大道芸を通して伝えるメッセージ
大道芸スマイルクリエーター
鈴木和人さん
2024年9月22日(日)、昼を過ぎた頃、
東京サレジオ学園の集会室で大きなショーケースから帽子や箱、
無限大の形をした輪など不思議な道具を取り出している大きな体の人物がいた。
長年大道芸に携わり、各地でパフォーマンスを行っている鈴木和人さんだ。
無線マイクや大道芸の道具を手際よく繊細に準備をしていく姿は、まるで職人のよう。
それでいて、見た目は穏やかで優しく、人を安心させる雰囲気の持ち主。
会場である東京サレジオ学園は児童養護施設。
開始時間に近づくと続々と子どもたちや職員たちが集まり出した。
柔らかな緊張の中、パフォーマンスが始まると、鈴木さんの手や足、体の動きに観客の目が釘付けになった。
国内で10人しかできないという最後のパフォーマンスの前に
鈴木さんは会場にいる子どもたちに向かって
どんなことでも諦めずに一生懸命に取り組むことの大切さを
自分の一生懸命な姿を見せながら伝えた。
迫真のメッセージが観客の心に響く瞬間。
パフォーマンス終了後、興味をもった子どもたちにいつまでも接する姿は
プロの大道芸人のイメージを変えてしまうほど、とても身近な存在に見えた。
まず、簡単に生い立ちをお聞きできれば。
静岡県出身だと伺っていますが?
そうですね。静岡県の浜松市で生まれ育ち、幼児洗礼を受けました。
元々は浜松教会に所属していたんですけど、
浜松教会が今の位置に移転するときに自宅からの距離が鷺の宮教会の方が近くなって。
小学校低学年くらいの時からそっちに通い始めたんですよ。
で、もう鷺の宮教会でずっと過ごして。
中学から静岡聖光学院の寮に入りました。
静岡聖光学院は自宅からは少し距離がある?
そうですね。
浜松から静岡まで電車を使ってドア・トゥー・ドアで2時間くらい通学にかかるので。
電車に乗っている時間は1時間15分くらいです。
それで、寮に入って。
学校のサイトを拝見しましたが、中々独特な校風の学校ですよね。
そうですね。
学校を創立したのは"教育修士会"っていうローマに本部を構える男子修道会なのですけど、
修道会のブラザーが退いて卒業生が校長になって、校風もちょっとずつ変わってきていますね。
今は横浜聖光学院の校長が兼務する形で運営しています。工藤校長っていう方ですね。
横浜と静岡では学校同士の関わりは深いのでしょうか?
生徒同士はそれほどないですね。
横浜聖光の授業に静岡聖光の成績優秀者が参加させてもらうみたいなことはあるんですけど。
校長は同じですけど、物理的にも距離があるので、学校同士の交流が密にあるかというとそうでもなくて。
静岡聖光は学力よりも"生きる力""人間力"に重きを置いて、
多様性の時代の中で"生き抜いていく"っていうのを視野に入れた教育をしていますね。
なるほど。
では、サレジオとの関わりについてですが、中学1年生の時、
サレジオ会の主催していた「野尻湖少年聖書学校*」に
ご両親がご本人に無断で参加申し込みをしていたそうですね。
中学1年生の時に親がすごくいいキャンプがあるというので行かされたんですが、
自分はそれ自体も何だか知らなかったんです。
母親が熱心だったので、そういうことが結構よくあったんですよ。
いろんなところから情報を得てきては、僕の了承なく申し込んで。
この日からキャンプだよって送り出されるっていう(笑)。
浜松教会に所属していた幼い頃にサレジオ会との関わりがあった?
その頃はまだサレジオ会の教会ではなかったと思うんですよ。
ハルギン・デギ神父様っていうバスク*の方だったんですけど。
その方はどこだったかな?パリミッション会*だったかな?
では、ご両親もサレジオ会との関わりは特になかったんですね。
でもお母様はどこからか情報を仕入れられていた?
はい、結構いろんなところから情報を仕入れては、良さそうだっていう噂を聞くと僕をそこに放り込むみたいな(笑)。
そういう母親の元に育ったんです。
うちの教育ははっきりしていて、教会に行くっていうこと以外は全く干渉されないんですよ。
何をしててもいいと。成績が悪くても怒られないし、多少悪さをしても怒られないけど、
日曜日に教会に行かないということに関してはものすごく怒られるんですよ。
なので、熱があっても教会に連れていかれるみたいな。
「今日ごめん、ちょっと体調悪い」って言っても、
「えっ!教会だよ? ミサ行ったら治るでしょ」みたいなそんな感じの母親だったんで。
家風というか。そこだけは譲れないと。
そのおかげで聖書学校に何も知らずに放り込まれたけど、行ってみたらものすごく楽しくて。
そこで仲間もでき、中学2年生以降は自分の意思で「行きたい!」と自分から言って、高校3年生まで続けました。
そこで浜崎神父様や田村神父様にも出会ったんです。
その後は何かサレジオ会の活動に関わっていましたか?
