傷つかなくていいことに傷つかないために

 

 先日中学校の同級生達と、ご飯を食べに行った。そこで一人の友人(以下Y君)が、今はもう関わりのなくなった中学校の同級生たちのTwitterを見て、情報を収集していた。そこで私は、その同級生たちの現状を知るのが無性に嫌だった。拒否反応のように抵抗してしまった。一体それはなぜなんだろうと考えた。
 この疑問を考えるうえで、私の今までのSNSに対する向き合い方を振り返ってみた。
 そもそも中高時代にSNSをしていない人間であった。細かく言うと、有名人や公式サイトなどをフォローしているSNSはしていたが、同級生や知り合い達とのSNSをしていなかった。
 それは欅坂・櫻坂を応援する上でSNSの怖さだったり、醜さについて感じることがあったという経験が大きかったと思うが、加えて、SNSをしている友人たちがお互いを監視しているみたいで、お互いの無罪告知をしているみたいで気持ちが悪かった。
 さらにそんな知人のSNSを見ている自分のことが嫌いであったことも理由にあると思う。あとは知り合いが遊んでいるところをみると嫉妬心が上がってくるからであろう。
まとめると

  • SNSが怖かった、醜かった。

  • SNSで私生活が監視されるのが嫌だった。

  • 知人のSNSを見ると嫉妬心などのマイナス感情が生まれる。

  • それなのにSNSをみている自分が嫌だった。


このような理由でSNSを敬遠していた。ではなぜこのような理由が湧き上がってくるのだろうか。一つ一つ分析していく。
 SNSが怖かった。醜かった。に関しては、欅坂・櫻坂の影響であろう。ひたむきに活動している彼女たちへの誹謗中傷、嘘だらけのネットニュースが広まっていく恐怖に、見出しだけを信じて正義漢と自分の価値観を振りかざし、画面の向こうの人も想像することなく、誹謗中傷を書き連ねるSNSの住民たちの醜さ。そのようなものをリアルタイムで浴びていた私は、SNSのすばらしさよりも恐ろしさといった印象のほうがはるかに大きかった。
 SNSで私生活が監視されるのが嫌だった。に関しては高校生活を過ごす中で浮かび上がってきた気持ちである。
 インスタグラム(40人クラスでインスタをやってない人は1,2人いるかいないかレベルの普及率)のストーリーという機能には24時間限定で投稿をできるという設定がある(24時間後に自動で削除される)が裏を返せば、それはリアルタイムでその人の現状を知れるということである。なぜならストーリーの投稿は24時間限定であるために新鮮さが重要であり、なぜなら少なくとも私が経験した高校生活において、周りに”今”の充実さをアピールするための道具として使われていたからである。
 少し脱線するが基本的に人付き合いでは嘘は適さない。なぜならウソがばれた時に信頼がなくなるからだ。しかしほとんどの人は小さなうそをついて日常を生きているのではないか。身近な例でいうと、遊びに誘われたが、遊びたい気持ちがないから都合が悪いといって断る。都合が悪いというだけでは納得されないので、具体的にする。風邪を引いたとか部活があるとか。それらの嘘はバレなければ何ら問題はない。しかしSNSは”今”を知らせる。昔であれば知りようのない”今”を簡単に知ることができる。例えば風邪を引いたから部活を休んだはずなのにストーリーには遊びに行っている”今”の写真が投稿されている。詰めが甘いと思う人がいるかもしれないが、情報伝達が早い現代の若者にかかれば、あっという間に見ず知らずの人にまで情報は拡散されるのだ。
 SNSがない時代に比べると今は格段にウソがばれやすい。SNSを見ているときはオンライン中という表示が出るし、それが何時間前であるかも表示される。
 私が恐ろしかったのは位置共有アプリで何の疑いもなく友達同士で位置をリアルタイムで共有していたことだ。理由を聞けば「待ち合わせに便利だから」と返ってきた。しかしそれだけじゃない理由ももちろんあるだろう。同じコミュニティの人たちがみんな位置を共有していると、そのアプリを入れていないとコミュニティからの疎外感を感じるであろうし、後ろめたいことがあるのではないかという疑いをかけられる可能性がある。その恐怖感からアプリを入れ、同調圧力でその輪が広がっていくのではないかと思っていた。けれども位置情報という大きな情報でさえも、お互いに把握しあう恐ろしさは表面上では隠れている。
 多くの情報を手に入れられるSNSでは嘘が通用しない。だからこそ位置情報や投稿でお互いに常に安全通知、無罪告知をしているのではないか。それに参加しないと有罪と決めつけられてしまうためこの輪はどんどん広がっていく。
 つまりプライベートまで嘘偽りのない誠実な関係を求めあい、お互いに私生活を監視するようになってしまっていた。学校内での付き合いだけでも「虚栄心と建前にまみれている」(新米記者トロッ子のセリフだったと思う)のに、プライベートまでそれを続けるなんて、彼らは一体いつ休んでいたのだろうか。
 付け加えると、本当に親しい間柄だけの出来事ではなく、同じクラスというだけの人や話したことがないような関係性でもこのようなことが行われていた(所属が同じであれば、今後関わるかもしれないという可能性からフォローリクエストを断ると、円滑な人間関係が築けないという恐怖がうまれ、大概のフォローリクエストは通るように感じる)(お互いをフォローするとお互いの発信する情報が閲覧できる)。
 そんな中に参加したくなかった。学校で感じるストレスや不快感から逃れる場所、回復する場所すらも、奪われてしまうと思ったからだ。


