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他人事
何事においても他人事は良くないとされる風潮がある。
この風潮がだいっっっ嫌い。
自分に直接関係のない遠い国の紛争や事件やいざこざの隅々まで私が胸を痛めないといけませんか?
胸を痛めて同情しなければ、遠い国の人は私を許せませんか?
意思の領域に無用に踏み込まれて、感情や行動をコントロールしようとされることが嫌いだから、関心がない!と責められることに怒りすらある。
人はそれぞれ自分が主役の人生を歩んでいて、現代では100年歩む可能性も高い。
多種多様の困難に見舞われる旅路で、見ず知らずの他人の苦痛と悲しみまで背負って歩くことは私にはできない。
私は私のことで手一杯なんだ。
他人事だと思わなければ健康な心で生きていけない。
善悪を理解できる者なら、他人事に思ったり、無関心でも良いと思っている。
子供の頃から、様々なことに関心を持たないのは悪だと教えられた結果、私は怒られている対象が自分ではないのに、勝手に責任を感じて苦しくなってしまう大人になった。
これには長い間、随分と苦しめられた。
でも、義務教育で様々な関心を持てと教育されている時は、大変不服であったが、今なら分かる。
善悪の判断力を身に着けるためには、体力があって、時間があって、責任能力を問われない子供の時に、多くの事例を見聞きしないといけないから。
大人になってからしばらくして、ツイッターで「自分の機嫌は自分で取る」「他人がまき散らすイライラはその人が解決すべきこと。あなたは受け取らなくていい」という投稿を度々見かけ、目から鱗だった。
私が傷つく必要はないと気づいてから、気持ちが楽になった。
それに無関心も悪いことばかりではない。
どうでもいいと思っているから、大抵のことを受け止めることができる。
私の長所なのだと気づいた。
それが、少しだけ誇りに思える。
私はこう思うのだけど、あなたはどう考える?という話ができる友達が欲しいな。
喧嘩じゃなくて、考えを伝えあえるような、そういう友達。