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航空の森、宇宙の夢

航空の森、宇宙の夢
  木下 雄飛
とある国家のとある森の中で、切り株に腰かけた70歳近くの木こりの老人が、まだあどけなさを残した15歳ほどの年齢の男の子に対して、大事なことを話すときの重い口ぶりで、優しく諭すように言葉をかけていた。彼らの座る切り株の周辺には、春らしい陽気を感じさせる草花がパッと萌え出ていて、子鹿や小鳥などの幼い動物たちが、地面に落ちているクルミや葡萄などの木の実をツンツンとついばみながら明け方の朝食を済ましていた。そして、彼らの後方には、パルテノン神殿を建造した建築家の弟子が硬質な大理石で建築した清らかな泉が水を湛え、中央に噴水が湧いている。老人は、再び語り始めた。《人間とは、君が想像している以上に奥深い。井の中の蛙大海を知らず、という東洋の国家の古い諺が指し示すように、広い世界を知らないで、桜が散るように風の前の塵として、空に消えて行く者と、この森の外に広がる大海原を渡り、人生の航海の舵を取ることで、やがて蒔いた種が花をつけて実を結び、限りない大空へと飛翔しゆく者。そして、自らを信じ抜き運命の鍵を開いて天高く舞い上がる真の勇者こそが、この地球という広大な大地を牽引する王者になる資格を持つのだ。》
老人は、そこで一息ついて呼吸を整え、男の子の名前をはっきりと呼んだ。
《ゼイドよ、君にはこの森から抜け出して、今我々の頭上を悠々と飛翔する巨大な鷹、そう、あの空の王者のようにこの世界を巡り、今の自分には何ができるのかという理想を追求して欲しいのだ。私のささやかな遺産が、この森からおよそ1万キロ近くも離れた遠き国に眠っている。これがその遺産が眠る土地を示した40年前の地図だ。》
老人はきつい匂いのする古びた地図を、彼の奥さんにもらった革のバッグから取り出して、男の子の左手の掌に乗せた。
《私の命は、もう長くはないだろう。しかし、君にはこの宝物とともに生き延びて欲しい。そこの国は、私の青年時代に訪れた場所だ。とても平和ないい国だった。私には、その国に言葉では言い尽くせない非常に深い恩義がある。どうか、君には、その宝を自らの立身出世と、その国の後世まで永遠に続くさらなる発展のために使って欲しい。》
思春期を過ごす青少年には珍しく、男の子は胸に熱いロマンを感じて、老人の話を必死に頷きながら飽きることなく聴いていた。
《悲しいことではあるが、私は見ての通りこの身体だ。老いと死は目の前まで迫ってきていることがはっきりと自覚できる。この身体の衰えと残されたタイムリミットを考えると、私はもうその国に訪れることはできない。》
老人は、再び息を吸い込み、決心したようにため息交じりの深呼吸を繰り返した。
《ゼイドよ。君にはまだこの先に大いなる希望に満ちた幸福な未来が待っていることだろう。是非とも、君には40年前に私が血と汗と涙を流して、苦心に苦心を重ねながら創造したその宝を見つける旅に出て欲しい。その宝が君の人生に役立つときがきっと来るはずだから。》
それが、15歳のゼイド少年が、森の成人の儀式を済ませた翌日に聴いた、彼の人生の師シルヴァ伯爵から託された言葉だった。老人は、その一連の言葉を彼に渡してから、きっかり3ヶ月後に彼の元から消えて、帰らぬ人となった。死因は、末期の肺がんだった。
老人は、自分の命がもう長くないことを、身体の痛みや心身の不調から分かっていたようだが、自分が生まれ育った森から抜け出して、最後の尊い時間を街の病院で費やすことを拒否していたため、ゼイドたちは、森にある小さな「サンセット・クリニック」という病院に勤めるオーリエ医師を、自宅に呼び寄せて、家族、ゼイド、そして主治医のみで老人の最期を看取ったのだった。
