『喜びのうちに人生を楽しむ』
No.4
濵﨑敦神父
サレジオ会日本管区 管区長
出身はどちらでしょうか?
生まれは長崎県の田平町なんですよ。父方の家系がそこにあるんですが、もともとのルーツは長崎県の出津で、ド・ロ神父様に連れられて、田平に移住したグループらしいんです。関西出身と思っている人が多いようですが、名前を見たらすぐ分かってくれます。
濵﨑という名前は長崎にも多いですよね。
2、3歳の頃に奈良に引っ越したので、奈良県の出身とは言っているんですが、場所によっては「長崎県出身」と言ってみたり、使い分けしています(笑)。美味しいところ取りをしてます(笑)。
小学、中学校は奈良県で過ごして、出身教会は登美ヶ丘教会です。
須藤ブラザーと同じ教会なんですよね。
そう、須藤ブラザーは私の一番下の弟と同じ歳ですね。
私は高校から川崎サレジオ志願院に入り、サレジオ学院高等学校に通いました。
志願院での同級生はどなたでしょうか?
阿部仲麻呂神父。
高校で一緒に学ばれていた?
そうですね。彼は中学1年生からサレジオ学院にいて、中学3年生から志願院に入ったんです。
だから高校から一緒ですね。
私自身は川崎サレジオ志願院の後、調布サレジオ神学院に進学して、司祭になって三重県の四日市志願院、宮崎の日向学院、それから長崎県の愛野教会と小さき花の幼稚園、そしてここ(管区長舘)に来たってことですね。
司祭になってからずっと東京から離れていたので、東京は25年ぶりだから、東京のことが分からなくてね。
日向学院に勤められていた期間が長いイメージがありますが?
日向学院は実地課程の時も入れると11年なんですが、四日市志願院は12年なんです。
愛野教会と小さき花の幼稚園は3年。
志願者との関わりが長いということですね。
そうですね。四日市志願院のときは、北川大介神父や岡本大二郎神父がまだ神学生の頃で実地課程で来てくれたり、谷口亮平神父が四日市志願院出身の第一号会員だったりしますね。
それから今いる神学生だと、深川神学生とか堤神学生、そして竹下修道士。
あの当時、多いときは20数名いました。楽しい時期でした。僕にとってはね(笑)。
川崎志願院のその後を引き継いだ横浜志願院がなくなって、その頃に四日市志願院ができたのでしょうか?
はじめは横浜志願院と四日市志願院の両方があった時代があるんです。その頃は志願生も多かったんですよ。
最終的には四日市志願院だけになるんですけどね。とにかく楽しかった!
もちろん宮崎のときも愛野のときも楽しかったんですけどね(笑)。
今が一番楽しくないかもしれない(苦笑)。
青少年教育をモットーとしているサレジオ会員らしいコメントですね!
僕自身は自分をサレジオ会員らしいと思ったことはないですけど、やっぱり若者たちと一緒にいると楽しいですよね。大変なことも山ほどありますけど、それはもう楽しい苦しさですよね。
そういえば、奈良県での幼少期、サレジオ会との接点はどこにあったのでしょうか?
奈良県にはマリスト会の神父様たち、特にオーストラリアの神父様たちがいて、登美ヶ丘教会の主任神父様はトニ・グリン神父様でした。
その神父様のお名前はどこかで伺ったことがありますね。有名な神父様でしょうか?
「愛の鉄道」という映画にもなったくらい素晴らしい神父様で、神父様っていうのはこんなに素晴らしいんだなと思いました。
それで「神父になりたい」と、グリン神父様に相談したところ、登美ヶ丘教会、幼稚園で働いておられたコングレガシオン・ド・ノートルダムのシスターがサレジオ会の志願院を紹介してくれたんです。
その頃、私は神父に「教区」や「修道会」という区別があるのを知らなかったので、そのまま受け入れたんです。
そして、川崎のサレジオ志願院の体験入学に行ったとき、明るくて楽しい雰囲気だったので、こういうところだったら行ってみようと。だからそのときはサレジオ会のことやドン・ボスコのことは何も知らなかった。
でも、後から思い出してみると、不思議なことがあったんです。
『カトリック生活』が毎月、家に送られていたんです。親は購読していないのに。志願院に入る前の1~2年の間ずっと。そのときはまだ神父になりたいとこれっぽっちも思っていなかったのに送られ続けていたんですよね。
誰が送り主か問い合わせたところ、ドン・ボスコ社の方は「分からない」と。
謎ですね。
今思えば不思議というか、気持ち悪いような(苦笑)。
「送ってくれているのは誰だろうね」って、言いながら親は読んでました。中学2,3年生の僕は興味はなかったですけど。
もう一つ不思議な出会いは、幼稚園からの同級生に溝部神父(当時)の甥っ子がいたんです。
幼稚園から一緒の教会だったんですが、中学校では同じサッカー部だったんですね。
溝部神父が時々、甥っ子のところに遊びに来てたんでしょうね。「溝部のおじさん」として見ていました。
それが、川崎サレジオ志願院に入ったときに、調布サレジオ神学院の神学生との交流会があったんですよね。
その時に私の肩を叩く人がいるから振り返ると、「溝部のおじさん」だと(笑)。
見たことのあるおじさんが、あの淡々とした調子で「こんにちは」と声を掛けてくるんです。
そのときに初めてサレジオ会の神父だと知ったんです。
一度「聖書学校に来ないか」と誘われたのは覚えています。でも、その頃は部活に一生懸命だったので、行く気などこれっぽっちもなかったし、行かなかった。
もう一つ、これも今思えばなんですが、父親方の叔父に山口鉄雄神父がいたんですが、大阪教区の司祭で玉造教会(大阪カテドラル)の主任が長かったんですよ。阿倍野教会にもいたのかな。大きな教会なのに主任一人だけ。理由を聞いたら、近くに大阪星光学院中学校・高等学校があるから、そこのサレジオ会修道院にいる神父様方が「助任をしてくれているんだ」とおっしゃってました。
待降節や四旬節のゆるしの秘跡など、神父の人数が必要な時はサレジオ会の神父にお願いしてたと。
だから、私がサレジオ会の志願院に入ると聞いたとき、「あそこはいい修道会だよ」と言って喜んでくれたのを覚えています。当時私自身はそう言われる理由は全く分からなかったんですけどね。
でも、私自身に対する神様からの召し出しの道筋があったんだと思いますね。
川崎サレジオ志願院に入られた当時、神父様や志願生にはどなたがおられたのでしょうか?
