エリカさん③
ピーさんはワインを一本飲むとスコンと眠りに落ちる。私もとくにやることがないのでとりあえず布団に潜る。私はアルコールを摂取してもピーさんほど寝付きがよくはないので、もぞもぞ寝返りをうったり暗闇の中で手相を眺めたりしていた。空気はりんと冷えて、風でベランダに出してあるピーさんの灰皿代わりの缶がからから転がった。
思えば、エリカさんとの出会いはどこだったのだろう。まったく思い出せない。おかしいな。そういえば、私はこのところ外出をしていない気がする。エリカさんは、確か公園で、いや玄関で、いや商店街で。私に語りかけるエリカさんの優しい声が思い出される。いや、エリカさんは鼻歌ばかり歌っていたかもしれない。
そんなことを考えていたら、外が一層静かになり、まるで世界から孤立してしまったかのように思えた。もしかして。布団から抜け出し、カーテンを開けると、思ったとおり雪がちらついている。なかなか大粒の、ぼたぼたと音のしそうな雪は、ベランダの柵に貼り付き、徐々に白くしていく。
いけない。私は反射的に思い、しばらく起きることはないであろうピーさんの横を抜け、コートを羽織った。静かに鍵を開けて、走り出す。顔がぴりぴりする。ぺたぺたと音をたてるのは、何年か前にピーさんに買ってもらった、真っ赤なストラップつきのサンダル。ビニール素材で、とても歩きやすく、丈夫だ。でも、やっぱり言ったとおり、私の靴下はびしょびしょになりそうだ。私は、このサンダル一足しか靴を持っていない。
夜の街は雪をひたすら受け止めるしかなく、夜のうちに出された燃えるごみも、誰かが落とした汚れたハンカチも、びしょびしょに凍えている。私の足先も冷えてそろそろ痛くなってきたが、それはどうでもよかった。
エリカさん。ドラッグストアの脇の路地に顔を突っ込み、声をかけてみる。ここにはいないようだ。そしたら、あっちか。角を曲がり、古いアパートの軒下を見て回る。エリカさん、ここにもいない。私は走り、公園に向かう。きっとエリカさんはあそこにいる。夜の公園は、雪が降っているにも関わらず、煙草を吸っている人や傘をさして歩いている人がいる。私はそこまで広くない公園中を、くまなく探した。公衆トイレの裏、茂みの中。通りかかった人に尋ねてもみた。しかし、困った顔をするだけで、エリカさんのことは何も知らないみたいだった。
ついに疲れ果て、滑り台の階段に座り込んだ。心当たりは全部探したつもりだったが、エリカさんはいなかった。エリカさんはどこにいるのだろうか。呆然として、項垂れた。ピーさんの言うように、自分でどうにかしたのならいいのだが。私はエリカさんが心配でたまらなかった。雪はどんどん強くなり、辺りはどんどん白くなっていく。さすがに私のスプリングコートでは心許ないし、パジャマのズボンには溶けた雪が染み込んできて、下着まで濡らしていた。つま先が真っ赤になり、痛かった。
スコンと、遅れてアルコールでの眠気が襲ってきた。寝てはいけない。わかってはいるが、少しだけ目を閉じたかった。いつもなら寝ている時間だった。少し休んだら、もう少しだけエリカさんを探して、帰ろう。よく冷えた階段の手すりに頬を寄せて、少しだけ休憩した。
気づいたら、目の前に人が立っていて、いや目の前どころじゃなく、何人かが私を取り囲んでいた。よくわからない言語で色々尋ねられたので、ぼうっとそれを眺めていた。赤い光がちかちか遠くで点滅していた。
「あの、エリカさん知りませんか」
寝ぼけた頭で、なんとかそう目の前の背の高い人に聞くと、数人で顔を見合わせて、そして私の腕を引っ張った。
「あの、エリカさんは」
無理やり立たされて、引きずるように公園の出口まで連れて行かれるのを、抵抗しようにも力の差が歴然でびくともしなかった。エリカさん。そう叫ぶように声をあげながら、私は車の中に押し込まれた。
結局、エリカさんは見つからなかった。あれ以来ピーさんにも会えなくなった。私は、汁がたっぷりご飯に染みた牛丼食べることも、ワインも発泡酒も飲むことがなくなった。アルコールがないと寝付きが悪いので、眠れずにあちこち歩き回ろうとすると、取り押さえられた。退屈な退屈な、白い部屋に閉じ込められて、私はエリカさんとピーさんのことを思った。
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