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ボルフ『ニコラス・ルーマン入門』(2)
ルーマンの社会学理論の特徴は、世界をシステムと環境に区別するということである。これにより、従来社会について論じるさいに、社会を一定の領土に集まる人々の集まりとする暗黙の了解に一石を投じる。
この人間から社会システムへと焦点を移すことで、まったく新しい社会の概念が見えてくるのである。
システムとは何か
ルーマンの言うシステムは、社会システムだけではない。システムという大きな枠があり、その下に生命システム、心理システム、社会システムがある。そして、生命システムの下に細胞や脳や生物、社会システムの下に相互行為や組織や社会があるのである。
そのようなシステムの第一の特徴は、システムが環境と区別されなければならないということである。
システムには統一性があり、また独力で作動できる。
例えば人間の身体も一つのシステムである。身体は独力の作動により恒常性を保とうとする(ホメオスタシス)。それは、生命の維持のために必要なわけだが、このホメオスタシスとはまさに身体の周りにある環境から身体を区別する作用であり、そのように考えると身体の死とはホメオスタシスが消失し、環境と一体となることと言えるかもしれない。
ただこの身体の例からもわかることだが、システムは環境から区別されるが、同時に環境なしには存在できない。にも関わらず、システム内部の出来事は、システムの中のみで起こることなのである。
身体は周りの環境から様々な恩恵を受けて、自らを維持している。しかし、身体の内部で起こることは、あくまでも身体だけの事柄なのである。
この環境→システムの一方向だけあり、システム→環境の方向はあり得ないというのが、システムと環境の関係性の大きな特徴である。
また環境はシステムによって異なるということも大事である。
身体というシステムにとって自然世界は環境であるが、地球というシステム(あればの話だが)において自然世界はシステム内部である。そして地球にとっての環境は宇宙になるだろう。
では、環境とシステムの違いは何か。それは、自己反省と行為能力の有無である。環境は自己反省もしなければ行為もしない。一方で、システムは自己反省も行為もするのである。
以上が、システムと環境の関係性と差異である。
作動における閉鎖と自己組織
システム内の要素は、一定の仕方で相互に関係している。そのため、システムは要素間の関係性が作動によって動くことによって自立して作用する。
そのため、いかなるシステムも、社会システムの作動はコミュニケーションであり、心理システムの作動は意識、生命システムの作動は生命というように、各システム固有の作動に基づいて閉じている。
そのため、あるシステムが他のシステムに影響を及ぼすことはありえない。科学システムが法システムの作動を自己の作動としてう入れることはあり得ないし、その逆も同様である。
これをシステムは閉鎖していると言うが、閉鎖とは孤立していることを意味しない。どのようなシステムも、常に環境に対しては開かれているのだ。システムは作動による閉鎖性により複雑な環境を知覚することが可能になるのである。
またルーマンは、作動は構造を必要とするが、構造は作動の結果であるとする。
例えば、言語と話すことは、構造と作動の関係にあるが、言語(構造)がなければもちろん話すこと(作動)はできないが、もし誰も話すこと(作動)をしなければ、言語は崩壊してしまう。
このように、システムは構造と作用の相互の働きによって成り立つ。そして作動はしだいに複雑な構造を生み出し、その構造がさらに差異化した作動の可能性を開くというように発展していくのである。
ルーマンの言う構造の意味にもまた注意する必要がある。
彼の言う構造とは、予期のことである。システムは構造によって、環境から与えられる情報を制限する。
例えば、コミュニケーションにおいて「おはよう」と言われたら「おはよう」と返事する。これにより安定性がもたらされるのである。
このような予期は一種の複雑性の縮減として機能する。
ただしルーマンいわく、予期というのは、心理システムと社会システムの特徴である。さらに予期は、こちらの行動に相手がどのように予期するかを予期する。この相互の予期は、自我の予期と他我の予期を調和させるために必要なことである。
以上をまとめると、社会システムは、自ら生み出した予期構造を用いて、ありうるコミュニケーションの中からどのようなコミュニケーションを選択するかを統制する、作動において閉じた、自己組織するシステムなのである。
オートポイエーシス、自己言及、構造的カップリング
複雑性の縮減とは、1970年代のルーマンのキャッチフレーズであり、オートポイエーシスは1980年代のキャッチフレーズとなる。
オートポイエーシスとは、元々生物学の研究から発見されたものであり、自発的に自らを組織化するものとして、生命システムを説明する際に用いられた用語であった。
ルーマンはそのオートポイエーシスという用語を、社会学理論に取り入れる。彼はオートポイエーシスは、コミュニケーションや意識の自己産出としても見られる現象だとしたのである。
コミュニケーションは社会システムの作動であることを思い出せば、このルーマンの主張が、社会システムはコミュニケーションを産出し再生産することを意味することが分かるだろう。
ここで重要なのは再生産するということである。コミュニケーションが再生産されることによって、社会システムがそれ自身の特殊なコミュニケーションを生み出すのである。