小笠原神父様と松尾神父様がいました。1年後、責任者は松尾神父様になって。実地課程生で田沢神父様(当時神学生)がいて。修道院は院長がマックリンデン神父様、他にコンプリ神父様、モロ神父様、横井神父様、河合神父様、チプリアニ神父様などもいたかな。司祭が沢山いて、個性豊かないい時代だったんじゃないかな。
当時志願生で、今サレジオ会員になっているのは、小島神父、佐藤神父、木鎌修道士、同級生に阿部神父、下の学年だと関谷神父、吉田神父、村松神父ですね。もう一つ下に濱邊神父、田村(宣行)神父などですね。
当時志願院には50人くらいいたんじゃないですかね。
サレジオ会員になった方が一番多い時代ですね。
賑やかだったと想像できます!
とても賑やかで楽しい時代でしたね。何もかもが新鮮で、初めての事で。
過去のある時期、川崎サレジオ志願院では学校の部活・サークルに入っていたと聞いたことがありますが、
濵﨑神父のいた頃は入れたのでしょうか?
いや、その頃はもう入れませんでした。
でも、その頃の志願生はスポーツが得意でね。学校のサッカー部とかバレー部と試合しても負けないんですよね。
バレー部には勝ってましたし、サッカー部とも互角でしたよ。
スポーツ万能な方々が沢山おられたと記憶しています。
僕が川崎サレジオ志願院にいた頃、調布サレジオ神学院の神学生とサッカーやバレーの交流試合をしても、勝てる気がしませんでしたね(苦笑)。
サレジオ会員になるには、こんなにスポーツ万能じゃないとなれないのか!と当時は落ち込みましたよ。
ともかくスポーツの時間が楽しかったですよ。
スポーツ好きというのも、部活でされていたサッカーだけではなかったんですね。
サッカーは中学3年間で散々やったので、サレジオ学院では部活に入れないと言われても、別に気になりませんでしたよ。もう部活は十分やり切ったと思っていましたしね。
志願院の頃に感じた事や思い出などありますでしょうか?
どこまで話していいのかな(笑)。
親元を離れて、同じ世代と共同生活をする中での文化の違いはたくさんありましたが、
私の家はとにかく母が作るご飯が美味しかったので、その母親のご飯のありがたさは志願院に行ってから分かりましたね。
では、帰省のときは嬉しかったでしょうね。
今でもそうですが、母親の食事を食べられるという意味では嬉しいですよね。
他には、なんかイタズラとかしたり、されたりしてたけどそういうのも忘れたな。
あとは睡眠時間がなかったかな。常に眠たかったですね。
6時起床で11時くらいに寝てたかと思いますけど、なんだか眠たかったですね。
中学生の時は部活が終わって帰ってきたらまず寝てたんですよ。それから夜の9、10時頃に起き出して、ご飯食べて、お風呂入って宿題とかしてたから、そのリズムから中々抜け出せずにとにかく眠たかった思いがあります。
でも、楽しかったですね。
調布サレジオ神学院に上がったときに川崎サレジオ志願院と違うなと思ったところは?
ご飯が美味いと思った(笑)!
調布でもサレジアン・シスターズのシスターが作ってくれていたんですが、何が違ったんだろう?
