何歳になっても身一つ

伊勢神宮への研究が進んでいないので、エッセイを書こうと思う。

私は昨日で22歳になった。

四日市で用を済ませてからお菓子をいただいて、お抹茶をいただいて、人生で初めての伊勢神宮に行ってきた。

神宮に関する本を読んでいて、神宮は天皇が国の繁栄を祈る神様なので個人のお願い事をするよりも感謝と自分の周りの地元地域の発展を願いなさい、とのことだったので、22歳まで生きることができ、とても楽しい人生を送らせてもらっていることの感謝と自分にかかわっているあらゆる人への感謝とこれから日本がどんどん発展、豊かな国になれるようにとお祈りした。


昨日日本を支える神様と対峙して自分のことではなく大きいことをお願いしたら、今になって、果たして自分はよりよい国になるために何をすればいいのだろうか。自分一人の力はとても些細でなんにもならないなぁ、と自分の存在のちっぽけさにしゅんとなった。

22歳。大学3年生。

当たり前のように大学に行かせてもらって、年間100万円かかっている私。お金を稼ぐというのは=社会貢献の対価だと思う。だから高校卒業後、働いて社会の役に立っている人に比べて私は何も貢献することができていないなぁと思ってしまう。

お金=というのは対価だと思う。

何に対しての対価か。

自分の命を使ったものに対して?

いや、それはあまりに味気ない。

じゃあ何に対してだろう。

社会貢献?

いや、悪いことをしてお金を稼いだ場合=社会貢献には当てはまらない。ちなみにここでいう悪いことに盗む行為は当てはまらない。人のお金をとったものでそもそも対価ではないからだ。それでいうと盗んだお金=自分の心かもしれない。負い目を感じて生きていくと心が減る。

話がそれた。

お金=人から定義されるその人の価値

ではないだろうか。

時給1000円で働く人はどんな人間にもかかわらず、決まりきった仕事をすればよい。1000円にも満たないと思われたらクビで、それ以上の働きをするとみなされたら時給アップだ。

それはつまり、自分の時間をお金で売っているということ。それに気づいた若者はお金以外に付加価値を見つけるバイトをする。私がPRに興味があるからPR会社でバイトをしているように。

でもお金を欲して起業する人もいる。

私はどうもビジネスが苦手だ。お金が大事だと分かってはいるが、ビジネスはちゃんと利益を考えなければいけない。利益第一優先だ。周りに起業をしている人が何人かいる。学生起業をしたことがある社会人にも会った。今の時代学生起業家は珍しいことではないが、それでもやっぱりすごいなぁと思う。

資本主義社会の中、「お金」というのが絶対カーストだからだ。ビットコインやホームレス芸人小谷(※1日50円で自分を雇える事業を行っているが、食べるものなどには困っていない)や中国の信用スコアに関しても「信用」というみえないものがお金になりかわりつつある時代とはいえ、まだまだお金がいらない時代はきてはいない。

だから、と思う。

だから私は負い目を感じているのかもしれない。


これは、最近まで自分で言うのもちょっと恥ずかしかったことなのだけれど、私は世界を変えたい、と思っている。変えたい、というか、変えるものだ、と。

なぜ恥ずかしいかといえば、どう変えたいかも分からないからだ。”どう”が分かっていないから”どうやって”の部分も分かっていない。

きっと自分が世界を変えると思っている若者なんてうん万人もいるのだろう。そして、そんな若者を見て若かりし頃自分もそう思っていたけど結局そうはなれなかったと思っているおっちゃんたちもうん万人もいるだろう。だから奇抜なことを言っているようでありふれたことを言っていると分かっているから恥ずかしさがある。

ただ、

ただ、私が世界を本当に変えるかどうかは別として、私が22歳の今までこの気持ちを絶やさずもってもがいていることは事実としてある。

人生100年時代で客観的に見てまだまだ若造とは言っても、もう22歳。22年間生きているとはいっても、18歳くらいに企業して世界をあっとさせている人は何人もいる。さっきも言ったが、同世代でも自分の天命はこれだ!と確固たる意志をもって貫いている人を見ると焦ってしまう。待ってくれよ、私はまだまだそんなの見つかっていないよ、って。

だけど、ふと視線をあげてみると、はたから見て「天命はこれだ!」と決まっているように思える人でも実は見えないところで悩んでいることを知った。私からしたら成功しているように見える人でもこれからどうしようと悩んでいることを知った。


もし、自信満々に生きている人がいるとすれば、それは他人からそう見えているだけでほんとは不安も抱えているか、自分の人生を生きていない人だと思う。社会的な価値観=日本国民の平均値だ。社会的に良いとされている方向に進んだら、それは社会から絶対的な後援を得られるから安心する。だけどそれは結局平均値だから、自分の価値観に当てはまるかどうかは分からない。社会的後援のおかげで自分は正しいと自信はつくが、自分の価値観をしっかり話せなかったりする。私が出会った人は自信で満たされていない人ほど自分の人生としっかり向き合っている人だ。


大手メーカーの40代くらいの方にお会いしたことがあった。その人はわりと上の方のポジションについていて、自分の仕事に誇りをもって楽しそうに生きている人だった。やっぱり仕事を楽しそうに語る大人はかっこいいなぁと思いながらお話していたら帰り際に年齢を聞かれた。21です。と言うと、

「おぉ、いいねえ。まだなんにでもなれるじゃん。」

と言ってじゃあね、と去っていった。


気持ちと実力が伴っていなくて、焦っていたがこの言葉にはっとさせられた。焦っていて「何者でもない」ネガティブな面しか見れていなかったが、それは裏を返せば「何者にもなれる」ということだと少し勇気づけられた。

ちょっと語弊があるが、私は何者かになりたいわけではない。

kemioが質問コーナーで「kemioは何になりたいの?」と聞かれていた時に「kemioはね、kemioになりたいの、はい、ツギィ~」と軽く流していたが、私がなりたいのもこういうことだと思った。

私は自分自身になりたい。

自分の方法で自分がなってほしいような世界をつくっていきたい。


結局それが自分自身が生まれてきた意味で、というより生まれてきた意味なんてないんだけど、でもせっかくこの世に誕生したからには世界を変えようという気持ちがあった方が楽しくなるな、と思ったから、もっとワクワクしようと思った。

自分が作りたい世界はどんななんだろう、どうやって作ろう、それを考えてワクワクすればきっとそうなるような気がする。



本当はこのブログの結論はそのために実働と思考を並行してやらないと、とかいうhave to形式で書こうと思ってたけど、まとめるときに気が変わってしまった。

大体義務感でやっているものって疲れるし、疲れるとあんまりうまくいかない。笑

やっぱ楽しまないと!


試行錯誤を繰り返して、トライアンドエラーをいっぱいして、22歳たくさんたのしむぞーーーー!!!

何歳になったらできるとかではなくて、やっぱり今この時を全力で生きているから変えられるものもある。人生は短いし、もう22年生きたし、自分のその時出せる全力を出し切ってがんばります!22歳のテーマは「手加減をしない!」最近手加減ばっかして第一線に立たないで涼しい顔してたからなあ。もっと泥臭く必死にならないと人生あっという間でいつの間にか死んでしまう!


最後いきなりテンション高くなって、最初のシリアスな場面なんなんだよって温度差すごいけどここまで読んでくれた方ありがとう!

21歳お世話になりました。

22歳の私もよろしく!!!

伊勢より。

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