日本という地域において、コミュニケーションが再生産されることによって、日本特有の文化が生まれる。例えば、食事の時に箸を使うことや、お辞儀をするなどである。同様にアメリカという地域においてもコミュニケーションが再生産されるので、そこでの文化は当然日本と異なる。
このような、オートポイエーシスは一つの作動によって行われ、また逆に言えばオートポイエーシスが関わるのは、作動のレベルにおいてのみである。そのため、オートポイエーシスがあるために、システムは自らのみで存立できると考えてはいけない。常に、環境との関係性において作動が行われるときだけ、オートポイエーシスが機能するのである。システムには必ず環境が必要である。
そして、作動は出来事であり、現実に起こった瞬間に消えてしまうものであるというのも重要な特徴である。作動が永続的に行われていたら、再生産をすることはできない。作動が一瞬の出来事で、すぐに消えてしまうから再生産ができるのである。
ここから、ルーマンはさらに自己言及という概念をシステムの説明に利用する。彼から言わせれば、あらゆるシステムは自己言及的システムと見なされなければならないのである。
自己言及とは、「私が思うに……である」のように、自分で自分を言及することであるが、システムにおける自己言及とは、オートポイエティック・システムの作動による自己構成のことである。
システムがシステム自体を認識できなければ、要素の取捨選択ができない。日本語では外来語が取り入れられることが多いが、その時むやみやたらに外来語を取り入れていたら日本語の文法構造が崩壊してしまう。日本語は日本語のシステムが受け入れられる形で外来語を取り入れるのである。
このように、システムが自らを環境と区別できなければ、システムは安定化することができない。逆に言えば、システムは作動におけるシステム自身への言及によって安定化するのである。
このように、環境と構造が区別されていながらも、関係をもっているということを構造的カップリングという。
ただ注意しなくてはいけないのは、環境からシステムは刺激を受けるが、その刺激はシステムの作動を媒介した形においてしか意味をなさないということである。つまり、それは自己刺激でしかないのである。
また構造的カップリングはシステムとシステムの関係においてもある。例えば法システムと政治システムはある種のつながりがある。しかし、そこではお互いの作動を通じて、物事を理解し合っているのである。
社会システムはコミュニケーションのシステムである
ここまでは、システムに関しての説明であったが、では社会システムはどのようなものであるのか。
ルーマンは社会システムを構成する固有の作動はコミュニケーションであるとする。もっと言えば、ルーマンからすれば社会はコミュニケーション以外のなにものでもないのである。
ルーマンが社会システムの説明にコミュニケーションを作動に置いたのは、自らの社会学理論を主体概念に基づくことを避けるためであった。
ではルーマンの言うコミュニケーションとはどのようなものであるか。彼は、コミュニケーションを情報、伝達、理解の三重の選択とした。
例えば、友達と部屋にいて、「この部屋暑いね」と言われたとしよう。このとき、友達が暑いと思っているという情報が、私に伝達されている。一般的にはここでコミュニケーションが終わると考えるが、ルーマンはそうは考えない。私たちのコミュニケーションには理解が必要なのである。
友達に「この部屋暑いね」と言われたとき、私たちはただ友達が暑いと思っていると思うのではなく、窓を開けてほしいのかな、クーラーの温度を下げてほしいのかな等、いろいろな解釈をする。その解釈に応じて、返答の仕方が変わる。
このようにコミュニケーションにおいては、与えられた情報に対して理解が生じる。この情報と理解の差異によって、はじめてコミュニケーションが可能となるのである。
また理解には、様々な選択肢があり、私たちはそのうちの一つを選択して理解をする。この選択性も重要な特徴になる。
選択肢があることによって、私たちは誤解が生まれる。この誤解はさらなるコミュニケーションを生む。このように、誤解はさらにコミュニケーションを生むきっかけとなり、コミュニケーションがさらに再生産されていくのである。
とはいえ、コミュニケーションにおいてどのような振舞をしてもいいというわけではない。当然、「この部屋暑いね」と言われて、それを無視して「昨日買い物にいった」といったら、コミュニケーションは成立していないことになる。
コミュニケーションにおいては、ある程度の制限が発生する。その意味において、自我はコミュニケーションによって自分の行動が限定されるという影響を受ける。つまり、自我はコミュニケーションの影響下に置かれるのである。
その結果として、ルーマンは「コミュニケーションだけがコミュニケーションできる」と言う。
コミュニケーションを無視した自我の働きは、無意味である。自我はコミュニケーションを利用することによって、はじめて自らを相手に表現できるのだ。つまり、コミュニケーションに支配されている自我がコミュニケーションをしているのだから、結果としてコミュニケーションがコミュニケーションしていることになる。
コミュニケーションをするときに行われた選択は、行為か体験かのいずれかとして社会システムによって観察される。そのため、コミュニケーションからずれているものは排除される。
こうして、コミュニケーションはより堅固になっていくのである。
社会システムと心理システムとの関係
社会システムの作動はコミュニケーションであった。しかし、コミュニケーションは人間の心理と大きく関わっている。では、社会システムと心理システムの関係はどのようになっているのだろうか。
