網膜剥離になって3時間の手術を受けた話――失明リスクは突然に訪れる
※最後の項目(目の写真など)以外は全て「無料」で読むことができます。約1.5万字の超リアルレポートです。
網膜剥離は誰もがなりうる目の疾患。ボクサーの病気じゃない
今年最後の原稿として、自分自身の実体験レポートを書きたい。
タイトルの通り、右目がある日突然に、何の前触れもなく「網膜剥離」になり、医師から「失明リスク」を告げられ、大学病院で3時間の緊急手術を受けた話だ。
僕は網膜剥離なんていうものはボクサーがなる目の疾患であり、自分には無縁のものだと思って生きていた。本当に青天の霹靂もよいところだったので、この体験が誰かの役に立てばと思い、時系列で記載していきたい。
ちなみに医師の話によると、網膜剥離を患うのはボクサーがほんの一部であり、「大半は一般の方」ということだった。ニュースなどでボクサーの話がインパクト強く伝わっているから「網膜剥離=ボクサー」というイメージが強いが、実際はそうではないらしい。
最初の異変と、眼科医での「誤診」
目に異変を感じたのは今年2024年10月23水、24木頃だった。
突然に右目の視野が下のように、左側に影のようなものが見えるようになった。
「あれ、何か変だな」と思い、少し様子を見ることにした。でも、1日、2日ほど経っても一向によくならないので、街の眼科Aクリニックへ行った。そこは自分が子どもの頃から通っているところで、高齢の医師が開業しているクリニックだ。専門の眼科医であり、信頼をしていた。
視力や眼圧、眼底の検査、医師が直接虫メガネみたいので目の中を覗き込む検査などを行い、
「結膜炎ですね。目薬を出すので、それを打ってください。2,3日でよくなると思いますけど、1週間ぐらい続けて大丈夫ですよ」
と言われた。
それを聞いて「目薬を打っておけばすぐに治るんだ」と安心した。その日は近くの薬局で処方箋通りに目薬をもらい帰宅した。
これがとんでもない誤診だとは知らずに。
別の眼科クリニックでは見た瞬間に「網膜剥離ですね」
それから10/26土、27日と、処方された目薬を1日3回打ち、安静に過ごしていた。
でも、目の症状は全く良くならなかった。
むしろ悪化していた。週末に僕の右目の視界はこんな風に変わっていた。
左側が「影」から「すりガラス、モザイク」のようになり、見えなくなっていた。今思えば、これは網膜がペロペロと剝がれていたということなのだけど、そんなことを知る由もない。
いろいろとネットで調べて、そのときに口内炎もできていたので失明リスクのあるベーチェット病や、または脳の病気かもしれないと、いろいろと不安になった。
「何かおかしいな」と思いながらどうにか週末を過ごし、月曜日の朝。
モザイクの領域はさらに広がり、下のように視野中央付近にまで迫っていた。
「これは絶対おかしい。何かある」と、10/28月の午前中に、同じ地域にある別の眼科Bクリニックへ行った。
そこは以前、6歳の息子を連れて行ったことがあり、とても良い雰囲気で、自分も今後はここに通おうかと思っていたところだった。「ここに最初から行っておけば」と今でも思ってしまう。人生は思わぬところでその後の人生を左右する選択の連続がある。
Bクリニックは幸運なことに空いていて、すぐに診察室に呼ばれた。
女医先生は僕の目を虫メガネみたいなものでライトをつけて覗き込むなり、3秒で言った。
「あー、これは網膜剥離ですね」
「え、、? 網膜剥離? 手術が必要ですか?」
「はい。すぐに手術が必要なので大学病院への紹介状を書くので、待合室でお待ちください」
まさか自分が網膜剥離になるなんて、、それにそもそも網膜剥離ってなに? どういう状況なの? どんな手術をするの?
