ソシュール(2)示差性と恣意性

差異

 ソシュールは言語をラングとして見ることよって分析した。そして見出されたのが、言語の体系である。

 言語学では、体系の中にある個々の要素を「辞項」と呼ぶが、辞項はそれ自体で実体があるのではなく、その他の辞項との関係において存在しているにすぎない。
 つまり、言語体系にあっては、辞項は相互依存の状態にあり、関係こそが存在を成立させているのである。

 関係性において特に重要なのが他との差異である。ある辞項が他の辞項と同一である場合、2つに分ける必要性がないので、自ずとどちらかは消えていく。
 よって、ある辞項が存在することは他の辞項と差異があるためであり、これを言語の「示差性」と呼ぶ。

 この示差性から辞項は、自らを含む言語体系独自の構造に応じて守備範囲を決められ、固定される。よって辞項そのものが絶対的な意味を有しているのではなく、すべては言語体系が恣意的に生じさせる事柄に過ぎず、これをソシュールは言語の「恣意性」と呼ぶ。

シーニュ、シニフィアン、シニフィエ

 言語体系によって恣意的に決まる辞項は、簡単に言ってしまえば言語記号である。石、木、川といったものはすべて辞項である。

 ソシュールはこうした言語記号を、2つの面からなる二重の存在であると考え、一方をシニフィアン、他方をシニフィエ、両者を含む全体をシーニュすなわち記号と命名する。

 シニフィアンは能記と訳されることもあるが、言語記号の音声面を表す。
 シニフィエは所記とも訳されるが、言語記号の意味面を表す。

 石という言語記号を例に出せば、「イシ」という音がシニフィアンであり、「石」という概念がシニフィエにあたることになる。

 辞項が言語体系によって恣意的に決まっているのであるから、当然シニフィアンやシニフィエも恣意的に決められている。

 よって石における「イシ」という音と「石」という概念の間には何の必然性もなく、ただ言語体系における示差性によって決められていることになる。

 私たちが世界を分析的に見るとき、当たり前のように使うのが言語である。つまり、私たちの世界の見方は言語体系によって規定されていると考えることができるのだ。


〈参考文献〉
『哲学の歴史12巻 実存・構造・他者』中央公論新社、2008年


いいなと思ったら応援しよう!