ルーマンによれば、あるシステムが他のシステムに影響を与えることはできない。一つのシステムには、一つの作動しかなく、その他の作動が入り込む余地がないからだ。
そこで、システム間の相互作用を説明するとき、ルーマンは相互浸透という言葉を使う。
社会システムと心理システムがお互いの存在を前提としている。社会システムがなければ心理システムは発展しないし、心理システムがなければ社会システムも発展しない。
よって、社会システムの作動であるコミュニケーションは心理システムにおける精神による知覚がきっかけとなって起こるものであるが、重要なのはそれは社会システムを刺激しているに過ぎないということである。
車の例で考えてみよう。車はガソリンがないと動くことができない。しかし、車にとってガソリンは動くきっかけに過ぎないのであって、ガソリンが車の性能に影響を与えることはない。安い車が高級なガソリンを使ったからといって高い車に匹敵することはないのだ。
社会システムにおける心理システムも、この車とガソリンの関係に似ている。心理システムは社会システムを動かすガソリンに過ぎないのであって、社会システムに自体に何かしらの影響を与えることはないのである。
心理システムと社会システムは独立していながらも、依存しあっているという不思議な関係にある。この関係がゆえに生まれたものが「意味」である。
主体と客体という区別を捨てたルーマンにとって、意味も主観の概念に言及することなく定義される必要性があった。
そこでルーマンは意味を、現実化していることと可能なこととの区別を用いて作動する特殊な媒体であるとした。
コミュニケーションの場において、今実際に話している話題と、これから話すことができるものがある。このとき、実際に話して現実化している話題は意味をもっているが、まだ話していないことは意味を持たない。ここに、意味が生じる区別がある。
まだ現実化しているものと潜在化しているものの区別は、複雑性の縮減と複雑性の関係性にも対応する。
コミュニケーションで話題にできるものは膨大にある。しかし、現状意味をなすものは、コミュニケーションにおいて制限される。つまり、意味をもつためには複雑性の縮減を必要とするのだ。
さらにルーマンは、意味には事象次元、時間次元、社会的次元があるとする。
事象次元とは、「これ」と「それ以外の何か」との区別をする。例えば、リンゴという言葉が意味をもつのは、リンゴという言葉の意味が他の言葉の意味と区別されているからである。もし、この区別がなければ意味はなさない。
時間の意味次元は「以前」と「以後」の区別を軸にする。私たちのコミュニケーションは<いつ>に従って整序される。実際話している内容が、いつのことなのか判別できなれば私たちは話している内容が理解できなくなる。
社会的次元は、他我と自我の区別に大きく関わる。自我と他我は異なるものであるが、社会において自分が意味していることが相手に伝わっているのか問うことができる。これができなければ、意味を伝えることができない。
ここから特定のコミュニケーションは、そこで展開されている何(事象)、いつ(時間)、誰(社会的)を把握することで具体的に分析できるようになる。
個人再考
これまで述べてきたように、ルーマンは人間主体を基礎とする理論に対して否定的であった。それは、人間主体の理論は簡単にイデオロギー化されてしまうからである。
そこでルーマンは、人間は社会の一部ではなく、社会の環境に属するとした。人間はシステムの外部にいて、システムは人間という複雑性を縮減する。
つまるところ、私たちが一般的に人間と言っているものは、心理システムや生命システムといった様々なオートポイエティック・システムの集合体であるということである。
そうなると、人格とは人間がコミュニケーションをするうえでどのように扱われるかを記述するためにシステム理論が採用する名称である。
几帳面な人がいたとき、私たちはその人が散らかっている部屋を見たら、不快に思うだろうと推測できる。このように、コミュニケーションを円滑に進めるために、相手の行動を人格に基づいて予期するのである。もしコミュニケーションが必要なければ人格など知らなくてもいい。
よって、人格はコミュニケーションの場において初めて登場するものなのである。
ルーマンはこの個性ともいうべき人格のあり方が、社会の変化に伴って変わっていくと考えた。
ルーマンは社会を原始的な環節的分化、そこから少し発展した階層的分化、そして近代以降の機能的分化に分ける。
環節的分化において人は、氏族ごとにグループが作られて、その氏族グループと人格が一致している。
同様に、階層的分化では貴族や庶民といった階級に応じて人格が形成される。この二つにおいて、一人の人格が同時に二つの領域に属することはできない。
しかし、近代的な機能的分化になると、人は経済システムや宗教システム、政治システムなど異なるシステムに関わることになる。つまり、一人の人間を完全に包摂するシステムが存在しなくなる。
このことは、誰もが自分の個性を包摂に基づいて確立することができないことを意味する。
よって、個性は何かしらのシステムに依拠することなく、いわばシステムの外部に、あるいはシステムの剰余として、構築されなければならないのである。
このことは、現代人にとって大きな負担になりもするが同時に、個人がシステムに縛られずに自分の個性を彫琢するための余地を大きくしているのである。
<文献>
クリスティアン・ボルフ『ニコラス・ルーマン入門-社会システム理論とは何か-』庄司信訳 新泉社 2014年