実はそんなにサレジオ会に関わる活動はしていなくて。
ただ、高校3年までは親の管理下にあるので、無理矢理連れていかれるっていう形で教会には行っていたんですけど、
高校卒業後に京都の大学に入ったので、親元から離れて一人暮らしになったんです。
「よし、教会行かなくていいぞ!」ってなったんですよね、最初は(笑)。
でも、京都になんのつてもなく行ったので、4月の最初の頃は友達もいないので、孤独で。
平日は大学に行けば友達がいるんですけど、授業のない土日は、「なんて孤独なんだこの一人暮らしっていう生活は」って思って。で、日曜日に教会に行けば受け入れてくれるかなって思って検索したら、自分の住んでた場所の近くに桂教会があるって知って。自転車でキコキコ行って。
教会に行ったら、案の定「若者が来た!」って、声掛けられて(笑)。
受け入れてもらって自分が来ていい場所なんだなって思って。そっから桂教会に自分の意思で通うようになりました。
「日曜学校やりなよ〜」って言われて、小学生のお世話とかさせてもらうようになって、
そのうち京都教区で青年が集まってるよって教えてもらって、
京都カトリック青年センター(カトリック西陣教会)っていうところに顔を出したら、
また「静岡県から若者が来たぞ!」みたいになって。運営委員をやることになりました。
それから、カトリック青年センターに入り浸っているところ、
同じ敷地の中にサレジオ会の溝部司教様が望洋庵を立ち上げたんです。
当時僕は溝部司教様が誰かも知らなかったんですよ。なので、知らないおじいちゃんが入ってきたと思って。
そしたら、「パスタ食べませんか〜?」って声掛けられて。お腹空いてるし、一緒にご飯でもっていう感じで。
一緒に食事をして終わったと思ったら、ローソクがポンと置かれて、「ふりかえりをしましょう」って(笑)。
「何〜!? これは、騙された〜! なんだこれは〜」と」と思って(笑)。
ローソクを囲んで自分の思いを言葉にする、すごくシンプルなことで、聖書学校でも同様のことはやりましたが、
その場にいる全員が一人ずつ語るっていう時間は初めてで。
ふりかえりをした時に、
「なんか自分の内面に思いを向けて静かに沈黙のうちに振り返るって、いいなと」思って。落ち着くなあと思って。
その時もまだ溝部司教様という人がどんな人なのかも全然わかってないんですけど、
とりあえず、パスタをご馳走してもらって、ふりかえりをして帰ったんです。
そのうちまた、望洋庵で青年のために講座を開いていくとなって、どのくらい人数集まるか分からないし、
サクラでいいから来てよ!って感じで呼ばれて行ってみたら、その講座も興味深くて面白くて。
ちょこちょこ顔を出してたら、望洋庵の運営委員第2期のタイミングで「鈴木、やらないか」って声掛けていただいて。
「じゃあ、やらせていただきます。何ができるか分からないですけど」って応えたんです。
そしたら、運営委員のまとめ役をやらないかって。溝部神父様の一本釣りですよね。「和人に頼みたいんだけど」って。
「じゃあ、やらせていただきます」っていってやり始めたのが運営委員の代表でした。
溝部司教から直接指名だったんですね。
そうです。捕まった感じですね(笑)。
何年くらい運営委員の代表をされていたんでしょうか?
任期が3年なんです。3年目の頃に溝部司教様がご病気で入院されて、
このタイミングで運営委員を変更はできないだろうってことで、延長、延長になって。
で、溝部司教様が亡くなられて、望洋庵はどうするんだ?って話になった時に、
望洋庵って場所は青年のために祈りの場として残すべきなんじゃないかという意見がほとんどで。
じゃ、溝部司教様がいない中で成り立つものなのかっていうところを運営委員の間で毎晩のように話し合って。
話し合う中で、なんとか存続していこうと。でも存続が目的になったら意味はないよねって。
なんのために存続するのかっていうところをみんなしっかり持とうぜっていう話をしながら、
「祈り」「聖書の学び」「ここに来る人たちとの出会い」っていう3本柱がぶれない形でやっていけるんだったら、
存続しようと。
京都教区にお願いして一旦責任をもつ形で、管轄としては大阪教会管区が責任をもっているけれども、
京都教区が司祭を派遣したりする形で続けていこうかって話をしてくださって。
その代わり、君ら運営委員を続けなさいよって。今から3年って言われて(笑)。
3年任期で終わるはずが、トータル7年なんです。
その間に学生から社会人に?
