雨の朝

 暗く湿った空気を肺一杯に吸ったら、私はもう一度布団に潜り込んだ。朝から雨だなんて、憂鬱になれと言っているようなものだし、そうでなくとも私は日々憂鬱だ。いっそのこと全部わからなくなるくらいに壊れてしまいたいと、絶望さえさせる空気のにおいに比べたら、自分のにおいが染みついた布団はやさしい。死ぬならこの布団にくるまれて死にたいな。そうだ、じゃあそう遺書に書いておかなければ。紙はあったかな。軽率な遺書を作成したら、今日は適当に寝ておこう。飯すら食べる権利も私には与えられない。飯はどちらでもいいのだ、それよりも私は、あの夜が欲しくて、あの日々を買いたい。金も若さも力もないけれど、法外な値段だとしても欲しいと思う。
 昨夜、くだらないと吐き捨てていて、それでもつい見てしまうインターネットというものの中の、あのひとのアカウントが更新されていた。かつての私のように、隣には女性が写っている写真、もう三年も経っているのだから、もっと早くにそんな写真を見てしまってもおかしくなかったが、三年という月日が経って、不意に私を動揺させた。若かった、浅はかだった、未熟だった私は、隣に居続ける権利を与えられなかったし、それは差し詰め飯のように、私を飢え痩せさせた。そして、霞のような微量なものを摂取しながらなんとかここまで生き延びてきたのに、もうそんな権利もない。ああ、いよいよ遺書が必要なようだ。どんよりと灰色の空に、漠然とした世界に、私は自分の居場所はあるのかと考え込む。居場所なんて探したところでないのは重々わかっている。居場所は自分で作るもの、私はその作業からずっと逃げてきていたから、ほら、今はひとりきりで飯も食えずに雨を恨んでいるだけじゃないか。だけど、私はどこへ根をおろしたらいいのかもわからなかったのだ。延々、ふわふわと浮遊して、もし万が一、霞のように誰かの糧になれることがあるとしたら、それだけでいい。ねえ、生きるって、そんなに頑張らなければいけないもの?
 例えば明日死ぬことに決めたとして、たぶん死ぬ瞬間は苦しくてつらいけど、それ以外に心配することはきっと私にはなくて、だって死んでしまえば全部わからなくなるから、あとのことは全部どうだっていい。あの写真のことも、最後の晩餐も、明日の朝は晴れるのかも、考える必要なんてない。ひとつだけ、このやさしい布団にくるまれて、ふわふわ浮かばれればそれだけでいい。私の煙は空にのぼって雲と同化して、いつかこんな日に雨として降りてこられたりするのかな。無理か。そうしたらせっかく何も気にしなくていい空に浮かべたのに、また見たくないものを見てしまうかもしれないし、こんな雨になって誰かを憂鬱にさせるのはいやだな。
 私は嫌いなインターネットを使って、再びあのひとの写真を確認した。あのひとと過ごした時間に、こんな辛気臭い雨は降らなかった。暗くて寒くて私を殺しにかかっている。べつになんだっていいんだけどね。気づけば起きてから一時間は経過していて、平日の昼間だというのに私にやることなんてなくて、ただ喉だけはからからに渇いている。仕方なく起き上がり空を睨みながらお湯を沸かし、熱い茶をゆっくり飲んでいると雨があがり太陽が顔を出した。
 なんだ、晴れたんじゃん。しとしとと地面はまだ濡れているが、空気のにおいが変わった。そうだ、久しぶりに回転寿司屋で酒が飲みたい。コーヒーも飲みたい。遺書のことも写真も飯の権利だとかもすっかり飛んでいって、私はお茶を飲み干したら部屋着を脱いだ。この、雨の日にたまに湧きおこる漠然とした、簡易的な不安や感傷とは、これまでもずっと付き合ってきたし、今後もずっと続いていく。真剣に死ぬことを考える瞬間もあるけれど、結局それを含めて生活というものなのだ。

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