2022.02.07
石原慎太郎氏と西村賢太氏が亡くなった。芥川賞作家の立て続けの訃報に接し、驚きを隠せない。『太陽の季節』も、『苦役列車』も、映画化された。大学時代両作とも読み、映画も観た。石原慎太郎氏の『太陽の季節』からは青年のほとばしるエネルギーと目がくらむほどの耽美さを感じた。それまでの日本の小説構造とは異なる体力で書き切ったという強い印象を受けた。西村賢太氏の『苦役列車』からは現代の生きることの苦しみの中でそれでも銭を稼がなければならないという宿命性を感じた。この小説からもまるで大正時代かのような古典的な青年像と軍隊にいるかのような肉体感覚を受け取った。この2人が亡くなった=昭和文学が終わったということではないかと私は思っている。昭和から書いていてトップランナーを走っているのは私が知っている限りで、男性作家では大江健三郎氏、村上春樹氏、五木寛之氏、北方謙三氏、村上龍氏、島田雅彦氏、伊集院静氏、女性作家では小川洋子氏、山田詠美氏、林真理子氏、江國香織氏、吉本ばなな氏、俵万智氏などくらいかと思う。他にも多数いるであろうが一般的に知られているのはこのぐらいではないか。その中でも村上春樹氏は世界的知名度を現在もなお更新していて別格だ。ノーベル文学賞を受賞している大江健三郎氏も別格だろう。この現役の昭和世代の文学者達にも肉体性は存在する。しかしこの2人ほど体制をアウトサイダーとして批判する精神にあふれた文学を書く人はいないということだ。どの作家も書くものは極めて現代的だ。戦争や学生闘争をくぐり抜けた人たちもいるがより現代にコミットメントした書き方をしているからトップランナーを走り、現代でも受け入れられているのだと思う。現代において石原慎太郎氏ほど批判を受けた文学者を私は知らない。西村賢太氏ほど森山未來氏が輝く原作を書いた人を知らない。話が変わってきたが、映画になって俳優が輝く原作を書く作家を私は尊敬する。今日『1Q84』の冒頭部分を読んだ。高校生の頃村上春樹初体験は『1Q84』だった。剣道部の部長が読んでいたことがきっかけだった。私はこの作品を映画化するなら青豆は石原さとみだろうと思った。サングラスをかけてハイヒールを脱ぎ首都高速道路を歩くのは彼女しかできないと思う。村上春樹作品は映画化が難しいのか『ノルウェイの森』と『ドライブマイカー』くらいしか映画になっていない。『ねじまき鳥クロニクル』と『海辺のカフカ』は舞台化されていて実際に劇場で観覧した。演出家が『ねじまき鳥クロニクル』はインバルピント、『海辺のカフカ』は蜷川幸雄氏で最高だった。俳優も寺島しのぶ、木南晴夏、岡本健一、門脇麦などでよかった。現代の世相を小説であぶるのはとても難しいことだと思う。世界はインターネットや情報科学で繋がった、とはいえまだ人間の営みは継続しているし、人間がコンピュータになったわけではない。私は石原慎太郎氏と三島由紀夫は批判していたが太宰治を読み直すことが現代を斬る刀を作るために必要なのではないかと思う。人間失格の主人公はそのまま私たち現代人だ。アメリカでは人間失格ブームが来ているらしい。悲惨な世相には悲惨な文学が求められる。私は文士を目指している。新しい時代に求められる文学とは何か考え続けている。決して人間性を失ったコンピュータの文学が求められているとは思わない。人間は人間のままであり続ける。平和で自由と民主主義が守られる限り。今日から日記を書く。散文的でとりとめもないものかもしれない。しかしひっそりと落としたこの種がいつか花として咲いてほしいと願う。そう思いつつ今日は筆を置きたい。
羊文学 光るとき
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