わからないことで頭がグルグルの状態で妻に連絡をすると、すぐにタクシーで駆けつけてくれた。
その間にXで網膜剥離を調べると、このポストがトップに出てきた。マンガでわかりやすく、サクッと読めた。
・網膜が破れている状態で、放置すると失明に至る(こわい)
・軽度であれば5分ほどのレーザー治療で終わり、その日に帰れる
・進行している場合は2時間ほどの手術で、その後に2週間ほどのうつぶせ寝が必要(これも見ていたが、正常性バイアスというのか、なぜか自分はレーザー治療で済むだろうと思っていた。そう思い込んでいた。現実を受け入れたくなかったことと、女医先生が軽やかな感じだったから)
その後、妻と2人で女医先生に話を聞いた。
・網膜が破れて剥がれている。それが視野の中央部分まで達すると、手術をしても視力が大きく下がってしまう可能性がある。だから早く手術を受けたほうがいい。
・この状態だとちょっとした衝撃で網膜は剥がれる。たとえば、先生の話を「うんうん」と首を上下に揺らす頷く動きだけでもその可能性があるから、極力動かさずに大学病院へ。
・ゆっくりここで話をしている間にも網膜の剥がれは進行する可能性があるから、とにかく急ぎ大学病院へ。
ということだった。紹介状をありがたく受け取り、タクシーに乗り込み、20分ほどの場所にある大学病院へと向かった。
失明リスクが目の前に。「失明を避ける手術だから視力は落ちる可能性が高い」という説明
大学病院へ向かうタクシーにも「人生の選択」があった。
道が混んでおり、ドライバーが「ここはいつも混むんですよね。他の道からもいけますけど、どうします?」と聞いてきた。
僕は「他の道があるならそっちから行ってください」と伝えた。これもまた失敗だったと思う。
その迂回路が大きな道ではなく、カーブが多かったり、ちょっとしたでこぼこ道を走る道で、網膜に衝撃を与えてしまったからだ。ここでもしかしたら視野中央まで剥がれが達してしまったかもなと思っている。でもこれは仕方ない。次にこういうことがあったら、焦らずに王道の道でいくことを選択したいと思う。
ともあれ、大学病院に20分ほどで到着して、10時ごろに受付をした。
「かなり待ちます」と言われた通り、5時間ほど(!)待合室で待ち、眼底などの検査を受けてから15時頃に先生の診察を受けた。告げられたことは以下の通りだった。
・手術をしなければ、このまま網膜が剥がれて失明する。
・網膜剥離は衝撃などで穴が開くような若年性と、網膜の劣化で剥がれる老齢?に大別されるが、あなたは前者。※自分は40代中盤だから後者でも不思議ではないと思った。
・近視が強く、飛蚊症などの症状がある人は網膜剝離のリスクが高いと言われている(まさに僕がそれ。飛蚊症なんて10代、20代の頃から)。
・近視の理由は遺伝的なもの。目が球体ではなく、ラグビーボールのように長くなっていて、平均24ミリよりも長い28ミリもある。
・手術はあくまでも「失明を避けるための手術」。視力が大きく落ちる可能性は大いにある。
・手術は「バックリング手術」と「硝子体手術」の2つがある。この状態だと「バックリング手術」を勧める。痛いけど、中高生でも耐えて受けているから大丈夫。
・手術が失敗する可能性もある。その場合は再手術を行う。
・全身麻酔ではなく、局所麻酔で行う。
※下記の病院は今回の件と「一切関係ない」が、2つの手術に関する説明があったので参考までに。
手術に関する説明を医師から受けたが、いろいろなことが突然に起こり、もう飽和状態で頭に入ってこない。「目の裏側を縫う」みたいなことを言われて「痛そうだな。やだな」と思ったことは覚えている。
そしてもう1つ、「手術日の問題」があった。
Bクリニックで「失明を避けるためできるだけ早く手術を」と言われていたが、大学病院の医師からは「4日後の11/1金に手術する」と告げられた。