そうです。その当時は大道芸人一本で生計を立てていました。
なので、金髪赤髪で。
大道芸とはどこで出会ったんでしょうか?
大道芸との関わりはミーハーな始まりなんです。
中学生の時にテレビで見たパントマイムに感動して「これ面白い!」と。
さらに世の中でブレイクダンス*が流行っていて、これもかっこいいと。
パントマイムとブレイクダンスを融合させたらかっこいいんじゃないかって
中学3年生の時に趣味でやり始めたのがきっかけで。
十数年くらいでしょうか? 結構長く携わっているんですね。
そうですね。
当然初めは素人が独学でパフォーマンスをやり始めても出演依頼なんて来ないので、
じゃあ、人のいるところでやっちまえって、路上で音楽をかけて勝手に踊るみたいなことをしてたら、
「それって、大道芸じゃん」っていうことになって。そこで「静岡」っていう場所が活きてくるんですけど。
静岡って大道芸の町なんですよ。
「静岡大道芸ワールドカップ」っていうアジアで一番規模の大きい大道芸のフェスティバルが11月の連休4日間かけてあるんですけど、大体150万人くらいお客さんが来るすごい大きなお祭りなんですよ。
それもあって、「大道芸」が職業として自分の中に一つあったんですよね。
「あっ、これ大道芸やってるな自分」っていう確信があって。
大学でも仲間と一緒に路上の色んなところでパフォーマンスしていく中で、
これで食べていくっていうのも面白いかもしれないなっていう感覚があって。
大学卒業してからちょっとだけ貯金を作っておきたいなっていうのがあったんで、
半年くらい京都でタクシードライバーして貯金を作って。
そこから大道芸人1本でやっていった形ですね。
職業は大道芸で会社勤めはされなかったんででしょうか?
大道芸人1本でやっていたのは6年間くらいなんです。
その頃に教会のつながりで出会った彼女と結婚をするって話になった時に、
大道芸人だと収入が不安定だし、保障もないから結婚するのに不安が多いと。
どんな小さな所でもいいから、会社勤めをして欲しいと言われたので、
そこから29歳で就職活動を始めて。
どこでもいいならって始めたんですけど、
29歳で職歴がタクシードライバー半年と大道芸人じゃ、履歴書としても弱いわけじゃないですか(笑)。
どこも雇ってくれなくて。
そういう中でも色んな出会いがあって、語り尽くせないところもあるんですけど。
拾ってくれたのが電力会社で、その電力会社が即戦力にならない30歳近い人間を取り敢えず雇ったるわって言ってくれて。
取り敢えず4月1日から働き始めるって、何ができるかな〜?って。じゃあ、掃除しかねえなって思って。
他の社員さんが出勤する9時より1時間前の8時に出勤して、全員の机を拭いて、トイレ掃除をしてっていうの毎日やってたんですよ。
そしたら、役員の人が気付いてくれて、「鈴木お前掃除してくれてるらしいなあ」って。
「できることがないので掃除してます」って話をしたら、
その次くらいに今度社長から呼び出されて、「お前元大道芸人らしいじゃないか」って言われて。
「今度うちの会社の忘年会を京都の京都ホテルでやる。300人くらいの社員が集まるから、そこで余興やれ」って言われて。
「わかりました。何分くらいいただけますかね?」って言ったら、「10分くらいかな?」って言われて。
「大道芸30分くらいあるんですけど…」って言ったら、「30分か!?」って(笑)。
「お前、忘年会1時間半の枠の中で30分取られたら、3分の1お前の余興じゃねえか」って話しで(笑)。
「でも、もし本気でやらしてもらえるんだったら、30分欲しいです」って話して。
ガッツリ30分フルのショーをやらせてもらったんです。そしたら、色んな人が自分のことを認知してくれて。
京都本社にオモロい社員がいるぞ、元大道芸人らしいぞみたいな感じで噂が広がって。
そういう中で社長から「お前の大道芸は営業に生きるから、大道芸続けなさい」と言ってくれて。
会社の車に常に大道芸の道具を積み込んであって、お客さんのところに大道芸をしに行って、
楽しんでもらって、電力の契約をもらって帰ってくるっていう営業で色んなところに行かせてもらって。
特殊社員ですね(笑)。
特殊社員です(笑)。で、会社でCMうつってなった時にも、「お前CM出ろ」って言われて、
全国放送のCM15秒間、僕のパフォーマンスがうちの会社のCMで流れたんですよ。
会社の"顔"ですね!