調布の神学院に行った先輩たちが「調布は飯が美味いぞ!」って言ってたんですよね。
食べるものは生活の基本だから、印象深いですよね。
でも、川崎サレジオ志願院の食事についても今思えば当たり前かなと思います。
食べ盛りの若者50人を毎日3食食べさせるのに、贅沢なもの出せないでしょ。
大変だったと思いますよ。シスター達は。
僕が記憶しているのは、神父様方の食堂にフルーツ盛りが常にあったことですね。
そうやな!なんか食事の匂いも全然違うかったな(笑)。
大学受験生の時、帰省しない高3の何人かだけは、お正月の1月1日だけ、目上と一緒にご飯食べる日があって、
あのとき豪華なご飯が出ていたな。覚えてるな。
こんなの載せられないね(笑)。
それでも思ったんですよ。環境に恵まれているとか関係ないなと。
恵まれていなくても不便でも、楽しいときは楽しい。
その環境を楽しめるということが重要だと?
確かにサレジオ会員になっている人たちを見ているとそんな気もしますね。
そうだと思いますね。
昔は部活の時も「水も飲むな」の世界だったじゃないですか。
今思えばあれが熱中症だったのかなというエピソードがあります。
川沿いの土手を走らされたことがあったんです。途中で何人も転がって落ちていくんですよ。そういうエグいスポ根の時代で。川にドボンと落ちるんだけど、その水を飲みたいぐらいに思っていました。
先輩の目を盗んで、こそっと水飲んだりとか、代わりばんこに悪い事しようとかね(笑)。部活の時にもいろんなエピソードがあって楽しかった。
一番大事なことはどんなときでも楽しめるのが大事だよね。
その環境が苦しいと感じるばかりだと、長続きしないですよね。
現実をどう受け止めるかっていうことにもつながると思うんですけどね。
その後、実地課程で宮崎の日向学院に行かれた?
当時、私の主な仕事は寮監だったんです。
中学1年生から高校3年生まで寮生が200人くらいいたんですよ。
すごい人数ですね!
私のときは中学1年生全員と中学3年生の半分を面倒見たんですけど、1フロアに50人ほどいたんですよ。
志願院の人数の差ではないですね!
まだ志願生は目的を持った集まりですが、こちらはそうではないんですよ。
まあすごかったですね、あの頃は。
18時まで部活で、寮に帰ってきたら30分で風呂と夕飯を終わらせて、18時30分から20時30分まで自習。30分休憩の後、中学生は11時まで自習だったんです。そして就寝が中学生は11時、高校生は12時。
ものすごく勉強していたし、寮監はそれにずっと付き合わないといけない。私たち寮監は教員も兼任だったので、日中も授業を持っていたんです。
朝は6時45分までに起きて、7時から朝食。寮生を送り出して次は自分たちは職員朝礼に出る。
寮生のスケジュールが厳しい上に寮監は大変ですね!
だから、何回も自習監督しながら「このままバタンと倒れて寝ようかな」と思ってました(笑)。
そこでもまた睡眠不足の問題が。
でもそのときは若いからね。
保健体育の教員だった同じ寮監の先生と一緒に飲んだり、ラーメンを食べに行ったり、寮監の部屋で夜中の2、3時まで一緒にゲームしたりしてましたよ。ゲームしてる途中で寝ているという(笑)。普通に寝ればいいのにね(笑)。
若者によくありがちな過ごし方ですよね(笑)。
それで次の日の朝、「キツイねー」とか言いながら仕事をする(笑)。
分かっていながらやってしまうんですよね(苦笑)。
それもすごく大変でしたけど、楽しかったです。
だから、あのときの寮生たちとは今でも付き合いがありますよ。
何かの節目節目に彼らと会ってますね。
寮監をしていた2年間は大変だったけど、楽しくて。子どもたちとの関わりというのを学んだ自分にとって一番の原点です。
それまでもユースセンターなどで経験はしていたけど、寮監での2年間は様々な事を考えさせられて。
サレジオ会員としてやっていきたいと想いを強めた2年間でした。
濃い2年間ですよね。朝から晩まで寮生たちと一緒に過ごすという。
親のような、兄弟のような生活ですよね。
土日には皆、家に帰るんですよ。地元でも通うには遠いから寮に入っている。でも何人か帰らない子もいるんです。部活の試合でなど理由がある子もいるし、帰りたくない子もいる。残る子は10人くらいかな。その子達は特別に肝試ししたり、怪談をしたりとかね。ちょっとテレビ見せてあげたりとかしてたね。
「帰りたくない子」もいるんですね。
帰りたくない子に理由を聞くと、「帰っても面白くないから」と。
「お前が帰んないと俺休めないんだけど」って言いたくなる(笑)。でもそれはグッと堪えてね。
私たちには本当に休みがなくて、夏休みの1週間くらいと年末年始の1週間くらい。
そのときは寮閉鎖っていって、強制的に帰省させる期間でそれくらいしか休みがなかった。
濃い関わりですね。
それが今の時代にいいかどうかは分からないです。当時はそうだったと。
自分も一番パワフルな時代だったと思う。
当時の年齢は?
22歳で大学卒業して修練期1年、調布1年だから25歳くらいじゃないですかね。
元気だった。
だからその後、四日市の志願院に行ったときも31、32歳だったんですけど、楽しかった。
当時四日市の志願生は20人くらいでしょうか?