老人が亡くなる3日前には、彼はとても苦しそうで、血痰を吐いたりして、死を受け入れまいと肉体と精神が戦っていたが、亡くなるその瞬間は、緩慢と近づく死の扉を開こうと静かな表情で、サムライのように少しだけ微笑しながら、あの世の旅立ちへ誘う天使を迎え入れていたのだった。
老人の亡くなる5分前の最後の言葉を、ゼイドは今も鮮明に覚えている。《ゼイドよ、あれを頼む。必ず見つけ出してくれ。》
そして、老人の心電図の音が止まった。
彼は、師匠の放った最後の肉声を聴いてからというもの、以前にも増して精悍な顔立ちで、森の泉のそばにある「トポス・キッチン・スタジオⅡ」という名前のベーカリーで、眠る暇もほとんどないくらい必死に働いて、この森に流通する通貨である「ホルン」を約50万稼いで、旅の資金を創出した上で、長年の歳月をともに過ごしたジッドやゲーテなどの仲間たちとの懐かしい思い出に溢れる、自然豊かな、愛するその森に別れを告げて、街の繁華街へと自動運転車を走らせた。
街に到着してみると、ゼイドの森にはない数々の珍しい店が軒を連ねて、賑やかな観光客の声とともにひしめき合っていた。例えば、近未来を感じさせるショー・ウィンドウが眩しい高級ブティック、色とりどりの目に鮮やかなブルーやピンクの洋服を着たマネキンが並ぶファスト・ファッションの洋品店、そして21世紀的な解釈で建築されたモダニズムな複合型商業施設、などがあって、ゼイドは純真無垢なその瞳を光らせて、初めての街観光を楽しんだ。街の中心部では、シェアリング・エコノミーが発展していて、シェア・カーやシェア・ハウス、そして最新型のシェアリング・ジェットが、IDパスで鍵を開けて、30ホルンほどの金額を払えば、誰でもいつでもレンタルすることが可能だった。ゼイドの暮らしていた森での生活は、噴水の循環機構以外は殆どがアナログな設計になっていて、不便が当たり前だったので、あまりにもスケール感やデジタル化が進み、デジタル・ネイティヴな街での体験は、新しい驚きと発見の連続だった。ゼイドは、簡易的な作りの滑走路で、グランド・スタッフの女性からシェアリング・ジェットの使用方法を、初めて実践する街の言葉で、様子を伺いながら訊ねていた。誰でもパイロットを雇う方法さえ知っていれば、飛行機に搭乗可能だということが分かると、彼は感謝の言葉を彼女に述べた。森で磨かれた処世術を街で発揮したとき、ゼイドはたくましい大人の男性に変わりつつあった。街での生活も、森での生活の応用に過ぎないのだと、ゼイドは鋭敏な感覚によって直感していた。ゼイドは、パイロットのハロルドというミドル・クラスの中堅パイロットを雇った。シェアリング・ジェットはヘビー・クラス、ミドル・クラス、女性用のアトム・クラスの3種類に分類されていて、ゼイドが選んだのは、一番お金のかからない30ホルンで乗ることができる、自家用ジェットほどのサイズの飛行機だった。白い機体に薄いブルーのラインが入った、ホンダという、日本のメーカーの2025年モデルだった。ゼイドは、敢えて片道分の飛行機の値段しか払わなかった。なぜなら、師匠の宝を見つけることで自分の乗る飛行機のグレードがアップすることを絶対的に信じていたからだった。そして、燃料もギリギリのラインを攻めてくれとハロルドに頼んで、ゴーグルとヘルメットそしてライフ・ジャケットを装着して、機体の後部座席に乗り込んだ。師匠の遺産は、古代において日出ずる国と呼ばれた東洋の国・日本にあると地図が指し示していた。本田宗一郎の創業した「ホンダ」の、創業者が抱き続けた長年の夢を結集したホンダ・ジェットに乗って、今日本に向かうことに、ゼイドは不思議な縁を感じていた。ハロルドは、ホンダ・ジェットのエンジンを低音で鳴らして、プロペラが回り始めるのを無言で待ち続けていた。そして、管制塔との無線でのやりとりを行って、管制官の英語を話す男性が、「ハロルド、機体を上昇させよ」と伝えて機体が空へと振動を震わせながら昇っていった。
