ワールドカップで異文化を公然と野蛮視する「先進国」の傲慢と病
どんな思想を持っていてもいい。
自分たちの価値観が最高のものであると考えるのも勝手だ。
しかし、自分たちの文化を公然と侮辱された時に人々がどう感じるかを想像することもできないなら、知性と品性に欠けていると言われても仕方ないだろう。
サッカー・ワールドカップで不思議パフォーマンスを披露したドイツチームと、それを褒めそやし、ましてや日本チームもそうするべきだと言うような人たちのことである。
自分たちを受け入れてくれたホスト国において、世界中に向けてその国の文化を劣ったものだと宣言する。これほど傲慢で無神経な行為はなかなか見られないものだ。ポリコレという新宗教に帰依した「先進国」の人間を除いては。
断っておくが、私はカタールにおいて同性愛は合法化された方がいいと考えている。人権思想はおおまかには世界を良くしてきたと思うし、自分が暮らすなら「先進国」の方が楽だろう。ようするに私はカタールで生活したいとは思わないが、だからと言って、わざわざカタールに行ってそれを公言しようとは思わない。それはどう考えても明らかな侮辱であり、節度のある人間がすることではないと思うからだ。
もちろん「先進国」の「道徳的に正しい」人たちも、異文化を安易に否定するべきでないことくらいはわかっている。それが「道徳的に正しい」からだ。しかしポリコレは彼らにとって超文化的真理であり、世界中の人々が無条件に受け入れるべき神託なのだ。
重ねて言うが、「先進国」の「道徳的に正しい」人たちがそう考えるのは勝手である。思想の自由、言論の自由は重要だ。しかし彼らのやっていることは「先進国」の圧倒的な国力を背景に、数の上では明らかに多数派であろう「伝統文化を愛し、尊重する人々」を貶め、糾弾することなのだ。それで世の中がよくなると思っているのである。なんとも幼稚で独善的な態度ではないか。
私自身は人権思想を買っているし、それを世界に普及させたいという気持ちは理解できる。しかし、それは恐ろしく繊細で困難な課題であり、白人キリスト教文明に基礎を置く「先進国」が他国に押し付ければ実現するというものではないだろう。実際、それは世界中で「先進国」のリベラルな価値観そのものに対する反発を招いている。いや「先進国」の中でさえ右派ポピュリズムが大きな勢力を築いているのは、そうした反発がむしろ普遍的なものであることを示しているのではないか。
しかしながら、「リベラル」勢力が自らの傲慢と独善性に気づく様子は見られない。例えばこの記事を読んでみてほしい。
どうやら、もはやアスリートには「政治的発言をしない自由」すらないようである。「日本選手は世界のスタンダードから取り残されている状況」だそうだが、その「世界のスタンダード」とやらの「世界」とは何を指しているのだろうか。その「世界」からはイスラム教徒をはじめ、地球上のきわめて多くの人々が排除されている。しかしこうした明らかな事実にすら気づかない。なぜなら「リベラル」にとって「先進国」の価値観は絶対的に正しく、それ以外は時代遅れで取るに足らないものだからだ。まさにその無謬性の盲信こそがポリコレが「宗教」であることの証左であり、世界の分断を助長する病だとしか思えないのだが。