最初の志願生は6人だったんですよ。すごく少なかった。規則や土台、雰囲気は前任者の鈴木正夫神父様がすでにばっちり築いてくださっていて、そのあと私が赴任しました。その後1人辞めて5人になったときに、「寂しいな」と思った。自分が志願院時代には50人もいたから。5人じゃスポーツができない。サッカーなんか自分入れて3対3でやってたんですよ。それもグラウンドもなかったので、毎日車で15分くらい離れた鈴鹿川の河川敷に連れて行ったり、近くの南部丘陵という公園に連れて行ったり。河川敷はサッカーグラウンドがあるからまだいいんだけど、南部丘陵は斜面でL字型になってる公園なんですよ(苦笑)。坂道でサッカーする事になる。圧倒的に下にいるチームが不利なんですよ(笑)。
前に蹴ってもボールが返ってくる(笑)。しかも3対3で。キツくて。
その頃、中村誠也君が実地課程2年目で1年一緒にやってくれて。
兄の誠也も四日市志願院にいたんですね。
彼もよく頑張ってましたよ。誠也君と「キツイなー」って言いながら「お前はまだ20代やけど、俺はもう30代超えたからキツイわー」とか話してましたよ。
そのときに思ったんですよね。とにかく増やそうと。で、一所懸命頑張って25名くらいまでに増えた。
当時志願院はエスコラピオス会の修道院を全部間借りしていたんですが、入り切れなくなって、皆さんのおかげで新しい高校棟を作ることができたんですよね。
その時にどうしても欲しかったのは、小さくてもいいからグラウンドだったんです。そこでバスケットやサッカーができるような。そしたら当時の管区が作ってくれてね。
それまでは、隣接する海星中学校・高等学校で私が非常勤で教えていて、男子校だったから「サッカーしたい子、来てくれ」っていうと放課後に来てくれて。で、その子たちも一緒に連れて行って、10対10とかでやってたんです。当時の海星中学校高等学校(https://www.kaisei.ed.jp/)はやんちゃな子もたくさんいたのですが、サッカーには来るんです。「それはちょっとイカンぞ、俺にも立場がある」と。「きちんと授業に出なさい、じゃないと連れて行けない」と言ったら、「分かった」と言ってくれて。
そういう子たちは、そのサッカーのお礼ではないのですが、志願者たちにトイレなんかで上級生たちが絡んできても「志願生だから、辞めとけ」と言って庇(かば)ってくれてた。だから、志願生たちが「助かってます!」って言ってました(笑)。
そういう子たちと一緒に放課後過ごしてて、楽しかったですよ。
グラウンドもないし、運動場もないけど、工夫すれば楽しくできると。
その頃の志願生たちもそれはそれで楽しかったんではないでしょうか。
その頃も志願生は部活には入れなかったからね。
部活に入ることはいいことだと思うんですよ。それはそれで。
でも、部活に入らないとだめっていうわけではないと思うんです。
部活に入っているがために教育が狭まっているかもしれない。
あることを極めるっていう意味ではいいことだし、部活で学ぶこともいっぱいある。
自分も部活をやってきたから分かる。
でも、志願生たちが部活をやるってなると、個々の活動に限定されてしまう。
それよりもっといろいろな体験をしてもらいたいと思って、毎週のように山や川やに連れて行きましたね。
司牧させたり、合宿やキャンプしたりとか。全国、北海道から鹿児島まで、沖縄は行けなかったけど、全部車で行きましたね。北海道の時は流石に疲れましたね。地理感は分からなかったですけど、一晩中走って青森まで出て、青森に従兄弟がいたので、教会に泊めてもらって、そこからフェリーで渡って。函館から札幌とか1時間くらいで行けるかと思ったら、とんでもないね(笑)。
この前、志願者の同窓会をしたときにある志願者が言ってくれたんです。
「神父様たち、よくあれだけ遠距離を運転してくれてましたよね。自分が親になって、遠距離運転がきつくて仕方がないのに、あの頃、関東、九州ってしょっちゅう行ってましたよね」って。
僕も車で遠出しますが、行けて名古屋、大阪までですよ(苦笑)。
今は私でもそうですよ。でもあの頃は「長崎でも行くか」って言って本当に行っていた。
長崎の雲仙で司牧して、昼の12時に出発すると、四日市に着くのが夜の10時、11時とかね。もちろん一人では運転しないですよ。入れ替わりでね。
やっぱり中高時代に大事なことは、いろいろな経験をしたり、人と関わったり、そういうことだと思うんです。
彼らにいつも言っていたのは「私たちがいるのは志願院だから、将来は司祭、修道者になって欲しいけど、別にそれは一つの道であって、神様のため、自分が幸せな道を歩むためだったら、どんな道を選んでもいい。ただ、この志願院にいる3年間、6年間はいい体験したな、いい出会いがあったな、いいこと教えてもらったなという期間にしたい」ということでした。
確かにそうやって視野を広げていくと、前向きに道を選べるようになりますよね。
狭い視野だと、自分で選んだのか、誰かに選ばされたのか分からなくて不満が残りますね。
中高時代に志願院に来る子たちは親が無理矢理行かせたとか、自らの意志で選択していないこともあるじゃないですか。
でも、きっかけはなんでもいいと思うんですよ。親に言われたからでも、聖書学校で誘われたからでも。
召し出しはきっかけも年齢も一番大切な条件ではないと思っているんです。幼稚園からという人もいれば、大人からという人もいる。
ただ、その中で自分が自由に選べる環境を作ってあげることが大事。