それを聞いたときに「大学病院ならそうだろうな」という思いと、「その間に失明したらどうしよう」という思いが交錯していた。先生の話を横で聞いていた妻が即座に「今日お願いできませんか?」と言った。
先生はうーんと悩み、手術まで1週間ぐらいは普通にかかるもの、地域のほうだったら2週間待たされることもあることを聞いた。「それはそうなんだろうな」と思った。それから先生は裏にいる助手の方達と話をはじめ、僕達に「ちょっと待合室で待っていて」と言った。
それから妻は当日で網膜剥離の手術をしてくれる近隣の病院を探してくれた。街の眼科でそんな大それた手術をやってるところなんてないと僕は思っていたが、いくつかあった。それで妻はすぐに電話してくれた。ただ、そこも当日は難しく、最短の日を折り返しで教えてくれることになった。
同時に、最近僕がやっている代官山ブックスで本を出してくれた東京慈恵医大病院の世界一のスーパードクター(耳鼻科医)の大村和弘くんに連絡をした。すると、「ちょっと待ってね。確認する」とすぐに返事をくれた。その返信の早さと、この言葉がありがたく、本当に心強かった。感謝。
待合室でそわそわと20分ほど待った。ここ数日で一度に訪れた何度目かの「人生の選択」が目の前にあった。
そうこうしているうちに先生から名前を呼ばれた。そのときに妻は街の眼科の折り返し電話を受けていたが、とりあえずこっちを最優先に聞こうと伝えて、一度電話切ってもらい、一緒に先生の診察室へ入った。
「今日の夕方、これから手術やりましょう。運よく手術室が空いていた。ラッキーだったね」
本当にありがたく、僕と妻は深々と頭を下げた。心から右目を助けてくれた恩人だと思っている。
こうして当日の緊急手術と、入院が決定した。僕は40代中盤にして、これが人生初の手術&入院になった。
3時間に及ぶ手術。ドラマを見ているようだった
妻が入院の手続きをしてくれて、手術前に入院する4人部屋へと入った。
僕は誰かの見舞いで病室を見たことがあるが、実際に自分が中の人になるのは初めてだった。ベッド狭いな、でも寝るだけだから十分だなと思った。
後に手術前に6歳息子もこの部屋に来たのだが、ベッドを見るなり「せっま、やば」と言った。彼に思ったことを何でも口に出すのはやめようと教えようと思った。
このときまだ僕はお気楽で、手術後に原稿仕事ができそうだったら個室に移動して、そこで原稿を書きまくって個室代以上を稼ごうと思っていた。月刊誌3本の他にPR関連の複数の仕事をしていて、たくさんの仕事を抱えていたからだ。つくづく無知ってこわい。そんなの無理に決まっているのに。
このときに初めて母と姉に連絡をした。2人はめちゃくちゃ驚いていた。自分も当事者ながら同じぐらい驚いたので、気持ちはよくわかる。それからすぐに病院に2人で飛んできてくれた。
車いすに座り、家族に見送られ、夕方17:30から手術室へと向かった。歩けるのになと思ったが、手術を受けるとはこういうものなんだろう。
ここで僕は「車いすに乗る人側の視点」を学んだ。
たとえばエレベーター。車いすを看護師さんに押してもらいエレベーターに入ろうとすると、見舞いに来たであろう別の健常なおじさんが横入りのようにエレベーターに乗り込もうとする。おじさんは看護師さんから「患者優先ですよ」と厳しく言われていた。なんていう弱肉強食感。あの感覚は自分には理解できないが、もしかしたら自分も気づかないうちにそういうことをしてしまっているかもしれない。気を付けようと思った。
いくつもの重厚そうな両側にスライドする自動ドアを通り抜け、手術室の前へ到着した。しばらくそこで車いすに座ったまま待機の指示が出る。メガネを預けた。
ドラマで見たような、大村くんの本にも載っている写真のような世界に自分は手術を受ける側としているんだと、不思議な思いになった。あまりに前触れがなさすぎて現実感がまだわかないでいた。
しばらく待ってから、いよいよ手術室へ入った。
手術台は歯医者の椅子のちょっと大きいバージョンみたいだった。あ、座ってやるんだと思った。車いすから移動し、ぼやけた視界でうっすらと周囲を見る。執刀する、先ほど診察を受けた先生はまだいないようだった。