 SNSを見て嫉妬心などのマイナス感情が生まれた。ということに関しては
 
  参加できていない疎外感や誘われていない悲しみ 
  誘われていないことに対する自分への言い訳のむなしさ
  ひとりで自分のいない遊びを想像する孤独さ
  世間や社会が青春やリア充といった言葉で推進する、充実こそすべて、楽しければよいとった価値観を押し付けられたうえでの、知人からの充実しているということを見せつけられるくやしさ
  自分の現状がまるで充実していないと突き付けられているような劣等感

などのマイナス感情を挙げることができた。


 中学校高校という狭い世界で生きている間は、どうしても周りと比べて物事を考えてしまうことが増えてしまう。それが社会という存在が大きすぎて自己を見失ってしまう理由につながるかもしれない。
 私は意味のある生活、充実した生活こそが正義の社会で、自分の私生活が評価されることが怖かったし、人の私生活を評価するような人間になりたくもなかった。そして私生活を他人からの評価へささげる気持ちもなかった。自分を社会になじませすぎると、自分を見失ってしまうような気がしたからだ。
 SNSを見ることで浮かび上がるマイナス感情によって、現状の自分が否定されている気がしてたまらなかった。(SNSにより無意識に他人の現状と自分の現状を比べてしまうから)だからこんなマイナス感情を味わわなくて済むようにSNSを拒否した。


 それなのにSNSを見てしまう自分が嫌だった。これは中学の卒業式が終わった後、直接帰宅して何の予定もなかった現状と3年間の終わりのあっけなさ(コロナ黎明期なこともあり卒業式は簡潔だった。)による寂しさから、インスタグラムをダウンロードし、同級生のアカウントの投稿をこっそり見ていた時に感じたことだ。
 投稿されている内容はすべてキラキラしているように見え、劣等感に泣きそうになりながらも2週間ほど投稿を見ていた。そこで嫌な気持ちが浮かび上がるのが分かっているのに、同級生の今に、縋り付いて投稿を見続けることに嫌気がさした。嫌な気持ちになるのになぜ見続けたのか。それを分析すると、二つ思い浮かんだ。


 一つはつながりを失いたくなかった。中学三年間、ひいては小学6年間をあわせた付き合いの同級生達との別れが受け入れられず、その所属から外れたことが受け入れられず、SNSに依存することで、彼らとのつながりを感じていたのかもしれない。別れを覚悟することなく日々をのうのうと生き、コロナによって急に終わってしまった学生生活を受け入れられなかった罪と罰。SNS上での希薄なつながりを感じるためにSNSに依存することは女々しいと感じてしまう。今の満たされない現状から逃げるために、立ち向かわないために、過去のつながりをひたすらなめ続ける。女々しいというより情けないと感じる。

 もう一つは安心を求めていたのかもしれない。自分と同じような奴がいるかもしれない、自分のように充実していないやつがいるかもしれないという安心感を追い求めて。そして自虐的に、あるいは無意識に充実していないことを投稿する奴よりかはまだ自分のほうが充実しているだろうという下を見て自分の現状に安心し優越感に浸るため。

