泥団子を宝石に

 私にとってかけがえのないものといえば真っ先に思い浮かぶのが欅坂46と櫻坂46である。
 欅との出会いは中学1年生の秋ごろ。当時NTTドコモのCMに「ガラスを割れ!」という曲で欅坂が映っていた。家では常にテレビがかかっている家庭であるのでそのCMも、ゲームをしながら耳に入ってきたのだと思う。そこで私はガラスを割れに、まさに一目惚れならぬ一聴惚れをした。このようなことはVaundyの「不可幸力」やほろ酔いのcmの「水星✖️今夜はブギー・バック」などなど、私の人生において何度か経験している。その度に私はYouTubeでその曲を聴きまわすのだ。しかし欅坂の「ガラスを割れ!」が他の一聴惚れした曲と違ったことは、MVのダンスパフォーマンスである。
 当時の私は中学一年生ということを言い訳にはしたくないが、偏見にまみれ、女性に興味を抱くのがダサいと思っていた。特に女性アイドルグループ、AKB48さんや少女時代さんなどをテレビで見ると「おんなじ顔やん」と、カスでゴミのような発言をしていた。そんな私が「カッコ良すぎる」とガラスを割れ!のMVを見て感じた。これが私と欅坂の出会いである。これを皮切りに欅坂の他のMVも拝見し、中学3年生の頃には、確実に非公式の音楽サイト(FM音楽?)を駆け回り、当時世に出ていた欅坂の全楽曲のプレイリストを作り、何度も何度も聴くようになる。
 欅坂46は2020年に櫻坂46に改名をした。当時高校一年生の秋だった。そして今でもこのグループへの敬愛は、止まることを知らない。
 その愛はまた別の機会に語るとして、ここでは私のかけがえのない欅坂・櫻坂に関する思い出への考え方をまとめたいと思う。「小さな小さな泥団子に少しずつ砂をかけて綺麗な宝石になっていく」このようなイメージで思い出を大切に心にしまっている。最初に泥団子と表現したことで汚らしいものと誤解を生むかもしれないが、少しずつ長い時間をかけて宝石のように美しく尊いものへと昇華するイメージであることを理解していただきたい。 
 これは櫻坂46 4thアリーナツアー go on back の大阪公演2日目の帰り道、櫻坂への愛についてかんがえた際、浮かび上がったイメージである。
 この時の思考過程についてもまた別の記事で書こうかな。収まる気がしないので。
 とにかくここで言いたいことは思い出という言葉を、最初は泥団子のように脆く、美しくもないことであるかもしれないが、その泥団子は永く長く、大事に丁寧に、大小様々な時の砂をかけて行くことで、宝石のように美しく割れることのない確固たる存在になっていくという解釈で私は生きているということである。
 最近幸せについても似たようなことを考えた。今の私にとって幸せというものが何かという問いは非常に難解であるが、私が今までに感じてきた幸せは、長く積み重ねた思い出の上にあると考えた。今まで幸せを感じた時はライブであったり、昔からの親友とくだらない話を永遠としている時などであった。その幸せの土台は今までの人生で経験してきたたくさんの思い出にあると感じた。 
 なぜなら楽しいや嬉しいといったプラスの感情はこれまでたくさん感じてきたが、幸せだなぁと感じた瞬間はここ最近のできごとであるからだ。つまり20年生きてようやく喜怒哀楽やその言葉では収まりきらない感情を味わった経験を積み重ねた土台が、最低限出来上がったのではないかということだ。
 人間は幸せを追い求める生き方をするべきだという基礎観念は、私たち若者にとって先人達や社会から埋めつけられていることであるが、実際それが人生においての大きなゴールであることも否定はできない。
 では幸せとは何か、その幸せを手に入れるにはどうすればいいかという根本的な疑問に今の私が答えるとするならば、幸せとはたくさんの思い出の土台の上で感じるものである。だから"今"の経験を一つ一つ大事にして、たくさんの思い出を作っていこう。たとえそれが苦しくて辛いものだったとしても。今はこのような考えで生きている。
 


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