「まな板の上の鯉だな。失明しないで済むなら何でも耐えるのでやってください」という気持ちだった。こわいし、嫌だったけれどしょうがない。
その状態で30分ほど待った。長い長い時間だった。ドキドキそわそわ、早くはじまってほしいような、はじまってほしくないような。でもはじまらないと終わらない。こんなことを延々と考えていた。
18時前に先生が「お待たせー、すみません」と登場して、いよいよ手術がはじまった。
椅子を倒され、寝たような状態になってスタートする。
全身麻酔ではなく局所麻酔、つまり意識はバッチリあるなかで、目をほじくられるという、なかなか非現実的な状況だ。目をつぶって現実から逃げることもできない。
麻酔を何本かほっぺたから打たれた。目とか目の周囲とかに効く麻酔らしい。さらに痛み止めだか麻酔効果のある目薬もした。
麻酔を打ってから数分後にいよいよ執刀がはじまった。BGMには陽気な洋楽が流れていた。先生たちもおしゃべりしながら明るい雰囲気だった。それがなんだかとても、とてもありがたかった。
僕は昨年あたりに完全に横を向いていて歯茎に埋まった親知らずをまるで工事のように叩き割って抜くもの(10日ほど痛み止めを飲んだ)や、歯の根幹治療を受けていたので、まぁあれを経験しているから大丈夫だろうと思っていた。
目の手術は最初から中盤ぐらいは何をやっているのかよくわからなかったが、たいして痛くなかった。
でも後半に痛くなってきた。先生が「ペアン」と言って助手から何かを受け取ると、目の中に竹串を何本も刺され続けるような感覚。「早く終わってくれ」と思った。時間がどれぐらい経過しているかわからなかった。
途中に先生が「こんな狭いところどうやって通そう」とか、助手だか看護師の人が「今日は定時で帰る予定だった(僕の手術のせいですみません、、!)」みたいなことを話していて、シリアスな空気は最後までなかった。お通夜みたいな雰囲気でやられると不安なこちらはもっと心配になってしまうので、助けられた。
長い長い長い時間を経て、先生が「はい、終わり! お疲れ様!」と言った。ようやく竹串の刑から解放された。正直な感想は「生き残った」だった。
21時になっていた。18時からはじまり、手術は3時間を超えていた。右目は眼帯でがっつりガードされていた。
手術後の「うつ伏せ寝」縛りとの闘い
手術室を出ると、妻と母と姉がいた。妻は6歳息子を小学校に迎えに行き、同じマンションの仲良くしている一家に預けてまた戻ってくれた。
車いすで押されて廊下に出るが、メガネをかけていないので視界がぼやけて3人がよく見えず、最初は気づかなった。「お疲れ様」と言われて、初めて気づいた。手術後に迎えられる感じもまた、何かで見たことあると思った。
21時すぎに4人部屋の入院部屋へと戻り、看護師からうつ伏せ寝を指示されて、ベッドに入った。点滴がつながれていた。3人とはここでお別れをした。感謝。
看護師からは「絶対安静」と言われた。
この「絶対安静」という言葉。何かで聞いたことはあるが、手術や入院の経験がない僕には「具体的な定義」がわかっていなかった。とりあえず談話室とかにお茶を飲みに行かず、部屋にいればいいんだなぐらいに思っていた。だから僕は看護師が点滴を確認に来る2時間後ぐらいまでに2回、自分1人で部屋にあるトイレに行った。
看護師にそれを伝えると、「え、絶対安静ですよ。ダメですよ、、」とドン引きされた。いや、そんなの知らない、教えてほしい。プロの世界の常識を一般の世界でも浸透していると思ってはだめだ。それは自分も仕事をしていて気を付けなければいけない点だと思った。
狭いベッドにはうつ伏せ寝用にマッサージ屋の顔を埋める枕みたいなものと、胸からお腹のあたりに入れるクッションが置いてあった。
それをして、入院初日の夜にうつ伏せ寝で寝たわけだが、これがなかなかしんどかった。
