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聖地学講座第279回「生態知 その2 菌類=キノコに学ぶ」

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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」                vol.279
2024年2月1日号
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◆今回の内容
○生態知 その2 菌類=キノコに学ぶ
・森の叡智「菌根菌ネットワーク」
・人はキノコに操られている
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生態知 その2 菌類=キノコに学ぶ
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 前回は、南方熊楠を例に生態知の話を書きましたが、配信から数日後、NHK-BSで植物学者の牧野富太郎と南方熊楠の生き方について触れたドキュメンタリーが放映されていました。ご覧になられた方もいるかと思いますが、前回の聖地学講座の内容をビジュアルでわかりやすく説明するような内容で、思わず乗り出して見入ってしまいました。

 そして、地球環境がどん詰まりの危機に瀕しつつある今、「自然」と「人間」といった二項対立的な考え方の矛盾にたくさんの人が気づくようになり、牧野や熊楠のように、人間も自然の構成要素の一つであり、様々な生物との相互依存関係で成り立っていることを自覚して、生活のあり方を変えていく必要があると考えるようになってきていることを実感しました。

 熊楠は、神社=鎮守の森が、生態知をそのまま保存している場所であり、これを残さなければ、人間は自然との結びつきを失って、滅亡へ進んでしまうと憂い、神社合祀に強硬に反対したわけですが、明治に失われてしまった生態知を取り戻そうという動きが静かに広まっていることに、もしかしたらもう手遅れかもしれないと思いつつ、一縷の希望を感じさせます。

 今年の冬は、関東では暖かい日が続いて、まだ1月のうちに梅の花が開き始めました。そして、あの「春の憂鬱」である花粉症が、早くもはじまりかけています。この花粉症も、生態知を無視してしまった結果の一つです。

 かつては、日本の森林、とくに里山と呼ばれるような人間の生活圏に隣接したところでは、ナラなどの落葉広葉樹が主体で、生活に必要な薪や堆肥となる腐葉土の供給源でした。ところが、文明化とともに建築資材となる杉や檜などの針葉樹に置き換えられ、これが全国の山を覆い尽くすようになりました。

 それでも「林業」がきちんと採算ベースにあったときは、森はこまめに間伐されたり枝打ちされて整備されて人工林としての平衡が維持されていましたが、戦後に安い外材が入っくくるようになると、そのまま打ち捨てられ、無秩序に痩せた木々が繁茂するようになって微妙な平衡も崩れてしまいました。

 それらの木々は、本来、その土地の植生に合わないものであり、仲間同士の生存競争にさらされて、なんとか子孫をたくさん作って生き残ろうとして、大量の花粉を撒き散らします。杉にとっては、無秩序なカオスの中で必死で子孫を残そうとするサバイバルなのです。花粉症は、いわば人間の自分勝手によって生み出された文明病…資本主義病ともいえるものです。

 個人的には、高校時代から花粉症に悩まされてきた身としては(当時は「花粉症」という言葉がなくて、どうして春先に必ず風邪をひくんだろうと疑問でした)、この「業病」の根を断つために、なんとか忘れられた生態知を思い出し、社会が変わってほしいと願うばかりです。

 近年、人類学の分野では、“many kinds of being”=「たくさんの類(たぐい)たち」という言葉がよく使われます。「類たち」とは、人間も含めて、この地球上で生きる生物全般のことです。長い地球の歴史の中で登場してきた類たちは、どれひとつ単一で存在しているものはなく、相互依存と互恵の関係にあってバランスしていることを表す言葉です。

 個々は異なる種であっても、その種どうしが緊密に結ばれあうことで、全体としてまとまりのある生態系ができています。世界は、単なる「個」や「種」の寄せ集めなのではなく、それらが集まり、緊密な関係性を持つことで、全体が一つの意志を持った「大いなる存在」となっていると言ってもいいでしょう。これは、別の言い方をすれば、人間と非人間を含めた広い意味での「行為者」全体を扱うアクターネットワークともいえます。また、ガタリ=ドゥルーズの「アッセンブリッジ」という概念にも共通します。

 今回は、そんなことを踏まえつつ、生態知についてもう少し掘り下げてみたいと思います。

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