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介護の仕事を褒める

私の勤めている介護事業所に面接に来た人が
私の作ったホームページを見て、来てくださったらしく

たまたま通りかかった私を代表が手招きして
「ホームページを作った、ケアマネの吉田です」と紹介してくれた。

見ると、キュートな女性で
紹介された私は
「べっぴんさんやなあ!」
とのみ発言して退いてしまった。
(セクハラなだけ)

あとで聞いた所によると
なんと平成生まれのうえ、この3月に介護の資格をとったばかりらしい。

再度「ふぇ~」「ほんまあ〜」と驚いた。
そんなフレッシュな!
どおりで眩しかったわけだ。

コロナ災禍のおかげか。
「なんとかに鶴」と脳裏をよぎったが、口にはしなかった(失礼極まれリ)


介護の訪問ヘルパーという仕事は、同じ介護資格を必要とする「施設」や「障がい者サービス」よりも、ずっと就業年齢が高い。

おばちゃんのする仕事というレッテルが貼られているのを皆さんもよくご覧になっているだろう。

他サービス業では面接もされない「65歳以上」の高齢者枠でさえ、働きたい希望者はウェルカムの当事業所は、70代80代が辞める気配は見えない。

そう
他の仕事をイロイロしたあとだってじゅうぶん。

いつでも出来る、最後の選択が
「訪問介護」なんであーる!

こんな不遜な言い方をしてしまえるほどに
「しんどそう、汚そう、給料安そう」
のダサいイメージが先行していると言わざるをえない介護業界。

ホームページ見て云々の良い気分にのっかって、久々に介護についてのブログを書く気になった。

(本来このブログの誕生は介護の仕事と紐付けるものであった)

20代から介護に携わり、これから他に転職する気持ちも無い私が『介護の仕事のよいところ』をお伝えしたい。

幸せとは何だろうか。
短期的な幸せ
長期的な幸せ

日本のように安全が保証されている土台があるのならば
あとは自分の言葉や行動が、自分を幸せにする。
幸せとは自分のあり方だ。

睡眠食事排泄という生命維持と対をなすだけの時間を費やす「仕事」は、自分を幸せにするのに最も効率的なものだ。

仕事(家事・奉仕等の役割で働くことも同じ)
をうまく使えれば
子育てよりも、趣味よりも、恋愛よりも
働くことこそが、合理的に私達を幸せに導くものだと思う。

それは、自分個人を超えるからだ。


「仕事」とは「お金を稼ぐ手段」だけではない。

生活のためにする仕事の味気ないイメージは、もうブリキの蓋付きバケツにでも入れてしまおう。


人は生きるためではなく、なにかもっと意味のある何かのために「働く」ことで、長期的な幸せを掴める。

お金を稼ぐ手段としての仕事
(もしくは養ってもらう手段としての家事)
をしているあいだは
「短期的な幸せ(一時的な喜び)」を追うことになる。



長期的に幸せな人を想像する。

人や動植物に喜ばれること。称賛されること。自分のあり方で、自分以外のものの幸せを実感していること。

生きる幸せとは
なにかの役に立っていることが実感できること
と同義であろう。

それが一番解りやすく、受け入れやすく
つまり合理的だ。

解りにくいところでは、例えば人類の進化の役に立つことだ。
一般的ではないが想像できるとすれば
孤独な空間での数学の探求かもしれないし
未開の地への冒険や
自身の闇を描き出す行為かもしれない。
何もできない自身でもって、他者からの施しを受けることで、施した他者をそうと知らずに幸せにする役割かもしれない。