大手術をした右目を下につけて寝るのは怖いし、何よりずっとうつ伏せ状態は苦しい。気分もさらに落ち込む。長時間続ける体勢では絶対にない。1つの救いとして、右目を上にする横臥位はよしとされていた。
それでもこれを続けなければ手術後の経過が悪化して「再手術」になるかもいれない。あれをもう一度やるなんて絶対にいやだ。それよりはうつ伏せ寝のほうがマシ、とがんばった。
それでも夜中に気づくと仰向けになっていることがあって、あわてて「やばいやばい」とうつ伏せになった。夜が長かった。とにかく夜が長かった。
あれほど早く朝になれ、明るくなれと思ったことはない。
初めての入院
ようやく朝が来て、看護師さんがチェックに来てくれた。
そのときに眼帯を外し、「目を開けてください」と言われた。もう開けていいの!?と驚いたが、開けてみると、下のように視界に黒い球がいくつか浮いて、動いていた。
それはバックリング手術のときに入れた「ガス」らしく、これを抜くためにうつ伏せ寝をすると説明を受けた。ガスを抜くことで網膜がちゃんとべったりとくっつき、それで手術成功になる、ということだと思う。
目から血が流れ落ちていたので、事前に1Fのコンビニで買っておくように教えてもらったガーゼみたいので拭く。
メガネをかけてみたけど、右目は0.3ぐらい?の見え方で、よく見えなかった。視界がぼやけていた。これは良くなるのだろうかと不安になった。
8時になると病院食が運ばれてきた。初めての病院食。予想していたよりぜんぜんおいしかった。全部食べた。ありがたかった。
午前中に執刀医の先生の診察があった。
先生は昨晩、急遽3時間の複雑な手術を終えた後なのに、もう午前から働いていて頭が下がる思いだった。
先生は僕を見るなり「昨日は大変だったね」と労ってくれた。とんでもないにもほどがある。大感謝の思いを伝えた。
そこで1週間ほど入院することが改めて伝えられた。毎日診察をして、経過を観察していき、先生のOKが出れば退院になる。
そのときに僕はまぁ無理だろうなと思いながらも、「先生、、パソコン仕事ってすることできますか、、?」と小声でおそるおそる聞いた。
先生はこちらを見向きもせずに「無理。うつ伏せ寝でガスを抜かないといけないから」と言った。そこで「でも、、!」なんて言うわけもなく、すんなりと引き下がった。身体は元気で左目は通常通りだけど、この状態で頭をフル回転させなければいけない原稿仕事をするのは無理だと納得した。
すごすごと部屋に戻った。
ちなみにこのときに自分が受けていた仕事は、月刊誌の原稿仕事約10本、PR会社の仕事複数本で、いっちばん忙しいタイミングだった。月刊誌のほうは取材アプローチから取材、原稿執筆、編集から校了まで担当していて、ちょうど「これから取材!」というときだった。仕事の観点からすれば最悪の最悪のタイミングだ。
結局、各社に事情を説明し、原稿仕事は編集部の方に全てお願いし、PR関連の仕事もいろいろとご調整をいただいた。大変ご迷惑をおかけしたとともに、最大限のご配慮をいただき大感謝だ。と同時に、僕が得る予定だった月刊誌の報酬は一気に吹っ飛んだ。計算したくなるが、それはやめる。失明しなかったことが最大の報酬だ。
「仕事したい」「早く家に帰りたい」「自由になりたい」と、いろいろとモヤモヤする気持ちはあるが、今はうつ伏せ寝に専念しようとがんばることに決めた。
入院から退院まで/初めての入院で気づいたこと
結局、僕は1週間以内で退院することになる。10/28金に手術をして入院し、4泊5日後の11/1金に退院した。
入院中にやることは毎日一緒だった。
・朝8時に電気がつく。
・朝昼晩の食事が出てくるので、それを食べる
・その間に診察や検査があるので、それを受ける。
・夜21時に消灯になる。
毎日がこの繰り返しである。その間は極力、うつ伏せ寝をして、ガスを出すことを意識する。それ以外にできることは何もなかった。医療従事者の方に助けられて生きていると実感した。