日本へ向かう道のりの中で、さまざまな突発的な試練に機体は見舞われた。雷雲への突入によって引き起こされたエンジン・トラブル、無線の不調によって管制塔との連絡が途切れたことによる空軍とのドッグ・ファイト、そして戦争地域を通り抜ける間にドローンとのバード・ストライクのような飛行機事故が勃発しそうになったこと、などが主な出来事だった。
各国を通過するたびに、現地の管制塔とのやりとりをすることは、ハロルドなりに努力していたものの、英語のみしか話すことのできない彼は言語やスラングの違いなどによるコミュニケーションの齟齬で、トラブルは尽きることがなかった。同じ人間同士であっとしても、母国語が異なることが互いの理解に差を生むことが、森から初めて出たゼイドには衝撃的だった。そのため、何度かトルコのイスタンブールの空港やインドのデリーの空港などに、トラブルが解消して安全にフライトができるようになるまで、着陸するという不測の事態が発生した。その都度、ゼイドとハロルドは飛行機の不調や、その国家特有のトラブルが収まると分かるまで、市内を観光するなどして、少しでも旅の気分を味わい、時間を有意義に過ごそうと、心ゆくまで、その地域の持つ固有の香りを満喫していた。そのような経験は、あのままブーランジェとして、森でパンを焼く日々を過ごしているだけでは、決して味わうことのできない、貴重で濃厚な非日常的空間での邂逅だったので、ゼイドにとっては、何もかもが、新鮮で、ステキな、味わい深い、実際に肌身で感じられる本物の映像が目の前に流れていた。その度に、ゼイドは師匠の話した最後の遺言がずっと頭の中で響いているのだった。
《ゼイドよ。お前の父さんは勇敢だった。立派な森の番人だった。あの街の中心部で起こった、7月29日の革命によって、現職の市長が転覆し、政権交代が起こったあとも、政権を奪い取った忌まわしき市長から、我々の森の秩序と、我々の生きる源泉である泉を守り抜いたのだ。我々森に生きる者にとって、泉の水が保たれ続けるということがどのような意味を持つものか君にわかるだろうか?あの泉は、ただ水が湛えられている泉であるというわけではないのだ。我々の数千年続く森の歴史と、何者にも侵略されることなく独立を守り抜いた我々の森の権威の象徴なのだ。ゼイドよ。きっと君は、私の宝を発見し、世界中の様々な物事を見分し、そして再びこの森に戻り、我々の森と我々の泉を目撃するとき、どれだけ君の過ごしたこの森が非常に絶妙なバランスをもって存続する誉れ高き場所だったのか、ということに気が付くに違いない。もし君が遠き東洋の国に暮らすことになったとしても、この自然と調和することのできる森、そして君を育んだ生命の泉のことだけは君の記憶の中にとどめ続けてほしい。その2つを覚えておくことが君の人生に役に立つ時がきっと来るはずだから。》
ゼイドとハロルドは、飛行機のトラブルに見舞われたため、当初の予定よりは時間を費やしてしまったものの、6日と12時間のフライトで日本の羽田空港に到着した。もう日が落ちかかって、いつのまにか夕方になってしまったので、今夜は空港の近くに立地しているホテルに2人で予約を取って宿泊することにした。この師匠が肺ガンで亡くなってからの5年間という時間を、ゼイドの暮らす森に住む唯一の日本人である中村宏さんが家庭教師をしてくれていた。彼と共に日本語を学び合うことで、ゼイドは日本語の読み書きがある程度のレベルまで、できるようになっていた中村さんの指導は、日本語の持つ抽象的な美しさを、具体的なイメージから教えてくれたので、非常にゼイドにとってその言語の面白さを知るきっかけになって、厳しくも暖かい有意義な時間を過ごせた。例えば、中村さんは、「騒がしいって、どういう意味だと思う?」とゼイドに尋ね、「この森の言葉で説明すれば、騒音に悩まされて困るという意味だと思うな」と言って、その次に中村さんが「日本語では、外に雨が降っていて、雷もなっているし、非常に騒がしい。落ち着いて食事をとることもできないほどの雨だ。みたいに使うんだ」と的確な表現で、明瞭な美しい日本語に変えてくださった。このような真剣なやりとりが週3回ずつで5年間続いた。