親に言われて入って、3年間、6年間生活してみて、やっぱり自分の召命じゃないとなれば道を変えればいい。
きっかけはなんとなくだったとしても、生活していくうちにやっぱりこれは自分の道だと思えば続ければいい。自分がそうだったから。
神父になりたいって言って、たまたま川崎サレジオ志願院に入ってね、たまたま居心地がよくてズルズル続けて。
きっかけはそんなに大きな問題ではないかなと私は思っています。
賛否両論あるかもしれないけど、志願院は「寮」ではないので神父、修道士になりたい、という動機がないといけませんが、動機の深さやはっきりさは、いろいろなレベルがあると思う。しかし、大切なことはその動機からどのように誠実に呼びかけに応えていくか、と言うことだと思う。
それで3年後、6年後変わってもそれでいい。ただ保証することはこの3年、6年の間に大事なことを学べるよ、来て損はなかったと言えるようなものにしたいと。
「召命」に対して世間一般の若者の持っているイメージというのが、
志願したら最後、神父、修道者にならなければいけないものと思い込んでいますね。
でもそうじゃないと、修道会側が伝えないといけないですよね。
自分の人生の選択肢の一つだと。
神父や修道者になっている人たちって、世間一般にいる人たちと何も変わらないじゃないですか。
真面目でなければ、優秀でなければとか特別なことは何もない。
でも、誰がなるかは分からない。それは神様が決めることであって、神様が決めたらどんな人でもなれるし、神様が決めたら、優秀な人でもなれない。それは分からない。
だからもっと入って来てくれるハードルを低くしたい。
武井アントニオ神父がやっている「土曜神学院」とかね。
とにかく神学院にきて、共同生活してみようよというレベルでいいんです。
そういうことを求めている若者が今の時代にもたくさんいると思います。
自分は安心するとか、心地がいいと思える居場所として。
四日市の志願院にいる間の10年、少年刑務所と少年院の教誨師をしてたんですよ。その中で分かったことはいっぱいあるんだけど、一つは、この受刑者にはもしこういう声掛けをしていたら犯罪を犯さなかっただろうなとか、この受刑者にもし相談する人が一人でもいたら、もし少しでも理解してくれる人がいれば、受け入れてくれる人がいれば、この受刑者はここにいなかっただろうなっていう人がいっぱいいると思ったんです。
実は今、そういう若者たちがたくさんいると思う。だから、いかに私たちが声をかけてあげるかが大切なんです。
「おはよう!」「元気?」「こんにちは!」「なんか食べてかない?」「一緒にスポーツしない?」「ちょっと話しにおいでよ」とか。それだけでその子はもしかしたら、悪いことをしようとしていたのを思いとどまるかもしれないし、自分を傷つけようとしてたり、死のうとか思っていた子がやめるかもしれない。分からないですけど、その一言だけで変わることっていっぱいある。
自分の体験を振り返ってみてもそうじゃないですか。何気なしに言われたことに傷つくこともあるし、反対に元気付けられることもあるよね。それを思うんです。
パウロが言う「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(Ⅱテモテ4・2)が大事だと。
立派なことを言う必要はないと。
そうです。もちろん私に立派なことは言えないけど(笑)。馬鹿話でいいんだけど。
たまたま声をかけた人の人生が変わるかもしれないと。
おっしゃる通り。私はつくづくそう思いますね。
それが人との関わりだと思えば、
若者たちは自分自身を肯定的に見ることができると思います。
人との関わりを大事にしてくれる気がします。
そういう人が周りにいてくれれば。
そういうことができるのが、私たちサレジアンのスピリットを持った人たちだと思うんですよね。
その中でメディア(媒体)って大事だと思うんです。
何気なしに読んだ言葉が「こういう考え方があるんだ」とか思えたり。
それを見てくれるのが100人に一人、1000人に一人、何万人に一人かもしれないけど、その言葉でその青年がね。思いとどまったり、ちょっと気持ちが楽になったり。そういう考え方があるんだと思ってくれるだけでも意味があるのかなと。メディアってそういうことに使うべきではないかと。
世の中には"負"の言葉も溢れていますが、
その中でも"正(聖)"の言葉を広めるのがカトリックメディアの役割なんだと僕も思います。
サレジオ会に関わっていただいているコンサルタントの方が言っていましたが、
今の世の中はSNSやメディアで人を貶めるとか誹謗中傷する言葉が蔓延していると。
その中にあってサレジオ会の仕事は"いい言葉""大切な言葉"を伝え続けていくことではないかと。その通りだと思いました。
メディアの仕事はすごいことだと思います。
そうですね。広報に携わる者としては、その言葉は身に染みますね。
でも圧倒的にエネルギー不足だと思ってしまいますね。濵﨑神父のようなエネルギッシュな存在では中々いられないです。
いやいや、私は楽しいことが好きだから。楽しいことなら喜んでやろうと思ってるだけ。
発信するとか人に声をかけるということは、自分がそれだけのエネルギーを持っていないと難しいことだと思います。
できるとき、できないときありますね。
それは、やっぱり人間だからね。気分が乗らないときだってあるだろうし。
できる範囲でいいと思うんです。
そう思うと、よい言葉を伝え続けるというのは、神父、シスター、修道者だけの仕事ではなくて、私たち誰でも同じ想いや気持ちを持ってさえいれば、今日からでも実践することができると。