鏡で自分の目を見ると、手術後はたいして腫れてもいなかったのに、日が経つごとに、まわりが殴られたように内出血になり、白目の部分に真っ赤な分厚い膜ができていた。
「うつ伏せ寝をがんばっている人ほど腫れるんですよ。がんばっている証拠ですね」
看護師さんがそう言った。あぁ、これでいいんだ。もっとがんばろうと思った。できることはこれしかないのだから。
ここからは初めての入院で気づいたこと、次回に覚えて置いたほういいことを記録しておきたい。
癒しはダイアンやお笑いだった
入院して、特に僕はうつぶせ寝を延々としていたので、精神がどうしても参っていく。
そのときにBluetoothのイヤホンでよく聞いていたのが、ダイアンさんのYouTubeやラジオだった。
「お笑いは人生に必要」と心から思った。人を助けてくれる。暗い心に明かりを灯してくれる。こんなに素敵な仕事があるだろうか。僕は手術をしてくれたお医者さんと同じぐらい、ダイアンさんはじめお笑い芸人の方に感謝している。
今は大半の病院でWi-Fiが飛んでいると思うので、入院中に気持ちが沈んだときはぜひダイアンさんはじめ芸人のコンテンツに触れてみることをお勧めします。
同部屋の人たちも闘っていた
たまたま同じ時間に、同じ場所で一緒になった同部屋の人たち。
いろいろな病気で入院をして、それぞれに闘いがあるのだとわかった。
1人の青年はおそらく20代で、かなり長期で入院しているのか、スウェット姿でこの生活に慣れている感じだった。ただ、顔は常に真っ白なほどに血の気がなく、なかなか大変なんだろうなと思った。
その彼はベッドの上でよくゲーゲーと吐いていた。実際に吐いていたのかどうかはわからない。でもかなり辛そうだった。どうやら食事が彼だけ違った専門的なもので、僕を含む同部屋の他の人の食事の匂いでやられてしまっているようだった。
こちらは常にイヤホンをしているので食事中にゲーゲーやっていても心配するぐらいでそんなに気にならないのだが、とにかく「がんばれ」と心の中で応援していた。
そんな彼があるとき、一通りのゲーゲーが終わった後に「あーぁ、すしざんまい、すしざんまい」と言った。「やれやれ」とでも言うように。なんだかわからないけどわかる、と思った。
今も彼は入院を続けているのだろうか。心の中で応援を続けたい。
シャワーの浴び方がわからない
初めての入院でよくわからなかったのが、シャワーの浴び方だった。
そもそもこんな目の状態で浴びれるものなのかと疑問に思っていたので後回しにしていたが、入院2日目の午後に「シャワーどうしますか?」と看護師さんに聞かれた。
聞いてみると、シャワーは1人15分だか30分だかの予約制で、頭を洗うのは介助士さんが行うから、それもあわせて予約が必要とのことだった。
この目の状態でも頭を洗ってもらえるというので、お願いした。とても気持ちがよかった。介助士さんは高齢の女性で、ざっかけない言葉で言えばおばあちゃんだった。優しく丁寧に洗ってくれて、鬱々とした気持ちが和らいだ。感謝。
お見舞いがこんなにありがたいものなんて
妻と母と姉は連日のように夕方頃にお見舞いに来てくれた。
僕はこれまでお見舞いに行く側しか経験がなく、正直に言えば「お見舞いって、逆に入院側に負担をかけてるんじゃないか」と思っていた。
体を休めているところに詰めかけていくわけだから、これは一体誰のためなのだろう、ゆっくり休養に専念させてあげたほうがいいのではないかと思っていた。
でも実際にお見舞いをされる側を経験して、全くもって自分が間違っていたとわかった。
鬱々としている入院患者は夜が来るのが嫌だ。特にうつ伏せ寝をしている僕にとっては辛く、暗く、悲しい時間がはじまる。
そんなことを思っている夕方頃に家族が顔を出してくれて、談話室で10分ほど話をするだけでも、とても気持ちが和らいだ。自分でもこれはびっくりした。効率とか最適化みたいな無機質な言葉だけでは人間は片づけられない。どれだけAIが発達しようが、この温もりみたいなものは絶対に人間でなければ埋められないものだ。