それらの幸せの掴み方は困難というか

「それ以外を目的としていない人生を、否応なくすでに得ている」
(運命)
そんな人だろう。

大多数のひとが
解りやすく人の役にたてる仕事で
幸せを得ることができる。

その中でも
レスポンスが高いのが「介護の仕事」だと思う。


医療や保育、教育も
現場の仕事であるため
解りやすく
人の役に立つことが「日常」の仕事であるが

介護は特に
反応・応答が明確で早く、肌感覚として実感しやすいと思う。

つまり、自分を認めたり肯定感を得ることが容易な仕事なのだ。

もしかしたら
一定期間兵役をする各国の徴兵制度のように
国民の教育において、一定期間の『介護徴収』を10代で行えば、無力感の増加防止に役立つかもしれない。



カウンセラーは、カウンセリングを受ける対象者によってその技能は磨かれ、よりよいカウンセリングを提供できるようになると思うが

一対一で、人間同士が関わる時間の比較的長い訪問介護は、その修練に似ている。

個性と個性のぶつかり合い。
嫌もあれば愛も生じやすい。

介護は体を実際に動かすため
肉体的疲労という交感神経のリセットに役立つストレス負荷を、得やすい。

それは、デスクワークよりも神経が前向きになりやすく
その仕事での徒労感は、心理的・精神的な中枢神経系疲労より善良なストレスと見えるのだ。
(年齢を重ねるほどに自己中心的になるおばちゃんでもお仕事が続くわけだ)

職場環境さえ良ければ、なぜか
ぶーたれながらも
ずっと続ける仕事だ。

私は介護職を辞めた「介護職員」をあまり知らない。

ダイレクトに人の役に立つことは中毒になる。
もっと人の役に立ちたいと思うことになる。

仕事への向き合い方の壁が出現する。

私達は誰もが、役に立てることが好きだから
(根本的欲求)
人を助けたくなるのだけれど
人は「助けよう」と思った途端、そのGにやられる。

「助けたい」という気持ちは重力がありすぎるのだ。

これは目に見えないエネルギーで、「助けなければ」という潜在意識が強い人ほど(責任感・思い込み・インナーチャイルド・完璧主義)押しつぶされやすい。

真面目な人ほど押しつぶされがちなので
予防線を張って
出来ることにも予め拒否する人や
仕事に大きな負担を感じている人が見られる。

誰も、誰もを助けることなんてできない。
どなたさまも「助ける」なんてできないことなんだけど
相手が弱っているように見えると
まるで自分が助けなければならないんじゃないかと思い込んでしまう。
沼にはまってしまう。

介護の仕事は、協力のスタンスに立たなければ、しっくりこない。

私でよければ
ご要望であれば
出来る事なら
協力しますよ!
笑顔!
なんである。

「いいよ」
「はい」
「わかった」

と言いながら、頭の中では「協力はするよ」と言うのだ。

協力しか、できないんだ。

私にできることは、あくまでもあなたのサポートです
こんな言葉は「撥ねつけられた」ように聞こえるので、決して口には出しません。

出来る事なら協力を惜しみません、という私の真意が他人に解るわけないのだ。自分でだけ、理解しておく。

線を引くのではない。
ここが、介護の(もしくは人としての)
自立した立ち位置なのだ。


また、エネルギー循環の位置においても
介護の仕事は未来に添える輝きがあるように見える。

エネルギー循環とは
自分が出来ることをするだけで社会がまわる
ということであるが

これはお金が動くと大変スムーズなのだ。

人と介護の間にはお金が実際に循環する。

当事者同士で「交換」だけしていればうまくいく
というものではない。
立て替えることでは、うまくいかないのだ。

本来、私達はそれぞれが
「交換」ではなくて「提供」し続けることで
社会は豊かに回りだす。

もらって返すだけでは社会は成り立たず
(いまここ)

出来ることやしたいことを
ただ、自ら提供し続けることで、うまくいく。
(これが未来と私は思っている)


提供し続けられる仕事であるからこそ、介護は社会保険で成り立っている。

介護は、成り立ち、内容が、必要性に裏付けられて保証されている。

わかったような
なんかわからんような

いや、正直
書いている私も、むりやり書いてる感ある!

介護をいいように寄せててワロタ。

いや、ほんまは私はなんでもいいと思ってます。

仕事なんて
なんでもいい。好きにすればいい。
介護もいいし、他もぜんぜんいい。
何をしてもしなくてもいいっしょ!

あはは。
ちょっと頑張った感あるな~!

私は介護好きやけどね。
ただそれだけやね。


いやあ、ホームページ見て働きたいって
聞いて
まじで1日機嫌よくなった。


ちゃんと介護事業所関係のブログを、作ったマガジンに寄せようと思ったよー

ホームページは、私のnoteプロフィール内にリンクがあります。





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