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そうだ、山に行こう~地元の低山で考え事~

昨年12月。
精神的にも身体的にも調子を崩し、休みの日は布団と仲良ししていました。
もう山に行けないんじゃないかと思うぐらい、起きるのが辛かったです。

さて、2025年になって。
「自分が最低の人間である」という感覚が強く出ていました。
そう考え始めると、もう布団の中から出たくない。
けれど、買い物は行かないといけないし、職場の買い出しもあるし。(これがかなり余計。業務時間に買いに行っても自分の残業が無くならない)
何ならメルカリでグッズが売れたので、それも投函しないといけない。
ぐずぐずしていたのですが、びっくりするぐらい天気がいいので、「落ち込むぐらいなら山に行こう」と、ザックに適当に荷物を放り込んで出かけてきました。
お昼ごはんどうしようかなぁ……メスティン持って行ってうどん? 米持って行って炊いてカレーライス? カップ麺飽きたんだよなぁ……
うんすか悩みつつも、今日はお手軽ハイクと割り切って、ストックからカップ麺を放り込みます。
向かうのは地元の低山。
多少雪が積もっていても、雪遊びがてらにみんなが遊びに来るので、安心して歩ける山です。
少し遅めのスタートでしたが、雪はまだ硬く、10m歩いて「これは駄目だ」とチェーンスパイクをつけました。
久しぶりに歩くものですから、20分も歩けば完全に息が上がりました。
それでも、頭の中にはネガティブな自分がいます。

先日、「自分がボーダーなのでは?」という思いを書きました。
被害者ぶる傾向が、私にはあります。
誰も悪いわけじゃないのに、私可哀想という被害者意識。
金曜日もそれが顕著に出てしまい、すごく自己嫌悪をしていました。
かといって、お酒にも逃げられず、思いを吐き出そうものなら「毒ガス」と言われ、モヤモヤモヤモヤ。
雪を踏み締めていると、ふと、思います。

「可哀想って思われるのって、気持ちのいいことなんだろうか?」と。

ボーダーの人は被害者意識が強いと言います。
「私ってこんなに可哀想なの!」というアピールするのは簡単です。
それで、周りに同情されて「可哀想だね」って言ってもらって、本当に意味があるのかなと。
もっと飾らない言葉でその時思ったことを書くと、「可哀想だねって、「貴方馬鹿だね」って言われてるんじゃないのか?」と。
「仕事押し付けられて可哀想だね」という言葉。
言い換えると、「仕事押し付けられて、断れないなんてアンタ馬鹿ぁ?」と変換できるのでは?と。
断ったっていいんですよ、仕事。だって残業代出ない残業して、効率化しようとしても実行する前に押し込まれて。
物理的に無理なら、きちんと理由を説明して「出来ません」というのも大事なことではなかろうか?
負けず嫌いの私にとって、必要なのは「可哀想だね」という言葉より、「そんなこともできないの?(挑発)」だったわけです。

そう思ったら何となく腑に落ちました。(この間だいたい30分)
明日からまた頑張れそうだなーと山頂を目指しました。

歩いていると、ふと落ちている枯れ葉が「綺麗」と思いました。
そういう目に留まったものを、「ま、いいか」となかった事にしていた気がします。
今日は、きちんとカメラを向けました。
私がきっと「綺麗」と思ったのは、そこに何かを感じたから。
なら、撮れるまで粘ってみようかなと。
写真に対して、少し前向きになれた気がしました。

山頂には何組もグループが来ていました。
さすがに寒いので風よけがあるところでお湯を沸かしました。
ザックの中にあるはずの割りばしが見つからなくて、「まずい、これは食いっぱぐれるのでは……? 下山まで持つかな……」と焦る場面もありましたが。
寒い中歩いてきた後のカップ麺はやはり格別に美味しい。
街で食べる600円のマックより、山頂で食べる108円のカップ麺です。(※偏見です)
お腹も満たされ、心も癒され、血流も良くなったところで、意気揚々と下山をしました。

山登りってすばらしい。山はすべてを解決してくれます。


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