今後、家族や友達、親しい人が入院したら、夕方などの負担にならない時間に5分10分の短い時間だけ、会いに行こうと思う。これは自分が経験してとてもよかった変化だと思う。
コーヒーの飲みすぎに注意
病院の1Fにタリーズが入っていた。タリーズってよく病院に入ってるイメージがある。
家でもミルでコーヒー豆を挽いて飲むし、タリーズ大好きな僕は1Fで診察を受けたタイミングでタリーズに寄り、店員や他のお客さんは僕の内出血しまくりの右目に引いていたと思うが、必ずコーヒーとクッキーとかを買って部屋に戻り、ちょっとした幸福を味わっていた。
あるとき、午前中に1Fでの診察があったから、今日はコーヒーを2杯買って夜も飲もうと思って買っていき、予定通り、夕飯後にも飲んだ。
それからうつ伏せ寝をしたら、めちゃくちゃ悪夢を見た。コーヒーって健康な人が飲むものだと思った。あの苦さ、えぐみ。あれを楽しめるのは健康な心と精神があるからこそだ。
僕はこの経験をしてから、コーヒーを飲むのを一切辞めてしまった。紅茶に切り替えた。紅茶は飲みやすく、体への負担が少ないと感じる。
5日目に退院! そのときに受けたレーザー治療がまた痛かった
毎日うつ伏せ寝をがんばった成果か、ガス玉はみるみる小さくなり、11/1金の午前の診察で、執刀医の先生のチェックにより「うん、大丈夫。今日の午後に退院しちゃいましょう。その前にちょっとレーザーを当てましょう」と、突然の退院宣告をされた。
え、本当ですか? やったーという気持ちだった。週末を挟んで、月曜日以降の退院だと思っていた。前日にはさらに5日分の下着などをもってきてもらっていた。
退院が決まって妻に連絡。
それから入院部屋で昼食を食べた後、前述のXのマンガにあるようなレーザー治療も受けることに。「あの針地獄?の手術に比べればこんなのは全然余裕」と思っていたが、これが想像以上に痛かった。
暗室で先生が右目にレーザーを当てていくのだけど、これが目の奥に鈍痛が響くように痛い。しかもそれが1発ではなく何発も続く。正面を向いて、右向いて、右上、上、左上、左、、と、それぞれに何発か連続で。
これが思ったよりもメンタルにきた。最初の正面で痛いとわかったものを、それからも続けられるのは結構しんどい。まぁでも手術に比べればまし。
後から母に聞いた話では僕の父もこれを受けていたらしい。いろいろな面で遺伝の要素は強そうだ。年を重ねるとそれを強く感じることが多々ある。
午後には6歳息子と一緒に病院に来て、退院の手続きをしてくれて、開放された。外の空気はすこぶるうまかった。
退院1週間後の11/8金に再び診察の予約を入れて、処方された目薬を近くの薬局で受け取った後にタクシーで帰宅。
近所のケーキ屋で買ってくれたケーキで簡単に退院祝い。うれしい。6歳息子はこの経験を通して、たくましくなったように思った。母は病院へ長時間行き、同じマンションの仲良しさんに預かってもらったことで自立心が前より芽生えたように思った。
家に帰ってから数日間は頭を洗うことが禁止されていた。これが11月だからよかったが、真夏だったらと思うと、ちょっと厳しい。でもがんばるしかないのだけど。
家に帰ってからも安静で、うつ伏せ寝も継続を指示された。
退院してから2日後、3日後に、調整してもらっていた原稿仕事をやってみたが、パソコンの画面を見ると、右目を開いても、閉じて左目だけにしても酔ったような状態になってしまい、「これは無理だ」と諦めた。右目を閉じてやろうとすると、右目が痛くなって、脳みそが回らないのだ。それも正直に伝えて、ご容赦いただいた。いろいろとご配慮いただいた取引先のみなさまに感謝の念が堪えない。
退院してすぐの頃は右目がコンタクトレンズがずれたような変な感覚があった。そして視界が若干かすれている感覚もあった。
先生からは「この経過なら視力はそんなに落ちないかもね」と言われた。安心する気持ちと、「どのぐらいで仕事復帰できるんだろう」という不安とが交錯する日々へ入っていった。