そうですね。神父、シスター関係ないですね。誰でもできる。
ドン・ボスコの精神ってそういうことだと思います。むしろ逆と言ってもいいくらい。
日向学院に私の友達の先生がいるんですが、その先生はカトリックの信者ではないんです。寮監を一緒にやっていた仲なんです。
今でも付き合いがあるんですが、その人はことあるごとに神様の話をするんです。
ドン・ボスコが大好きなんです。その先生が「いいか、お前たちはカトリックの学校に来たんだから、一番大事にしなければいけないのはカトリックとドン・ボスコの教えなんだ。これがなかったらダメなんだ」って言うんです。授業の中でそういう話をする。だから、それを聞いた生徒は、神父や信者から言われるとちょっと抵抗がある。でもそうでない先生から言われると、ものすごく影響があるんです。神父、修道者ではないからこそ、そういうことを伝えて欲しいんです。
これは協働者としての使命であり、分ち合いの体験なんです。
自分の経験や想いを分かち合うということなんですね。
それだったら、カトリック信者でない協働者であってもできることですね。
協働者だからこそできる発信なんです。
もちろん、私たち修道者も発信していかないといけない。
四日市の後に日向学院に赴任されていますよね。その際は校長としての赴任ですか?
そうですね。
それまでの校長は?
谷神父様ですね。亡くなられてしまいましたが。
校長職はイロハも分からず、よくやったなと思います。
そういうときは、自分は何もできなくても全然いいんだなと思いました。
周りが全部やってくれるんだもの(笑)。
確かに実務は現場の担当者が実行しますが、校長としてはそれを見守り、決断を下していくのが役割ですよね。
もちろん校長職として最低限の職務は沢山あります。でも私が一番大事にしたことは、とにかく生徒が自由に出入りできる場所として校長室を解放して、絶対に先生や生徒の前で「忙しい」という言葉を使わなかった。
「忙しい」と言った時点で人は自分のところに来なくなりますよね。「この人は忙しいから辞めとこう」とか言って。
実際に忙しくはないんだけどね(笑)。
常に生徒が自由に出入りできるようにした。それは自分が9年間やったことで唯一のことかなと。常に生徒が校長室に居て、一緒に食べたり、遊んだり、作業したり、ボランティアしたり。いつでも来られるように、朝から夜まで。
究極の"アシステンツァ"ですね!
学校というところは人数も多いし、様々な生徒がいるわけじゃないですか。日向学院だと600~800人くらい。先生も沢山いる。
だから大事なことは、そこにいる誰もが話を聞いてくれる、認めてくれる人を見つけてくれることだと思うんです。選択肢はいっぱいあっていい。
その中の一つに校長という選択肢もある。例えば、学年でもクラスでも、先生ともうまくいかないという人がいたら、校長室に行こうと。保健室でもいいわけです。
セーフネットですね。
そう、それをどれだけ張れるかが勝負なんです。
誰もこぼれないようにという事ですね。そこからこぼれてしまうと、学校に行けなくなったりするから、最後の砦のように校長室を開放している。
そういうことです。部活で活きる子は部活で、勉強で活きる子はそれでいい。
どこにも当てはまらない子は校長室に来ればいいというだけなんです。
濵﨑神父は人との関わりを無意識的に重要視していると感じますね。
それを思ったのは、奈良少年刑務所に教誨師として行ってからですね。教誨師をやった時に何が一番大事かというと、人間は裏切ったり傷つけたりする可能性はある、親であっても。虐待の問題なんかそうだよね。でも、少年刑務所、少年院にいる子たちに伝える事って「神様だけは絶対にあなたを見捨てないよ」ということだけでいいと思ったんですよ。
イザヤの49章に「産んだ母親が子どもを忘れることがあろうか」と。「例えあったとしてもあなたを忘れない」
「私はあなたの名を手のひらに刻む」っていうんです。「刻む」って。
私たちは忘れてはいけないと思った時、マジックで手の甲にメモしておくじゃないですか。
明日持っていく物、掃除用具とか、給食袋とか。
でも、神様は「書く」のではなくて、「刻む」と言ってるんです。
消えないものとしてそこにあると。
だから、残念ながら親から捨てられたり、友達から裏切られたり、いじめられたりした結果、少年院や少年刑務所に来てるんだけれども、それでも絶望しないでくれと。神様はあなたのことを忘れていないよと。最後まで諦めないで頑張ろうよと。
刑務所の教誨師をしていたときに一番伝えないといけないことだと思ったんです。それしかない。それ以外の愛とか、人を親切にするとかそれは他の宗教でも仏教でも何でもいいんです。でも「あなたのことを決して忘れない」というのは私たちの父である神様、父親である神様のメッセージだと思うんですよ。これが分かっていれば、その子はもしかしたら、立ち直れる、あるいは更生できるのかなと思うし、これを伝えていくことは人との関わり方を考えるきっかけになる。
教誨師していた時、待合室の「先生、どうぞ時間です」って呼ばれる場所に掛け軸がかかっていて、「作者不明」の言葉が書かれていた。
いつもその掛け軸を見ながら、「これだ。これを大事にしよう」と思っていたんです。その言葉が「呼びたくとも 呼ぶことならん ガラス戸に 息吹きかけて "母"と書くなり」。
