたしが二世だと言える側面は多分にある。

と、自己弁護したところで、それだけではないことは自分が一番知っているのだから、救われるどころか空虚なだけなのだよね。

わたしがどれだけ二世としての人生があろうと、

わたしが発端で我が家にエホバの証人が入り込んだこと。
わたしが母より先に研究も始めたし集会にも行き始めたこと。
誰に強いられたわけでもなく母に気に入られるためでもなく、自分が学びたいと思って研究を始めたこと。

その事実はなかった事にはならない。

結果家族、特に妹と弟の人生を大きく変えたという因果も、消えることなく永遠に存在し続ける。

過去は変わない。


他の人が、その決定をしたときあなたは分別のつかない5歳だったでしょうとか、止めなかった親の責任だ、などの言葉で慰めてくれようとしたとしても、
その気持ちはありがたいし、もしわたしがその立場なら同じように客観視して同じような言葉を掛けるのだろうとも思うが、
それを鑑みたとして、誰の人生も巻き戻らず、過去は変わらないわけだから誰も救われることがない。
あなたは悪くないよって他人に言われてわたしが一瞬逃避できる程度のことだ。

「他人に言われて」と書いたけれど、わたしは妹や弟に責められているわけではない。
というのも、二人とも長姉のせいで自分たちが宗教二世な人生を歩かなければいけなかったと理解せずに育ったから。

わたしとしては、そんなこと周知の事実だと思って今まで生きて来たし
そんな都合の悪い話をわざわざ折に触れて話すという事もしなかった。
こういう言い訳をすること自体、狡いよな。

ただ、当然知っていたと思い込んでいたことは本当で、
そうではないということを知ったのは昨年、わたしが実家と一旦距離を置く必要があることを報告した際に、事の経緯を話す中で
何故我が家にエホバの証人が入り込んだのかを知らなかった!そうだったのか!という反応を二人が示したから。
あなたたち、知らなかったんかーい!!!って逆にわたしもびっくりした。

経緯を知ったうえでも、二人はわたしを責めることは無かった。
逆に擁護された。

子どものころに知っていたとしたなら、思いっきりわたしのことを責める事ができたのかもしれない、子どもは正直だしストレートに物を言うからね。

それが人として本来正常で、妹や弟が、亡き者になった幼少期の自分へのグリーフケアをするうえで必要なステップだったはず、そうわたしには思える。

が、既に良い大人だし、それ以前に生育歴に縛られずそれぞれ自分で人生切り拓いてきた二人だ、過去がどうであれ今更人のせいにするという考えはないらしい。

弟は親を反面教師に自分を律して生きて来たことをわたしは知っているし、
妹は「宗教関係なく人生は不平等だ、それが自分の場合たまたま宗教であっただけだから、それを言い訳にするのは違う」と言った。

甘ちゃんだった妹がそんなことを言えるようになったのか、とも思ったし
そんな使い古されたような一般論を言って自分は乗り越えたと言っているようじゃ、まだまだ自分の感情に蓋をして見ないようにしているだけのような気もしてこれからに不安が残るなとも思った。

二人がどれだけの葛藤と納得を経たうえで、過去のせいにしても仕方ないのだという境地に辿り着けたのかが今のわたしにはまだ見えていない。
臭い物に蓋をしているだけか、諦めただけかもしれない。

それは妹弟それぞれの課題ではあるが、わたしに発端がある以上はわたしの問題でもある。
なにがどうなれば解決するとか救われるという次元の話ではなく、生きている限りはずっと終わる事のない問題。
仮に二人が人生において大成功したとして、それは二人の努力の結果である以上のものではないから、わたしが何かしたわけではなく、わたしが救われるとか許されたという話には結びつかないから。

交通事故起こして、業務上過失致死傷だった、
その日はたまたま普段通らない道、時間帯、疲れていた、急いでいた、
急に無理に車線変更してくる車がいた、
わざとじゃないけど被害者の人生を大きく変えてしまっただけだ、
だから仕方なかったんだって、
仮に被害者が言ってくれたとしても、加害者が自分から言うなんてあり得ないこと。

それと同じ。
つまり答えも解決もない話、それがわたしの中の結論。

語弊があるけど、交通事故のほうがまだましかもしれない。
不可避な状況だったり、償い切る事はできないにしても、金銭を以て一定の償いをする事が許されるから。

宗教始めます、は不可避ではないし、わたしは刑事民事で裁かれることもなく、妹弟から責められることすらない。
過ちを許されている、というわけでもないが、結果として無罪放免されていて、償うことで自分ができることをし尽くしたと感じる事も許されないということ。

償ってもいないのに許されてしまうとか、償う機会も与えられないということは、どこにも逃げ道のない最大の罰のように思う。
実際、どのように償ったところで人の人生は取り戻せないのだから、それが正しいのだろう。
人の人生を壊しておいて、許される道があると思う方がどうかしている。

あれはいくつの頃だっただろうか、
それを分かったときから、自分の人生は自分のものではないのだという理解になった。
わたしが先の未来だとか、人生を取り戻すだとか、何かやりたい事や成功を夢見ることがないのはそういうこと。
単にハルマゲドンを刷り込まれてきた弊害で未来を見据えた生き方が分からないというだけではなく。

わたしが生き続けることに何らかの意味を持たせたり、すべきことがあるとしたら、償う術がない以上は悔い続けることだけであって
楽しく生きたい、苦しさから逃れたい、夢を持ってそれを叶えたいという意識を持つのだとしたら、他人や妹弟が許してもわたしはわたしを許せないだろう。

そういう生き方、人生の目的ってそんなにおかしい事だろうか。

卑屈。
ネガティブ。
過去を言い訳にして努力する事を放棄している。
自分軸が無い。

そう他人に評価されることは少なくない。
当事者でない人からの評価は重要視していないものの、間違っているのだろうか?被害者にとっての最適解は他にあるのだろうか?という疑問が、
頭の端っこの方に、くしゃくしゃに丸まって落ちている。

それを時々、邪魔だなと思って拾ってはゴミ箱に捨てることもできず、かと言って仕舞い場所も見繕えず、
そしてまた時々誰かがそれを拾い上げては、片付けろとわたしに突き出してくる人がいたり、その球で楽しそうにキャッチボール遊びがはじまったり。

なんだろうなぁ、わたしには何がおもしろいのかさっぱりわからないのだけどなぁ。
そうやって今日もまた、自分と会話するテーマが生まれて、あーでもないこーでもないを繰り返していくんだよ。

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