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インタビュー:三澤建人「デザインのユートピアとUIという地平」<中編>

こんにちは。DDDPの中倉です。

前回に引き続き、UIデザイナー・三澤建人さんへのインタビューをお送り致します。

この中編では、コミュニティに対する考え方や、メインストリームという立場、生活や人間や倫理に対する価値観、そして「デザインとはなにか」について語っていただいています。

<前編>はこちらです。併せてご覧ください。

目次
・メインストリームとコミュニティ
・ヴィレッジヴァンガードと無印良品
・デザインとはなにか?
・動物的か、人工的か

メインストリームとコミュニティ

三澤 逆にお聞きしたいのですが、中倉さんには理想の生活やユートピアといった考えを、持っていらっしゃるのですか?

中倉 そうですね、私にはそういったユートピアが比較的強くあるのですが……しかし今お話を聞いていて思ったのは、このユートピアがある/ない、という立場の違いは、例えばコミュニティやコミュニケーションに対する必要/不要という立場と関連していると思うのですね。

例えば、私はコミュニティやコミュニケーションというのは、普遍的にある一定の価値を持つものだと捉えています。そしてその場合のコミュニケーションとは、ある種の「殴り合い」を示しているんです。

例えば、価値を表明する、というのはどこかで他の価値を否定することに繋がってしまうわけですが、それはある範囲内であれば互いに受け入れるべきだ、と私は思うのです。

つまり、価値を表明するという意味での「殴る」機会を与えられる代わりに、相手が価値を表明することで発生する「殴られる」という事象も受け入れる。

当然、そのようなコミュニケーションをとることは「しんどい」わけですが、しかしそれによって多様に価値が生まれ、世界が豊かになるという側面があるように思うんです。

そしてこの「殴り合い」というのは、三澤さんの「神を作ってしまうことに繋がるので、それは嫌」という態度とは、真逆ですよね。

生活において神を作らず、無理せず、誰にも無理させない、という考え方は、この場合でいえば「殴り合いはしない」ということであり、それはつまり、コミュニティやコミュニケーションに、ある意味で価値を置かない、という立場の表明であるように思えるのですか、いかがでしょうか。

三澤 というか、コミュニティはそこまで必要なものでしょうか?

もちろん、コミュニティの存在自体を否定する気は全くありません。例えば何らかのメインストリームがあり、それに対してマイノリティの人間がやるかたなしにコミュニティを作ったり、カウンター行為を必要としたり、そのコミュニティ自体を愛する、という気持ちは私にも分かります。

しかし、私の活動の場はそこには無いと思っているんです。

私としては、メインストリームにいたい。もっと言うと、メインストリームの少し先にいたい、という気持ちが強い。

ですからそれは「カウンターを狙う」というポジションではないし、そういう動機も無いんです。

ヴィレッジヴァンガードと無印良品

中倉 なるほど。今の話はよく分かります。というのは、以前に三澤さんとお話をさせていただいた時に、私が「万引き家族」という映画を観て、とてもよかったと言ったら、三澤さんは「さほど興味がないので見てない」と答えたことがあったんです。

三澤 そんなことを言っていましたか? 覚えてないな……酷いことをいうもんですね(笑)

中倉 確かに言っていました(笑)。

あと、加えて言うならば、私はヴィレッジヴァンガードが好きなのですが、三澤さんはそういう意味では「無印良品派」ですよね。

この差異は僕にとってかなり興味があるポイントで、僕なりに色々と考えてみて、一つの比喩にたどりついたんです。

例えば、目の前に水があったとしますよね。そしてそこから両手で水を汲み上げるとする。

その場合、三澤さんの興味というのは「その水を如何に多く汲み上げるか」という点に興味があると思うんです。しかし他方で、僕の興味は「そこから漏れ出る水の存在とその量」という点に向いている。