エフビットっていう会社なんですけど、
パンフレットなんかも、「エフビットの鈴木くん」っていう僕のそっくりなキャラクターが会社のイメージキャラクターになってて。
キャラクターが電気のことを説明してるんですよ(笑)。
全部、繋がっていきますね。
そうなんですよ。そういうことをやりながら、
児童養護施設とか、少年院とか刑務所とか色んなところでパフォーマンスをさせてもらっていたら、
その活動を知ってくれた静岡聖光学院の校長が電話を突然かけてきてくれて。
「お前、人生設計どう考えてるの?」ってかかってきて。
「僕今の会社で定年まで働くつもりでいますよ」って話しをしたら、「そっか、じゃあ静岡出張あったら、遊びにおいでよ」って。
で、電話を受けた次の日に静岡出張が決まるんですよ(笑)。ミラクルだと思うんですけど。
静岡出張行って、午前中に仕事が終わって、時間あるなあと思って、校長に電話かけて。
「今静岡にいるんですけど」って言ったら、「校長室においでよ」って言われて。
校長室に行ったら、「単刀直入にいうけど、帰ってくる気ないか?」っていう話で。
「もし教育に携わるつもりがあるんだったら、うちに席空けて待っとくけど。どうや?」って話になって。
ただ僕、勉強がすごく苦手で。
苦手っていうか嫌いだったので、「僕教員免許も持ってないですし、勉強も嫌いなんで、勉強教えられませんよ」と。
そしたら、「分かっとるわ。お前の成績の悪さは把握しとるわ」と。「お前に勉強は期待していない」と。
ただ、お前は生きる力がすごいから、これからの聖光学院の在り方として、学力よりも生きる力っていう学校の方針を考えた時に、
お前みたいな教員が一人欲しいんだという話しをしてくれて。
偏差値に関わる仕事をしなくていいんだったら、やらせてもらいますっていう返事をして。
それでいいっていうことになって、今は静岡聖光学院の寮で1年生の寮監をやりながら、教員免許取得のために大学に通っているんですよ。
ただ、エフビットでイメージキャラクターまでなったんで、社長に言うのを少し躊躇いました。
でも社長に「昔から勉強が苦手で諦めていたんですが、教育現場で働くチャンスをもらえるみたいなんで、かけてみたいんですけど」
って話しをしたら、「分かった」って受け入れてくれて。
その代わり、名前と肖像権に関してはうちの会社に残しとけっていうことで会社が持っていて、
代理店として名前を残しながら、静岡で働いているっていう。
二足どころか、草鞋を履きまくっていますね(笑)。
そうです(笑)。
たまに新入社員の営業研修で、
どうやったら営業がうまくいくかっていう話しをするために
支店長が新入社員を連れてわざわざ静岡まで会いにきてくれて。
「鈴木くん、ちょっと営業のハウツーを教えてあげて」みたいなことを言われて話したりしてますね。
人との関わりが全部、そのままその後に活かされていく生き方ですね。
そうなんです。
僕、目標を明確に立ち上げてその逆算で何すべきかっていうような事を全然やっていなくて、
どちらかというと目の前にある課題とか目の前にいる人に対して、全力で接していくっていう生き方なんです。
それをやっていくうちに気がついたら、後ろに道ができていた。
だから、将来が全く見えないんですよ、今の段階でも。
今は静岡聖光学院の寮で中学一年生のお世話をしているんですけれども、
取り敢えずは生徒たちに幸せな人生を送ってもらうために今何すべきかっていう、「今」しか考えていないんです。
妻には結構危なっかしいと言われるんですけど(爆笑)。「本当にポジティブモンスターだよね」って。
先程見せていただいたパフォーマンスの最後に
ポジティブなメッセージを述べられていたのを聞いて、感動しました!
ありがとうございます。
今日居合わせた子どもたちの心に残って、いつか思い出すでしょうし、
私にとっては忘れかけていた情熱を思い出しました。
そういったメッセージ性を持ったパフォーマンスは素敵ですね。
自分の一生懸命な姿がそのままメッセージとして伝えているっていうのが。
計画性が無い分、なんとかなるよ!って言えちゃう自分がいて。
だから子どもたちにも「一生懸命やってればなんとかなるよ! だから一生懸命やろうよ!」っていつもいうんです。
将来のことが分からなくて、不安になるかもしれんけど、とにかく目の前の人に優しく、
取り敢えず目の前にあることに一生懸命。
それでいいんじゃないか、それで少し安心してくれるかなって。
将来の夢がなくて不安っていう子たちとかいっぱい会ってきたので。だからこそ「いや、今一生懸命やりな」って。
何やっててもいいから一生懸命本気でやると、それが本当に思いもしないところで役に立ったりするからさあって言ってるんです。
それを本人が体現してるから。
本当にそうなんです(笑)。
そういう話が子どもたちにできたらいいのかなって。
素敵ですね!
終)
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