さみしさの話
終わりは否応なしに寂しいものだけど、その終わりを終わりのままにしておくのもまた美学である。ひとは味わい尽くして味がしなくなるまで分からないものであるし、そこまで行ってしまえば美しさのへったくれもない、なんと醜く貪欲なものかと思う。
私もやはり最後はきらいなので、味のしそうな思い出は反芻したいと思う、久しぶりのひとの連絡を入れると、思った以上に好意的な返事が来たりして、それも我に返ってぞっとする。終わりからさらに続編が紡がれることなんてあってはならない。もう読者も作者もこりごりだ。そしてやはり、そこから紡がれる物語には違和感が拭えなくて、おかしなことになる。キャラクターがそれまでの姿をとれていない、姿も声も台詞も、まったく違ったものになっている、それは期待していた答えとのずれの話。
そうなってくると、自分自身も変わってしまっていることを自覚することになる、当時のままなんてそんな甘ったれた幻想なんか糞くらえ。自分自身は変わってしまっている、それはきっと周りよりもずっと深く感じることになる、なぜなら終わりを寂しがる相手なんか一瞬のもので、一生をかけて私は自分自身の変化を感じ、そこに寂しがるものだからである。
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