そしてこれはコミュニティ、ひいてはユートピアの必要/不要、という考え方に直結していると思います。

三澤 その例えは面白いですね。なるほど。

うん。基本的に、私にはユートピアというのはありませんね。
何故かといえば、神様のためのデザインを行った先に、人のためのユートピアは無いという考えがあるからです。

中倉さんのコラムの話に戻りますが、デザインには確かに神様がいると思うし、その神様のためのデザインをしている人もいると思います。

けれどそれは、やっぱり神様のためのデザインであって、そのデザインが誰かを幸せにすることはないし、そのデザイナーだって、そうは思ってデザインをしてないと思うんです。

要するにデザインの宛て先がどこを向いているか、という話です。

例えば、日用品を作るとしますよね。そしてデザイナーが自身の中で研ぎ澄ませた曲線によって、その日用品を作ったとする。 もちろんその曲線を通じて、デザイナーの想いは、デザインの神様へと届いていると思います。

しかしそれは日用品を使う人へ向けられたデザインではありません。それではやはり、人に届かないですよね。

つまり、誰に向けてデザインをするのか……いや、デザインという言葉はよくないですね。誰に向けて形を作るのか、という、それだけの話です。

デザインとはなにか?

中倉 すみません。今「デザインという言葉はよくない」と仰いましたが、それはどういうことでしょうか?

三澤 デザインという言葉はよくないと思うんですよ。こんな言葉無くなってしまえばいい、と思うことすらあります。

例えば、デザインは物理的なモノを生み出す技術を指す言葉ではありませんよね。そうなると、モノを生み出すときにだけデザインが必要だということになってしまう。そうではないのです。

モノを作る際には、使い手が何を考え、どのようにアプローチして実現するのか、というプロセスが存在しています。そしてそれをメタな視点で、考え方自体を設計することもできるわけです。そしてその考え方を設計すると、アプローチとして全く違うプロセスを設計することができます。

つまり、デザインはモノを作る技術ではなく、モノを考えるための技術なんです。それは手段であり、考え方でもある。ですから、デザインという言葉は名詞でも動詞でもない、と私は思っています。

では、デザインとは何なのか?

実は個人的に「デザインとはなにか」を現した言葉を集めているんです。
とりあえず現時点において私がもっとも納得できる言葉は「人が人らしく生きるための知恵」という、柴田文江さんの言葉です。この言葉はデザインにおける様々なものを内包しつつ、ある程度絞られた範囲を指す言葉だと思います。

デザインを知恵と呼んでいるのは、そこに「型」があるからだ、と私は理解しています。

最終目的を明確にすること。それが型です。
最終目的があれば、そこへのアプローチは様々な角度で考えることができます。そして「目的に対するアプローチ」を目的に、さらに様々なアプローチを考えることもできる。

中倉 しかしその場合、デザインではなくプランニングという言葉も当てはまると思いますが、その二つに差異があるとすれば、それはどのようなポイントにあると思いますか?

三澤 私はプランニングについては詳しくありませんから、あくまでも個人的な印象にすぎませんが、プランニング、ないしはプランナーと呼ばれる人は「目的」や「納期」を重要視するのだと思います。

クライアントから「目的」と「納期」をもらった場合「納期までに、何をどのように行い、目的を達成するか」ということを主眼に考え、行動する。つまり、時間や時系列というフレームが強いわけです。

他方でデザイナーはといえば、時間はあまり固定していません。「目的」を達成することが、一瞬でできる場合もあれば、十年という歳月を必要とすることもあるからです。目的を達成するために必要であれば「納期」をずらす提案すら必要となります。

もちろん、プランナーも「納期」をずらす提案をすることはあるでしょう。ただ、その場合でも「目的」は変えないと思います。 しかしデザイナーの場合は、目的の本質に遡り、別の目的を提案する、ということも可能なわけです。

そういう意味では、プランナーはデザイナーより絞られた範囲で活動していると言える。もちろん、だからこそ、そこに専門性があるわけですが。

動物的か、人工的か

中倉 先ほど三澤さんは柴田さんの「デザインは人が人らしく生きるための知恵」という言葉をひいていましたが、三澤さんの中で、その場合の「人」とは、どういう範囲を指す言葉なのでしょうか。