それからはできるだけ家で寝てるようにして安静に努めた。その成果か、黒いガス玉はどんどん小さくなり、右目が前よりも見えるようになった感覚があった。
そして11/5火、手術から8日目にガス玉が視界から消えた。ただ、コンタクトがずれたような、少しぼやけた視界は変わらなかった。これは治るのだろうかと不安だった。視力は感覚として0.6から0.7ぐらいは見えてるんじゃないかと感じていた。
退院1週間後の外来診察と、手術から約2か月が経過した現在の状況
退院から1週間後の11/8金に、執刀医の先生の診察を受けるため、再びタクシーで大学病院へ行った。
・網膜はきれいにくっついている。ガスも水も抜けている。
・視界のぼやけは1か月ぐらいで改善すると思う。後遺症として少し残る可能性もある。
・目の周りの内出血は2週間ぐらいで治ると思う。
・そして再びのレーザー治療。痛い!
次回の外来診察は11/29金に決まり、終了。経過は良好とのことで一安心。ただ、視力は1.0に戻っていると言われたが、自分としてはどう考えても1.0は見えていない、前と同じようにはまだ見えていないと感じていた。
この頃から少しずつ仕事を再開した。
11/29金の外来診察は眼底写真などを何枚も撮り、再びチェック。
経過良好。左目もチェックを受ける。先生が言っていたことで印象的なことがあった。
・医師は基本「左右対称」で考える。つまり、右目で起きたことは左目で起きる可能性がある。右目が手術成功してほっとしていたら左目が網膜剥離になるというケースも実際にある。
それを聞いて、よくよくチェックしてもらいたいと思った。そしてチェックした結果、網膜が薄くなっているところがあり、レーザーで早めに治療したほうがいいことがわかった。
視界のかすれみたいなものは、このときにはほとんどなくなった。
そのため12/23月に外来予約を入れ、そのときに左目のレーザー治療をしてもらうことに。それを経て、1月に再び両目の検査をして、大学病院は一旦終了という流れになった。
――そして現在、2024年12/30月。
手術から約2か月が経過した今の状況はと言えば、右目は以前はメガネをしていたら1.0はあったところが、0.6ぐらいまで下がった。健康診断の結果でそれがはっきりと出た。視力が下がることは言われていた通りであり、失明せずに見えるようになっただけで万々歳だ。
最近は目の負担を減らすため、スマホの利用をできるだけ避けようとYouTubeからradikoへ移行したりと画策しているが、映像の魔力は大きくて、どうしても見てしまったりする。このあたりは今後も検討していきたい。
というのが、僕の網膜剥離に突然襲われた実体験レポートになる。
支払った費用は、バックリング手術が約8万円、入院費用が約2万円、左目のレーザー治療は右目の手術には含まれないので単独で約3万円だった。
最後にみなさんに絶対にお伝えしたいこと。スマホには気を付けようということだ。このXのポストを見て、「あ、顔に落としたことある」とドキッとした。
このポストを見てからは、寝るときは必ず顔の横にスマホをもっていくようにして見るようにしている。上には絶対にしない。みなさんもこれはぜひ。
まぁ小さい子、特に男の子を育てていると、ベッドにいると頭から顔に突っ込んで来たり、もみあいになって足で顔を蹴られたりと、さまざまな衝撃要素があるのだけど、極力気をつけましょう!
最後に、「手術後の時間経過に伴う目の変化の写真」(そういうのが苦手な人はご遠慮ください)や、今回の実体験から得た学びなどを有料枠でまとめて終わりにしたい。
目の変化(写真)や、失明リスクから学んだこと
目の状況変化
画像自体の大きさがばらばらですが、感覚的に手術後の変化を実感いただければ。
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