どういうことかというと、奈良少年刑務所っていうのは「明治5大監獄」の一つで、煉瓦造りの、映画『グリーンマイル』に出てくるような部屋が放射線状に配置された※施設なんですよ。それが今度星野リゾートが買ってホテルになるんですよ。「奈良少年刑務所、ホテル」で検索してみてください。出てきますから。外国ではこういう再利用の例はよくあるようですが。すごく昔ながらの建物(明治41年竣工)なんですよ。字も右から左に書いてある、「第一棟、第二棟」って。
そんな建物に何回も扉を開けて入っていくんですね。教誨師っていうのは結構施設の奥まで入っていくんですよ。
少年刑務所にいるってことは社会のドン底にいるってことじゃないですか。今まで上手く逃げてきたが、ついに捕まってしまってこれ以上も以下もないよと。最後の最後みたいなところじゃないですか。人間の社会の。
そこで彼らが思ったのは、「お母さん」なんですよね。でも、呼びたくても呼べないと。ここで呼んでも聞こえない。
すごく高いんですよ天井が。明治時代にできた建物だからね。そこでは12月でも裸足なんですよ。「なんで裸足なの?」って聞いたら「今靴下履いたら、2月が耐えられないからです」とか言うんですよ。寒すぎて。
月に一回「キリスト教クラブ」っていう聖書学習のクラブがあるんです。自由参加で、毎回だいたい10人くらい。それが冬になると15、6人近くになるんですよ。どうしてかっていうと、ストーブにあたりに来てるんです(笑)。終わってもなかなか帰らない。なんだかんだって話しかけてくるんですよ。で、刑務官が「早くしろ、早くしろ」って言うくらい。それぐらい寒いんですよ。
そこにいる子たちがどんな悪いことしたか私は知りません。
刑務所にいるくらいだから、世間を騒がすような重犯罪を犯したとかであれば、当然自分の罪を償わないといけない。でも、この子にもお母さんがいる。産んだお母さんがいる。でもそのお母さんですらその子を見捨てたかもしれない。それでも、あなたにはもう一人本当の親がいる、それは私たちの父なる神様なんだよということを伝えないといけないと思うんです。それを伝えたいだけ。受刑者たちにもそうですけど、出会う子たちにそれを伝えたいんですよね。そうしたら、もしかしたら罪を犯すのを思い止まる子もいるかもしれない。自分は孤独だと思っていた子が振り向いてくれるかもしれないと思うんですよね。
さっき中村さんが人と人との関わりを大事にしていると言ってくれていたけど、もしかしたら、その想いが自分の中にあるのかなと思います。
日本の中ではキリスト教は浸透しないと言われていますが、
その理由として日本では愛情の象徴として「母」、自分を産んでくれた存在が一番根底にあって、
一神教の神様を愛情の象徴として想像できないことにある気がします。
それでも、他の人の中に無限の愛情、神の存在を感じることはあると思うんです。
この人間の社会では、何を信じても、必ず裏切られるという経験をするので、
どうしてもどこかで人生に絶望してしまう時が必ずありますよね。
だから絶対に信頼できる存在に依らないと、立ち直れないと思うんです。
偉人伝で書かれるような徳のある人は「私を信じなさい」と言えても、誰もが言える言葉ではないですよね。
人には神の代わりは務まらない。最後の砦である「神様」を伝え続けるしかないですよね。
見たことのない「親(神様)」を見たいと思うだけでも人生変わりますよね。
そう、神様が見えないから、子どもたちに「見える」ような、「いるんだな」と思えるような生き方を私たちはしないといけないかなと思うんですよ。私たちの使命ってそこだと思うんですよね。私は当然救えないし、神様ではないので。
でも、僕もその方に頼ってる、信頼している。だから僕は楽しく生きてるんだよと。悩み事があってもなんとか生きてるんだよと。そういう生き方が大事なのかなって。子どもを生徒を若者を受け入れるということはそういうことかなと思うんですよね。
それが若者と関わる原点なのですね。
とは言っても、忙しかったり、私も感情があるし、体調のいい悪いもあるし。常に同じというわけではないです(笑)。
あまり良い対応とはいえないときのことは反省しないといけない。でもそういう姿勢で生きたいなと思いますね。
日向学院のときもそれを一番に大事にしないといけないと思っていました。
立場上、生徒を退学させないといけないときもあったし、進級させられないこともあったんです。
それでも、関わりを持ち続けるということは「あなたはそれで終わりじゃないんですよ」と言いたいから。
もちろん受け入れてくれないことも何回もあったしね。
それは私たちが担わなければいけない十字架なんですけどね。
痛みですね。生き様が伝わってきます。
ちょっと真剣な話が続いたので、今の生活についてお聞きしたいです。食べ物とか趣味とか。
食べるのは大好きですね。金八先生じゃないですけど、食べるということは人を良くするじゃないですか。「人」を「良」くすると書いて「食」になりますよね。食べ物大事ですよ。食べ物そのものというより食べる時間が大事ですよね。
僕はよく卒業生と食事をするし、若者やサレジオ会員たちと食事をする。
自分はカトリック愛野教会に3年間一人で暮らしてましたけど、やっぱりあまり食べなかったですね。一人だから晩御飯いいやと。
だから痩せた。16時間ダイエットでよかったんですけど(笑)。夕方少しおやつ食べてその後朝までカット。
やっぱり食べる時間って大事。もちろんお酒も好きだし。
よく食べる人に悪い人はいないですよ。
朗らかな人のイメージがありますね。人を惹きつける朗らかさが。
食べ物へのこだわりはあるのでしょうか?