例えば先ほど、私はヴィレッジヴァンガード派であり、三澤さんは無印良品派だ、という話がありました。 では何故私がヴィレッジヴァンガード派なのかといえば、あそこが動物園のような、ある種のカーニバルな状態に感じられるからです。

三澤 そうですか? 私にはかなり人工的に感じられます。 そもそも、私がヴィレッジヴァンガード派でないのは、単純な問題として、そこに並ぶ商品が、日々の生活において、必要だと感じられないためです。

中倉 そういう見方もあるでしょう。ただ、私としては、あそこは理性や倫理から放たれた場所だと思うのですね。作り手にしろ使い手にしろ、自分の趣味や嗜好に対して、理性や倫理と関係なく、単純に好みか否かという感情が強く作用し、選択している。

この理性や倫理が機能していない状態を、僕は動物的だ、と感じるんですね。そしていささかポエティックに言うのであれば、ヴィレッジヴァンガードは、一般的な社会において倫理的かつ理性的な人間でいることに疲れた人間が、動物としての自分に戻れる場所、というふうに理解しています。

三澤 それは確かに動物的ですが……なるほど。あれが動物的だ、と思っているというのは、私にとってはかなり新しい価値観ですね。

ただ、私にとってはやはりヴィレッジヴァンガードは動物的ではなく、人工的なんですね。いや、超人工的だと言った方が正確なのかもしれません。

これは私なりの生活に対する考え方なのですが……例えば人としての基本的な、寝て、起きて、食べて、というような、あるべき生活がありますよね。それが私の中では、中心に位置しています。そしてその部分を豊かにしてくれるものとして、無印良品の製品や、深沢直人さんや柴田文江さんのプロダクトが、生活の周囲に存在していると思うんです。

そしてその外側の層に、もう少し人々の特化した個性に対応したプロダクトを作る人たちがいると思うんですね。例えばスポーツをやる人と、やらない人では、靴に求める機能や形状は違ってくるし、写真に凝るひとと凝らないひとでは、そもそも求める機材が違ってきますよね。

そういった層を幾重にも重ねた外側に、ヴィレッジヴァンガードは存在していると考えています。

中倉 三澤さんの中では、ヴィレッジヴァンガードは人やその周囲にある基本的な生活からは遠い外側に位置しており、それを超人工的だと呼んでいるのですね。

なるほど、それは僕とは真逆の考え方ですね。

恐らく三澤さんの中では、中心に動物があり、その外側の層として人間があり、さらにその外側に倫理や理性が存在している。そして倫理や理性は、人としての可能性を広げ、豊かにするものだ、という感覚がありますよね。

僕の場合は全く逆です。まず無限に広大な領域として動物が存在しており、その一部の範囲に人間が、そしてその内側に倫理や理性が存在している、というように、狭めていく感覚があるんですね。実際問題として、理性や倫理は人間を律するものだし、それを尊重した場合に選択できる行動の数というのは、少なくなっているわけじゃないですか。

三澤 いや、図が逆転しているだけで、言っていることは恐らく同じだと思います。

中倉 しかしその「逆転している」というところが大きな差異だと思うんです。

要するに私は、理性や倫理で人間を律するのはいいけれど、律するだけではどこかで爆発してしまう人間も出てくるので、たまには動物に戻ることができる、ヴィレッジヴァンガードのような存在が必要だと思うわけです。

しかし三澤さんは倫理や理性は、そのように縛り付けるものではなく、逆に豊かさに繋がるものだと感じているわけですよね。

確かにそういう視点では、三澤さんがデザインを「人が人らしく生きるための知恵」だとする柴田さんの言葉に強く共感されたり、神様に向けたデザインではなく、人に向けたデザインを目指すのも理解できるような気がします。

三澤 凄く基本的な話ですが、デザインという仕事はそもそも「作り手側のロジック」というのは通らないんですね。 そうではなくて、使い手側としてのロジックがあり、それであればこういう色や形がいいよね、というようにロジックが積み重なるのです。

後編へ続く>

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