羽田空港の税関などでも完全に異国情緒のある外国人の風貌をしているゼイドだったが、なめらかな美しい日本語で、「パンを焼くための折りたたみ式の釜を持ってきたのですが、これは税関に通りますか?通らなければパイロットのハロルドに持ち帰ってもらいます」と語るので、税関職員は感服していた。
「ステキな海外からのお客様ですね。とても美しい日本語を流暢に話す。日本人と交流があったのでしょうか?」
「ええ、ありました。僕の生まれ故郷に住む中村宏さんという日本人の男性の方から5年ほどレクチャーを受けて、日本語の学習を続けていました。学習の成果がここで出せて、僕は今とても嬉しいんです。話を聞いてくださってありがとうございます」
「あっ、この釜は税関を通せますよ。ぜひ、日本でも美味しいパンを焼いて、心ゆくまで召し上がってくださいね」
「あなた方はとても優しい。森の天使のようだ」
「森の天使だなんて、ロマンティックですね。ご覧になったことはおありですか?」
「ええ、森には天使と悪魔が木の上で眠っていますから」
「あなた方の森には、想像上の生き物が棲息しているのですね。とても興味をそそられる。今度見に行ってもいいですか?」
「ええ、どうぞご覧ください。たくさんの生物や神々が住んでいますよ。例えば、ユニコーンや鵺などがいます」
「へぇ、鵺とユニコーン。面白い!いけない、喋り過ぎてしまいました。それでは、日本での旅をどうぞごゆっくりお楽しみください」
飛行機で世界各国を飛び回っていた時のような、言語の違いによるコミュニケーションの問題は日本に来てからは殆ど感じることがなかった(ハロルドは笑顔で乗り切っていた)。その事実は、ゼイドにとってはこの日本という土地が安心・安全なコミュニティなのだと感じさせた。そう考えると、不思議と外国にいる旅行者特有の孤独感は癒されていた。
空港での気持ちのいいやりとりを、ゼイドとハロルドは、ホテルの部屋に備え付けられている露天風呂に浸かりながら、星を眺めて思い出し、とびきりの癒しを得ていた。日本の温泉というのは、とても心が温かくなって、不思議な居心地の良さを感じさせる、と湯気の上がる温泉の湯船に浸かりながら、ゼイドはハロルドと心ゆくまで語り合っていた。
ゼイドは、《シルヴァさんにはお世話になったから。》と言って、親切に日本語の教師を買って出てくれた中村さんに、この澄み渡る空のような感謝の気持ちを抱いていた。40度ほどの温度に保たれた露天風呂は、天然の泉質のいいお湯が流れていて、身体の芯まで2人は温まって、満足感を持ちながら、温泉を上がった。温泉入浴中にちょうど準備された懐石料理を食べて、その日は眠りについた。
その日、ハロルドは木星の周りを宇宙船で旋回する夢を見た。その惑星は、もともとのガスで出来た星から、人間の手によって開発が進んで、コンクリートのような地面になっていて、誰でも歩けるようになっていた。骨格のしっかりした、アポロ時代から続くシリーズの最近デザインが一新した宇宙服を身に纏う、アメリカ人の宇宙飛行士たち3人が木星の上に星条旗をはためかせて写真を撮り、ライブコマースで世界中に中継している非常に立体感のあるリアリズムな夢だった。ハロルドは、夢の中で、宇宙空間に漂う塵と重なり合いながら、ふわふわと浮かんで、彼らが木星に星条旗を立てる姿をじっと眺めていた。地球人を見守る宇宙人の気持ちを数10分間味わう、至福の夢だった。
午前6時を過ぎて、きらびやかな朝日が地上を照らしている。早朝から2人は、バック・パックに出掛ける準備を始めた。飛行機乗りたちの朝は誰よりも早いのだ。
「眠りはどうだった?」
「グッジョブ。君は?」
「最高の気分さ。さあ、航空発祥の地・所沢に出発するとしよう」
