見出し画像

pokemon

 僕は今年で30歳になるおじさんです。ポケモンで育った世代ですが、今はもうやってません。卒業…というか虫が好きな子供や乗り物が好きな子供が大人になってもソレをやるようにポケモンもそうなのでしょう。

 核家族化、あるいは母子父子家庭化していきマンションや団地へと家庭環境が変容していった。初期の赤青の主人公も母子家庭のようでそこには触れてない。
そして、ペットが飼えなくなった。小型のハムスターさえも土の無い都会では死を慈しみ埋めることさえ叶わない。そのままゴミ箱に捨てることもよくあった。
 また、怪我や事故を防ぐため外でボールで遊ぶこともできなくなった。親の監視の中でしか遊べない。大人の監視の中でしか安全に健全に遊ぶことしか許されない。そんな日本に登場したポケモンというコンテンツ。

 僕はポケモンが流行った理由は無機物への有機的接触と捉えている。子供が虫の脚をもぐ行為のようなイノセントな採集と殺戮(ゲットとバトル)がゲームの中で行われている。僕はこのイノセントな採集と殺戮は子供の成長過程では結構重要だと思っていて、無差別にずっとやり続けるのは問題かもしれないが、その幼少期の時期で行うことは「生命」を知る上では最もてっとり早い手段であると思う。その行為が無機物の有機的接触であっても効果は同じ。

 しかし、実際に虫や爬虫類なんかを殺すことは許された世界だったのだろうか?と幼少期を思い出すとちょうどその頃、酒鬼薔薇聖斗の神戸連続児童殺傷事件が起きて、虫を殺すことさえも殺人衝動ではないか?と過剰に反応していた大人達の狂乱を子供ながらに感じていた。そして、僕らもそうして刷り込まれ育った。
 多分、そのことが世間的にも子供の無機物の有機的接触、採集と殺戮の不可視化を推し進めていった要因だと思う。

 僕もそんなポケモントレーナーの一人だった。夏休みのラジオ体操が終わると神社でみんなで集まって、通信対戦、攻略の方法なんかを話合った。
普段は女の子なんかと遊ばないんだけど、力ではない、性別ではない真剣なる、公平なる勝負がそこで繰り広げられていた。淡い思い出。
 小学5年生ぐらいになるとゲームボーイカラーで金銀が発売され個体値やたまごシステム、色違いポケモンシステムが実装される。繁殖システムと遺伝システム、アルビノなんかの代用品だと思う。これはかなり画期的で友達と個体値と技のバリエーションを競い合ったりして遊んでいた。

 よくよく考えてみると一人一台のモニタという、ゲームの携帯化、通信対戦によって更に大人からは見えなくなる。可愛いキャラによって煙に巻いた採集と殺戮が記号化し、そして生殖システム、性すらもゲームのように記号化し、個体値、遺伝的要素もゲームになる。
 これは幼少期には学ぶ領域が広いけど健全な気がしている。採集と殺戮のみならず、生殖と遺伝を学ぶこととなる。一見すると良いことのように見えるが、問題はこの記号化していくことだ。ゲームの中の性行為は記号化していく。これがネックになって大人になってSEXがスポーツになったり、逆に遠い星のSF的存在になる。プレイヤーは生殖と性、遺伝、から突き放された存在であるということを植え付けられたポケモンになるのだ。

 虫を殺すのはかわいそう、大人はそう言いつつポケモンは何度でも何度でも死んでいく、きずぐすりを飲ませ、ドーピングでレベルを上げ、げんきのかけらという不思議なクスリで復活させ、もっと戦え、もっと戦えと…

これは優秀な社畜成長システムではないですか?
「ありがとう」のために戦わせたのではないですか?

 もう一つは、この採集と殺戮が自分ではない記号化されたものであるから僕は異常ではないという安心と安全。自分がポケモンを動かしてはない。

この人(レッド)を君が動かしているから君は悪くない。
君はボタンを押しているだけ。殺しているのはレッドだから。
そうだよ君は悪くない。

同時期デジモンは自分で成長させる電子LSIゲーム。デジモンが死ねば君が悪い。

 僕の友達と遊んでいるとき不思議なのはデジモンが死ぬと君は泣くのに、ポケモンでやられても泣かないことだ。
つまり、死はデータの損失でしかなくなる。記録、記憶こそ生命なのだ。

そして、親はトレーナーなんだろうか?親もポケモンなんだろうか?と考え始める。実際感覚的には僕はそう思っていたと思う。

子どもたちは僕はお父さんお母さんの所有するポケモンなの?
それともお父さん、お母さんがポケモンなの?
親がトレーナーなら親のための代理戦争の道具にならなきゃならない。
親がポケモンなら個体値からは逃れられない。


さぁポケモンを始めよう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?