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【空想会議レポート 前編】 文筆家・土門蘭「30歳で書くことをやめようと思っていた」

「毎日に気づきの種を」

そんな言葉を掲げて、DAYが月に1度開催している『空想会議』。
外部ディレクター・宮下拓巳さん(LURRA°共同代表・ひがしやま企画代表)と共にスタートした、新たな未来のためのこのトークイベントでは、毎回さまざまな領域で活躍している方に「過去・現在・未来」について話していただきます。

『空想会議』はDAYのスタッフにとって、考え、学び、出会う場所。その時間をアーカイブに残そうと、今回から『空想会議』レポートを始めることにしました。

今回の登壇者は、文筆家の土門蘭。実は、今この文章を書いている私です。
自分で自分のトークレポートを書くのは不思議な気分ですが、この場にいなかった方にも雰囲気が伝われば嬉しいです。

前編は「過去・現在・未来」についてから。
DAYの皆さんには、どんなふうに伝わったのでしょうか?



書くことに出会い、模索していった10代

「こんにちは。土門蘭です。文筆家として、その名の通り文章を書く仕事をしています。

何を書いているかというと、2つの軸があって。1つは小説・短歌・エッセイなどの文芸作品。つまり、自分の中から言葉を引き出して文章にする仕事。もう1つはインタビュー記事やキャッチコピー。つまり、他者の言葉を引き出して文章にする仕事です。

自分の言葉と他者の言葉、その両方を行ったり来たりしながら、文章を書き続けています」

そんな自己紹介から始まった、『空想会議』土門蘭の回。
今後、DAYにまつわるさまざまな記事執筆を担当する予定なので、これが自己紹介の場にもなればいいなと思いながら話し始めました。


『空想会議』では、毎回ゲストの「過去・現在・未来」についてのお話を聞きます。
なので、まずは私の過去の話からスタートです。

広島県呉市で生まれ育った私は、父が日本人で母が韓国人の、いわゆるミックス。
溶接という仕事の影響で耳が遠い父と、日本語がほぼ話せなかった母の間で育った私は、幼い頃から両親との言語コミュニケーションにずっと壁を感じていました。

特に母とは簡単な日本語でしかやりとりができないので、学校や友達に関する相談や込み入った話ができない状態。
しかも共働きで鍵っ子、兄弟もいなかったので、家ではずっと本を読んだり文章を書き続けていました。

「毎日、一人で日記のようなものを書いていました。『今日こんなことがあった。あの子がこんなことを言った。私はこう思った』みたいなことをつらつらと。多分、本来は親に伝えるようなことを、ノートに書き続けていたんだと思います」

転機は高校三年生。
大学の受験対策で、放課後、小論文の書き方を国語の先生に教わっていた時のことでした。
最初はどう書けばいいのかわからなかったけれど、先生に教わるうちに、「小論文って、自分の中にあるロジックをわかりやすく相手に伝えることなんだ」と気づきます。
それまで漫然と書いていたのが、人に読まれることを意識するようになり、書くことがグッとおもしろくなりました。

「ある日、先生に『あなたの書く文章はおもしろいから、将来物書きになりなさい』と言われたんです。大人にそんなことを言われたの初めてだったし、好きなことだったから、とても嬉しかった。初めて『書くこと』を夢として意識した瞬間でした」

その後、京都の大学に進学。
フリーペーパーの編集部に入り、ボランティアスタッフの一員としてライティングを始め、取材をしたり原稿を書く日々を過ごしました。
初めて書いたインタビュー記事が掲載された時は、好きなことで社会に繋がれた感覚がして、とても嬉しかったです。

もっとうまくなりたいと思い、19歳の時、お金を貯めて編集ライター養成講座に通い始めます。そこで、講師として来られていた新聞記者の方に出会ったのが第二の転機でした。

「その先生にはとても可愛がってもらったのですが、ある時、2つのアドバイスをもらったんです。

1つは、自分のことばかり書かないようにすること。『自分の中にある言葉なんて大したもんじゃないから、人に会いに行って人のことを書きなさい。そうすれば、自分が想像もできなかったようなものが書けるよ』と。

もう1つは、個性を消すこと。『個性を出そうとしてはダメ。消して消して消しなさい。そして最後に残ったものが、君の個性だよ』と言われました」

この2つのアドバイスは、私の価値観を大きく覆しました。
自分のことだけじゃなくて、人のことも書く。どのように書くかではなく、何を書くかを大切にする……。
今の私のスタイルは、この時に生まれたものだと思います。


「書く」を仕事にする方法がわからなかった20代

文章を書くおもしろさに夢中になっていたものの、それをどう仕事にすればいいかわからず、ずっともがいていたのが私の20代でした。

「どうすれば『書く仕事』ができるんだろう?」
書くのが好きとは言え、飛び抜けた才能もスキルもない私。
少しでも「書く」ことに近い仕事をしようと、東京の出版社に就職し営業の仕事を始めます。

ただ、東京が肌に合わず、2年で京都へ帰ることに。東京で一番参ったのは、コンテンツの多さでした。
「こんなにコンテンツがあるのに、私が新しくものを書く必要なんてあるんだろうか?」
このままでは自分は文章を書けなくなると感じ、関西支社へ異動願いを出しました。

京都に戻ってからは、仕事が終わった後に友人とフリーペーパーを作ったり、小説を書いて新人賞に応募したりと、精力的に執筆活動を再開します。
フリーペーパーは反響を呼んでたくさんの方に読まれ、小説は文芸新人賞の最終候補まで残りましたが、書くことが仕事になるまでにはいきません。