2人はホテルの外の滑走路へと歩いていき、飛行機に乗り込んだ。男たちの夢に向けた冒険の幕が上がる時が来た。ジェット・エンジンが着火して、プロペラが回転を始める。そして、少しずつ海を滑るサーファーのように飛行機が進行し、翼が空に向かって伸びて行く。すると、飛行機は、テイク・オフした。
航空発祥記念館を擁する所沢の地は、2020年の東京オリンピックに合わせる形で再開発が進み、所沢駅や駅と連結しているグラン・エミオなどの新しい商業施設がこぞってオープンした。さらに、所沢の最東端にある東所沢の近くには、美術館・博物館・図書館の融合施設と、ビジネス・オフィスやホテルなどのビジネス・パーソン、そして観光客向けの施設が立ち並ぶ「クール・ジャパン・フォレスト構想」が、株式会社KADOKAWAと所沢市の全面的な協力体制が敷かれて、急速な都市としての発展を遂げた。大江戸線が東所沢駅に来るなど、交通網も劇的に改善したため、所沢全体が海外からのインバウンドたちが頻繁に訪れる、世界屈指の人気観光スポットになっている。東京オリンピックから8年が経ち、街の雰囲気は、過去と現在でガラリと一変した。街には、ストローの刺さっていないコーヒーを飲むさまざまな国籍の人々が歩き、英語やフランス語の会話が途切れなく聞こえてくる。
そして、所沢にとって人の集まるハブのようになっているプロペ通りには、端から端まで、一面に動く歩道が設置されて、ストレスを感じずに、雑貨屋やお茶屋で買い物ができるようになった。
「所沢の空は、気持ちがいいね」と、ゼイドが言った。
「もうすぐ、着くぜ」と、気持ちの良い笑顔で、ハロルドはウィンクを見せた。
航空公園には、2年前に、航空発祥の地を再興させようという運動をきっかけにして、滑走路が完成し、今年、世界一のパイロットを決定するレッドブル・エアレース・ワールドシリーズ2028が開催されることが決定した。そこには、2017年大会で、チャンピオンになった、日本人の渡辺寿英さんがスペシャル・ゲストとして、イベントに登壇することになっている。
ゼイドとハロルドは、元米軍基地の場所にできた、管制塔と連絡を取りながら、降りる位置の最終確認を行った。1500mほどの滑走路を、飛行機は音を立てて着陸した。世界大会のコースと着陸用の滑走路は距離があるので、10分ほど公園内を散歩して、その間中ずっと、森から抜けて異国の地にいる感慨を、ゼイドは噛み締めていた。
航空公園の中には、ソフトクリームのモニュメントのようなものが立つアイスクリーム売り場や、地元の所沢牛のハンバーガーなどが、いつも売っているようなので、三里牧場のハンバーガーとロース肉の串焼きを買って食べた。
ゼイドは話し言葉の日本語はわかったが、漢字はほとんど読めないので、
「この幟には、なんと書いてあるのでしょうか?」と、一つだけ気にいなっていたことを訊ねた。
「三里牧場です。こんど時間があるときに来てください」と、店員の筋肉質な男性2人に笑顔で返答を貰って納得していた。
明後日に控えた世界大会に向けて、自衛隊のブルー・インパルスによる航空ショーが行われているので、ゼイドとハロルドは観客の中に入って、飛行機が飛ぶ姿を目に焼き付けた。ブルー・インパルスは、白・黄色・青と三色の煙を吐きながら9台で隊列を組んで飛行している。子供から大人まで、本当にいい笑顔をしていて、2人は今回のレッドブル・エアレース・ワールドシリーズが気持ちのいい大会になる予感がしていた。ブルー・インパルスの先頭を走る一台が大きな弧を描いて飛び始めた。バーティカル・クライムロールという一流のパイロットだけができる大技だった。ひとりの9歳ぐらいの男の子が飛行機を指差して、「宇宙兄弟のやつだ!」と大声で叫んだ。その瞬間、みんなの顔が、一気にフライトの成功を祈る緊張の面持ちから弾けるような笑顔へと、華やいだ。ハロルドは、英語版の「スペース・ブラザーズ」をサブスクリプション・サービスで見ていたので、「Oh,Yeah!!」と拳を突き上げて喜んでいた(ゼイドは生粋の森育ちだったので、ハロルドのテンションの高さに「すみません、すみません」と謝り続けていた)。
