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自己紹介

 いいのか悪いのかは定かではない。昔から、影響されやすいタチだ。

 殊、興味がないことについては尚更である。中学の文化祭の出し物を決める時など、面倒なので多くの人が挙手しているところを狙っていた。特に目立つような生徒でもなければ影響力もないので、そんなものが何に決定しようとわたしは与えられた仕事を全うすればよいのである。ゆえに、興味はなかった。
 一方で、わたしは非常に頑固だ。一度やると言ったら聞かないところがある。これは反対に、興味がありすぎるものに対する反応ということになるだろうか。部屋は汚いのにベッドには外出後の服で上がってほしくない、だとか、ご飯とおかずは口の中では一緒にしない、だとか。日々、暮らしの中で自分のこだわりを感じては自分自身に面倒くさい女だなとうんざりするなどしている。

 不思議なことに、この相反する2つの性質には、両立する瞬間がある。それは主に、「今までやりたいと思っていたことを、誰かの影響でやっと始める」とき──例えば、今などだ。


 幼少から本に親しむことの多かったわたしが文章を紡ぐことを得意としたのは、至極必然のように思う。このような場で「得意」とはまた大きく出てしまったが、少なくとも、自分ではそう思っている。飛び抜けて才能があるわけでなくても文章を書くことが好きだし、苦にならない。そこいらの同世代たちよりかは読みやすい文章を作れるだろう。読書感想文や卒業文集で褒められたことも、身に覚えがある。自己肯定感底辺のわたしが昔から唯一胸を張れるのが、文章と芝居なのだ。
 芝居については追々触れるが、文章については、今まさに記事を作っているということが証拠だ。こうして公の形に残すのは非常に久しぶりだから、いささか緊張している。ましてやわたしが以前好き好んでインターネットの海に投げていたのは所謂「夢小説」なんて言われる部類のもので、専ら随分クローズドな創作の世界である。自分について、生活について、感情について吐露するのはどうも恥が付きまとうようで、慣れない。

 それでもわたしは今、こうしてキーボードを叩く。高校の頃から一度やってみたかったブログの執筆という領域に、数年越しに足を踏み入れている。

 それは、ある一人の舞台俳優の影響に他ならない。


 先日、ある本を手にした。『残機1』。太田出版より発売されている随筆集である。
 彼はその執筆者だ。そして、本当にここ数週間でわたしが「沼に落ち」た男だ。
 わたしが幼少より親しんでいる本とは、小説のことである。随筆集はどちらかというと苦手な部類だ。手に取ったのは記憶の限り一度だけ。その一度も高校の部活にて課題本となっていたから読まざるを得なかったというだけの機会で、意思を持って読んだわけではないから、内容などはとうに忘れてしまった。
 そのわたしが、彼の随筆集を読んで、高校の頃から静かに持っていた情熱に再び火をつけたのだ。殆ど食わず嫌いだったものすらもさらさらと味わえてしまうのだから、好きの気持ちとは如何に強く人を突き動かすのか、思い知らされた心地である。
 ブログというのは、その書き方や特色にもよろうが、けっこう随筆に近いように思う。感じたことを、それこそ「徒然なるままに」書き起こすもの。ブログの方が表現の幅が広くて自由が利くのではないだろうか。
 善は急げ、思い立ったが吉日。……やってみよう。大学で書くことを専攻し感情の言語化が非常に秀逸な彼には、きっと到底及ばないだろうが、なにも出版するわけではない。新たな沼落ちを記録するいい機会になる。ついでに、この春に学生という肩書を卒業した自分の人生を振り返ってみるのも一興だ。

 そんなわけで一念発起してアプリをインストールしたが、如何せん使い方がよくわからない。俗にいうZ世代というやつなのでまあ感覚で使いこなせるだろうと高をくくっているが、何か不備があった際にはどうかそっと見逃してほしい。影響されやすいので、他人の文章を読んで参考にするということはあまりしたくないのだ。きっと文体が似てしまうから。


 このブログの行く末はわたしにもわからない。今のところは、わたしという人間が生を受けてからオタクたるものになるまで、そしてその後の遍歴などを綴りながら、22歳にして早くも人生を振り返りたくなった哀れな社会人が自分の感情を整理する様を、どこかの誰かにお披露目する……といったものになるだろうと予想している。
 おそらく、今現在わたしの心の大部分を占めている彼──梅津瑞樹のそれに、無意識に寄ったような文体で。

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