こだわりではないんです。なんでもいいんだけど、食べる時間が好き。
あとは趣味といったら、読書とか、スポーツが好きなので、体を動かす機会があったら、動かしたい。
ただ、一人でやるスポーツとかジムトレーニングとか、ああいうのは好きじゃないとわかりました。
宮崎にいた時に近くにスポーツジムができたんですよ。
入会金無料キャンペーン中だったので、田村宣行神父と一緒に行ったんです。
夜8時からのコースだったんです。で安いからいいかと。
最初はよくあることですが、1週間に2、3回行って。「いいね~」と思っていたんです。
そのうち1週間に1回、ひと月に1回になり、おまけに「今日は頑張ったね」って言いながら、帰りに居酒屋に寄って飲んで。
幾ら使ってんだと。で、二人して辞めたんだけど。
その時思ったのが、面白くないんですよ。一人でマシンに乗って走ったり、ダンベルあげたりするのが。
一人遊びといった感覚ですかね。
そう、あんまり面白くない。みんなでねサッカーとか、バレーボールとかみんなでわいわい言いながら体を動かすということが好きですね。
僕もチームスポーツが好きですね。
みんなで一つのボールを追いかけるのが好きなんですよね。
単純に走るだけっていうのはできないですね。
そうそう。健康のために歩くことはしています。
できるだけ歩いて行こうと。今はオーディブルっていう耳で聞く読書があって、聞きながら歩いてますね。それだと一石二鳥で。耳から入ると意外と残るじゃないですか。小説なんか大体オーディブルで出てますね。
星野リゾートの代表もオーディブルを薦めてましたね。
本が好きになったのは川崎サレジオ志願院のせいかも知れませんね。漫画も読めないし、テレビも見られないし、本しか読めないじゃないですか。娯楽が本しかない。あれからお陰様で本を読むようになった。それまでは「少年ジャンプ」しか読んでなかった(笑)。ほんとに。小学校の時は「チャンピオン」、中学生の時は「ジャンプ」。それにどハマりして。当時は200円弱くらいだったかな。7、8人くらいでお金出し合って買って回し読みしてたんですよ。回ってくる頃には新しいのが出てるという(笑)。どっちが先だったっけ?っていう状態。
最後の方だと表紙がボロボロになっている(笑)。
懸賞ハガキとか切り取られてて、「おい!誰だよ切ったの!」っていう(笑)。
間に合わなかったりする。
高校に行ってからかな。「サンデー」とか出たかな。「タッチ」とか「エイチツー」「みゆき」とか流行った時代で。
漫画雑誌が流行った時代ですね。
そういうものしか読まなかった人間が、川崎に入って初めて「本」というものを読むようになった。
図書室があって、本が豊富にあった記憶があります。
僕らの時代は上の学年で「三国志」が流行っていた記憶がありますね。
「三国志」ね。あと、「竜馬がゆく」とかね。
全巻揃っていて、先輩たちが「読んだか」「読んでないな」ってよく話してましたね。
よく高校時代にあんな漢字読めるなって思ってましたね(笑)。
僕は勉強できなかったから、すごいなって思いましたよ。入った時に。
高校から入ったから、公立の英語って週3、4回しかないんです。数学も。
志願院では「チェイス※」っていう教材を使ってみんなでその場で訳していく。
すごいなと。無理無理、単語一つも分からなかった。
環境が違った。全然。文化の違いっていうのかな。
笑いも違ったしね。関東の笑いと関西の笑い。「何が面白いのかな?」って思ってた。
僕も田舎者だったから、標準語を喋ろうと必死でした。
僕は関西弁だったから、先生がわざと僕を当てるんだよ。それをみんなゲラゲラ笑うんですよ。今で言ったらイジメだよ。
そういう時代だった。
今振り返れば楽しいことも辛いことも思い出でですね。
いろいろこういう機会で思い出せていただきありがとうございました。
終