「今日は、本当に日本に来てよかったよ。バーティカル・クライム・ロールなんていう究極の大技も見ることができたしね」
「本当に楽しいな。でも、楽しいだけじゃ所沢まで来た意味がないぜ」
「ああ、宝探しが俺らを待ってるからね」
深夜1時、草木も寝静まった頃に、近所のドンキ・ホーテで購入したスコップを、1人1本ずつ持って、航空公園の中を散策し始めた。ゼイドがコンパスと地図を、ハロルドが懐中電灯を持ち、光で目の前を照らしながら、ダウンジングを使って、自販機の裏やドッグ・ランの近くを捜索した。すると、2時間以上が経過して、そろそろ暑さでお互いにバテ始めた頃に、ダウンジングが強力に反応するスポットが一箇所見つかった。灯りを照らしてみると、軍服に身を包んだ凛々しい青年の銅像だった。そこは、悲しくも日本史上初の航空犠牲者となった「木村・徳田両中尉銅像記念塔」という名称の記念碑だった。第二次世界大戦が勃発する前の、大正2年3月28日の午前11時59分に、所沢飛行場に到着する寸前、事故で亡くなった2人だった。ゼイドは、なぜシルヴァがこのような因果な場所に宝を埋めたのか、ということを自分に問うていた。そして、ゼイドとハロルドは額に薄っすら汗を流しながら、スコップを振り上げ土を掬い始めた。
《今の世界の航空産業は、このような尊い命の上にホンダ・ジェットなどのプライベート・ジェットの勢力的な発展があることを決して我々は忘れてはならないはずだ。》
ゼイドはそのように想起した上で、その言葉の端々を心に刻み込んだ。
穴を掘っている間は、亡くなったシルヴァと木村・徳田両中尉が仲良くあの世で酒を飲んで、お互いに夢だった飛行機での世界旅について語り合っている風景がイメージできた。     
1m、2m、3m、と掘り進めても手応えが全く感じられなかった。5mまで掘り進めたところで、ようやくなにかがガチャリと音を立てて、鉄の塊が見えて来た。すると、鉄の塊の上には、鉄製の南京錠があり、その近くに小さな箱が入っていた。その箱の中には、銀色のステンレス製の錆びた鍵が入っていた。
「なんだろうな?」
「扉が付いているみたいだけど」
「開けてみるか?」
「そうだね。開けてみよう」
2人は協力して、南京錠を鍵で開けた。扉の中は、非常に広い生活可能な空間があった。2人は中に入って、扉の横にある階段を降りて行った。ブゥーン、という音がして、操縦室のような場所にあるモニターがついた。
現在の宇宙と地球の様子の映像だった。
モニターの左上には時刻が出ている。
現在、時刻、午前3時25分。
本来ならば、宇宙ステーションがあるはずの場所から炎に包まれた巨大な隕石が500個近く地球に向かって降り注いでくる。ゼイドは、頭が真っ白になっていく中で、彼の人生の師シルヴァの言葉を思い出した。
《その宝が君の人生に役立つときがきっと来るはずだから。》
《ゼイドよ、あれを頼む。必ず見つけ出してくれ。》
《その2つを覚えておくことが君の人生に役に立つ時がきっと来るはずだから。》
ゼイドは過去の思い出に心を致し、《懐かしい故郷にはもう帰ることができないのだ。》 と、悲しみに耽った。そう思うと、自然とゼイドの瞳から涙が流れていった。《あの懐かしい森、そしてあの懐かしい恵の泉。あの森で動物たちと戯れる日々はもう戻ってこないし、あの泉の水で乾いた喉を潤すことも、もう自分の人生ではないだろう。でも、シルヴァ伯爵やジッドやゲーテなどの懐かしい仲間たちとの記憶は、消えることはないのかもしれない。そして、この命綱のシェルターに導いてくれた木村・徳田両中尉の銅像。あの2人には、心温まるどこか懐かしい気持ちを感じた。皆の人生は幸せだったのだろうか?》
ゼイドは遠くのほうで鳴り響く隕石の落下音に心を砕かれながら、《みんなが僕を救ってくれた。なのに、なんでこうなってしまったんだ。》と、運命に紐づけられた決して変えられぬ個人の宿命に思いを馳せた。
