雪の降るよる⑤ 石川県とラクレット
私は今は事務のバイトをしていて、時給は安いがその分仕事も簡単だった。小さい事務所で備品の管理とか、電話の取次とか、誰でもできる簡単なことばかりしていた。事務所は男性社員が多く、明るく振舞っているだけで褒められたりした。居心地は悪くなかった。
その日は裕也が早上がりの日なので、珍しく待ち合わせて食事をすることになっていた。裕也は基本的なシフトが通しか遅番なので、なかなか時間が合うことはないし、土日休みの私とシフト制の裕也では休みすらなかなか合わなかった。だから、たまにこういう日があると、気分が変わるのでとても嬉しかった。
定時になり、事務所を出て電車に乗る。京王線沿いに住んでいるので、こういう時はいつも新宿で待ち合わせた。中央東口を出てロータリーを越えると、裕也がガードレールに腰かけてスマートフォンを見ていた。裕也はこちらに気づき、イヤホンを外して手をあげた。
「お疲れ」
「お疲れ。早かったね」
「んー、今日スタッフ少ないからちょっと残業するかなと思ったら、店長が帰らせてくれてさ」
言いながら、裕也はスマートフォンを見ながら歩き出した。どこへ行くのかも告げない裕也について行くと、裕也にしては、洒落たワインのお店に連れて行ってくれた。
「アキ、チーズ好きだろ。ここラクレットが有名なんだってさ」
店内はカップルか女子会のどちらかで、落ち着いたジャズ風の音楽に重なるように、甲高い笑い声があちこちから聞こえた。席についてスパークリングワインのグラスと、適当に生ハムやらつまみをいくつか注文すると、ふと私たちは沈黙した。たぶん、あらためてこうして時間をとって、外で二人で過ごすことに緊張したのだと思う。普段は家でテレビを見ながら、お互いの仕事の愚痴やら友達の話やら適当に言い合っているが、こうしてお洒落なお店でテーブルを挟んで座ると、居心地の悪さを感じた。
「アキはさ、今の仕事続けるの?」
場を取り持つように、最近の天気の話題や、食事のメニューについてぽつぽつ話していたが、突然裕也はそう私に訊いた。
「え?うーん、どうだろ、わかんない」
いつまでも続けるような仕事ではないと思う。が、かと言ってじゃあどうしたい、というのもない。突然の質問に、そうごにょごにょと答えると、裕也は何かを考えるようにワインの泡に視線を落とした。
「もっと給料よくなればいいなぁ、とは思うけど、まぁみんないい人だし楽だし、このままでいいような気もして。よくわかんないなぁ」
そう続けながら、表情の読めない裕也の顔色を伺った。裕也は、ふーん、と相槌をうちながら、ワインを一口飲んだ。料理がいくつか運ばれてきたので、無言で食べた。
「俺さ、アキと結婚したいと思ってる」
裕也はしばらく黙ってから、そう切り出した。私は、一瞬言葉の意味がよくわからなくて、ぽかんとした。
「だから、先にアキがこの先どうしていきたいのか、とか知っておかないとなって思って。仕事もだし、住むところとか」
私と裕也は、付き合って一年半くらいになる。私は二十三歳になり、裕也は二十八歳だ。たぶん、もう結婚した友達の話に照らし合わせてみたり、一般的な感覚で言うと、「そういうタイミング」と言えるのだろうと思う。一年半付き合って、一緒に暮らして、じゃあ、次は?となると、結婚だろう。しかし今、裕也からその単語が出るとは思っていなくて、固まってしまった。
「俺もアキも、実家は離れてるだろ。俺は長男だから、もしかすると田舎に戻らなきゃいけなくなるかもしれない。アキはそうなったら、どうするのかな、とか」
言っていることは理解できるが、じゃあ実際に裕也が実家に戻ることになって、私は裕也の実家のある石川県で生活できるのか、ひとつも想像がつかなかった。
「アキ?」
裕也は、黙っている私の顔を覗き込んだ。私は我に返り、言葉を探した。
「ええっと、そうだね。私は、裕也がそう言うなら、大丈夫だよ。実家は今より遠くなるけど、弟がいるし」
私がそう歯切れ悪く答えると、裕也は「そうか」と笑った。
「よかった、そう言ってもらえて。今日この話したくて、ちょっと緊張してたんだよね。プロポーズはいつかちゃんとするからさ、まあ待っててよ」
上機嫌でそう言う裕也に合わせて私も笑ったが、今の私にはそれで正解だったのか判断がつかなかった。
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