 どちらの理由であれ、自分に対して弱いと感じることは変わらない。一つ目であれば現状の不満足から逃げるために過去に依存するという点で。 二つ目であれば自分の満たされない現状を肯定するために、より満たされない人を探し、優越感と安心感を感じたいという点で。SNSを見ていることでそんな弱い自分を浮き彫りにしてしまう。だからSNSを見続ける自分が嫌だったのではないか。


 

 ここまで私が中高時代にSNSを避けてきた理由を分析してきたが、次はこの分析から今、Y君が現在交流がない同級生のSNSを見ていたことに嫌悪感を抱いた理由を探していこう。ひとまず3つの考えが浮かんだ。


  一つ目はY君に昔の自分を重ねて見えてしまったことである。私はY君のことが友達として好きだ。だからこそそんなY君と昔の自分とを重ねてしまえば、Y君のことを人間的に嫌いになってしまう。SNSを見ていた自分が嫌いだったように。いや違う。それはY君に嫌悪感の原因の責任を押し付けているだけだ。きっと、Y君に自分を重ねて、自分を客観的に見ることで、行動の醜さを自覚してしまうからではないか。鏡に映った自分が一番醜いと感じることへの恐怖が嫌悪感として現れたのではないか。



 二つ目は、過去を過去のままにし、同級生たちの今を更新したくなかったことである。投稿を見せられそうになった時、私は「これ以上私の人生に入れたくない」と言った。この咄嗟の発言から関わりのなくなった同級生たちの”今”を知りたくなかったのだろうと考えた。ではそれはなぜか。断絶したはずの関係性が戻ってしまうことへの恐怖。決別したと思っていた過去が再び人生の中に入ってくる恐怖。それは変わりたいとずっと思っていた昔の弱い自分に戻ってしまう恐怖なのではないか。あの頃に関わった同級生たちを見ると、あの頃と何ら変わらない弱い自分に引きずり戻されるのではないか。結局自分は何も変わることのできなかったのではないか。ということを知ることの恐怖。そんな感情があったのではないか。


 三つめは好奇心が湧き出てしまう自分への嫌悪感である。あれほど嫌悪した過去の自分と同じ行為をしようとしている。もしくはSNSを見たいという欲求自体が消えたわけでなく理性で抑えていただけで、本能では見たいと思ってしまっている自分が気持ち悪かった。表層だけ変わった気になって、虚構の本心を本物の本心と思い込み、成長したと思ってきた自分が気持ち悪かった。というより情けなかった。

まとめると、Y君が関わりのなくなった同級生の”今”のSNSを見ることへの嫌悪感は、「その同級生の投稿を見たくない」でも、「それを見てるY君が見てられない」といった理由でなく、そういったことを通して自分の醜さや愚かさ、弱さに気づくのが嫌だったのではないか。それに対する嫌悪感だったのではないか。

 ずっと変わりたいと思っていた。弱い自分から強い自分に。SNSは私の醜くく弱い心をさらけ出す。少しは成長したのかもしれないという自信はただ嫌な自分が現れ出る場から逃げていただけなのかもしれない。


 そんな時、元櫻坂46の小林由依さんが自身の卒業コンサートでおっしゃっていたことばをおもいだす。
 「傷つかなくていいことに傷つかなくていいんだよ」
これは三期生に向けられた言葉であるが、私の心にも深く刺さっていた言葉だ。SNSには意味もなく誹謗中傷するだけの人もいる。もちろんそれ以外にも、明確な悪意を持った人や、うわさや推測だけで決めつけて石を投げる人たちもいる。そんな人たちのターゲットに女性アイドルはなりやすい。悪口というもののパワーは計り知れない。そんな心のない言葉が蔓延する世界でそれでも、ファンのために活動し続けてくれる彼女たちはどれほど傷ついてきたのであろうか。だからこそこの言葉には大きすぎる説得力があると思う。

 卒業コンサートにおいてでさえも、また彼女に救われる。いままで何度も彼女たちに救われてきたのに。

 傷つかなくていいことに傷つかないためにこれからも私はSNSから逃げ続けよう。いつか弱さに立ち向かえる強さを手にいれることができるその日まで。

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