「泣かないで、俺はここにいるよ。どこにもいかないよ」と、ゼイドの隣で声がした。「えっ?」と、一言ため息のような言葉を漏らした後、顔をこわばらせてハロルドの瞳を、ゼイドはじっと唇をかみしめながら、涙が鼻の頭をツーッと流れていく中で見つめ続けた。
「大丈夫だ。みんなきっとどこかで見守ってくれているから。涙を拭いて」ハロルドは、 土のついたハンカチーフをゼイドに渡した。
「そんなこと言ったって。もう、みんなは。」
「この地下にも道があるみたいだから、悲しむよりも先に進んで行こう」
ハロルドが強引にゼイドの腕を引っ張って、鋼鉄製のエレベーターに乗り込み、地下500メートル下までエレベーターで降りて行った。ものすごい勢いで、エレベーターは地下奥深くまで、急降下して行った。どこからかゴスペルのような歌が聞こえる。残り10秒で目標階へ行こうとしたとき遠くの方で隕石が墜落する音が聞こえた気がした。エレベーターが地下70階に来て、デパートのような音がすると開いた扉の先には美しいエレベーター・ガールが待っていた。
「地下70階、コスメ・ブティックでございます」
「えっ、化粧品売り場?」
ゼイドの目の前には、広大なデパートが広がっていた。前から高級なスーツをめかし込んだハンサムな好青年が歩み寄ってくる。
「よく来たな。ゼイド。わしの言うことは本当だったじゃろ?」
「あなたは、まさかシルヴァさん、でしょうか?これは一体何ですか?」
「わしからのサプライズじゃ。君は第2の人生の扉を自分で開いたんじゃよ」
「えっ、ということは、ここは、まさか死後の世界ですか?」
「新しい元号の時代には、そんな言葉はもう存在しない。人間は何度でも生まれ変わって、新しい人生を歩めるんだ」
「さあ、21世紀へようこそ」という横断幕がヒラヒラと空中を飛んでいる。ここはまるでカーニバルの楽園みたいだ。
革命のファンファーレがすべての人類を歓迎している音が鳴り響いている。
《ここが僕の新しい故郷になるんだ。》ゼイドの人生の歯車が回転し始める地響きのような轟音が外で鳴っている。
それから3週間に渡って、地球は暗雲に包まれた。象やキリンなどの大半の動物はノアの箱舟の形をした宇宙船に乗って、火星のコロニーに運ばれた。地球上に隕石が降ったXデーを機に、地球は氷河期に突入し、地球全体が氷で覆われた。人類は、地下に楽園を創り出し、聖書の千年王国の預言は、ゼイドたちが暮らすことになったこの新しい地底空間を指したものだったのかも知れない。しかし、救世主としてキリストは復活しなかった。キリストが復活しない代わりにシルヴァ伯爵が青年の姿で、最新テクノロジーのクライオニクスを使用して蘇った。そして、地下の広大な半径800m以上ある巨大な空間で、レッドブル・エアレース・ワールドシリーズは、所沢市が地下にも街を作っていたので、その準備が功を奏して開催することができた。ワールドシリーズ当日は、地下に住む世界中の人々がモニター越しに観覧し、大いに盛り上がった。優勝したのは、2年前に、北朝鮮と韓国が合意文書を作成して、新しくできた朝鮮統一国家のチェ・チャンミン選手だった。ワールドシリーズ当日は、所沢市長が英語でアインシュタインの言葉を引用してスピーチした。《意志あるところに道は開ける。この言葉を私は今回の地球滅亡という危機から脱出したことで実感しました。そして、皆さんの人生に栄光あれ、と心から願っています。》
人類は、隕石が地球に落ちても大半の人々が生き残り、新しい技術の助けもあって、100万人ほどの人々が蘇り、新たな青春の人生を獲得した。21世紀が到来してから2年後で30年を迎え、平成の次の元号になって、約10年が経過した。人類には、まだ希望が残っているのかもしれないと、ゼイドとハロルドとシルヴァ伯爵は、充実した第2の人生を送りながら感じている。


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