「仕事をして、文章を書いて……20代は、愚直にそのふたつを繰り返していました。でもなかなか『書くことで食べていける』ようにならない。周りと比べたりして、かなり焦っていましたね」


30歳で書くことをやめようと思っていた

20代後半で、子供が生まれます。
子育てをしながらの仕事は想像以上に大変でした。
プレッシャーやストレスから睡眠不足に陥ってしまい、涙が止まらなくなったり、めまいや吐き気がするように。
病院にかかると、「うつ病」と診断され、退職することになりました。

「この時が人生で一番、落ち込んでいた時期だと思います。『私って、全部中途半端だな』と思っていました。仕事も、育児も、書くことも、全部中途半端で人に迷惑をかけてばっかりだって。書くことを仕事にしたいと頑張ってきたけれど、こんな私には無理なんだろうなと思うようになりました」

だけど鬱が寛解するうちに、少しずつ前向きになっていきます。
「好きなことを仕事にできなくても、好きな人と仕事をすることはできるんじゃないか」
そんなふうに、発想の転換もできるようになりました。

それですぐ思いついたのが、フリーペーパーを一緒に作っているデザイナーの友人です。
彼女は自分でウェブ制作の会社を経営していたので、ダメもとで「雇ってほしい」とお願いしました。
私の職歴は本の営業のみで、ウェブについてはまったくわからなかったけど、彼女はなぜか私を雇ってくれました。

「3回目の転機は、この鬱病と転職でした。

何もできないところからのスタートだったので、とにかく周囲の人が働きやすくなるためにはどうすればいいかを考えました。買い出しや電話番から始まり、経理、庶務、そのうち企画書を書いたりディレクションをしたり……だんだんとできることが増えていくのは嬉しかったです。

それまでは自分のことばかり考えていたけれど、その時ようやく、人のために動く楽しさを知りました」

その頃には、以前のようにプライベートで書くことも再開。
再びフリーペーパーや小説を書き始めてはいましたが、実は内心「30歳になったらやめよう」と思っていました。
もう子供もいるし、周囲にも貢献したいし、夢を追いかけるのをやめて、周りの人のために生きようと思うようになったのです。

「でも、いざ30歳になった時、『あ、やっぱり書くのをやめられないな』と思ったんです。私、仕事にできるかどうか関係なく、書くのがすごく好きだわって。その瞬間、いい意味で諦めがつきました。

これまでは、誰かから必要とされないと書き続けてはいけないと思っていたけれど、好きなら書き続けたらいいじゃないか。そう自分に許可した瞬間に、すごく心が軽くなりました」

そんなふうに開き直ってインタビュー記事やブログを書き続けていたら、少しずつ読者が増えていきました。

すると、あるときフリーの編集者さんが声をかけてくれたのです。
「土門さんの文章、すごくいいですね。僕と一緒に小説を書きませんか」

これが4つ目の転機。そして「最後のチャンスだ」と感じた出会いでした。


書くことを仕事にすることができた30代

編集者には、さまざまなことを教わりました。
中でも大きかったのは、「自分にしか書けないことを書くこと」です。それは小説でもインタビューでも一緒でした。

小説では、自分のルーツである広島県呉市を舞台に、日本人や韓国人の娼婦の話を書きました。
また、インタビューでは経営者に「孤独」について問い続ける連載をスタート。彼らの言葉を引き出しつつ、自分の思考や気づきもふんだんに書き込んだ、ある意味でインタビューらしくない記事を書き続けました。それらはどちらも本になり、同時期に出版されました。

書く仕事が入り始めたのは、この頃です。自分にしか書けないことを書き続けていたら、少しずつ「これは誰が書いているんだろう?」「土門蘭に仕事を頼みたい」という方が増えていきました。

その後、編集者とともに出版社を設立。
35歳になった頃には書くこと一本で食べられるようになり、フリーランスとして独立します。

ようやく書くことを仕事にできた。
でも、今度はそこでコロナ禍にぶち当たってしまいます。

「独立前に売上の目処は立っていたんですけど、その案件が全部保留や中止になってしまって。独立して2ヶ月目の売り上げは数千円で、『これはやばい!』と本気で思いました」

そんな時、ネットの記事で、こんなエピソードに出会いました。

“大学の教授が教壇の上で、空っぽの瓶に次々と石を入れていく。満杯になると教授は生徒にこう尋ねた。「瓶はいっぱいになりましたか?」。生徒がうなずく。
教授はさらにそこに砂を入れ始めた。岩の隙間を縫って、砂が溜まっていく。満杯になると、教授はまた「瓶はいっぱいになりましたか?」と聞いた。生徒がまたうなずいた。
教授はさらにそこに水を注ぎ始めた。砂がどんどん水を吸い、瓶の口まで満たしていった。教授はやっと「これで、瓶の中はいっぱいになりました」と言った。そして、こう続けた。
「この瓶は、あなたたちの時間です。みなさん、瓶には石から入れてください。砂や水を先に入れてしまうと、石を入れることができません。あなたにとっての石とは、なんでしょうか?」”

「私はそれを読んで、今自分の瓶はいったん空っぽになったのだと感じました。これはある意味、瓶の中に石から入れ直すチャンスなんだ、と。

今、自分が一番やりたい仕事はなんだろう? そう考えて、あるエッセイの企画書を書き始めました。それまでインタビューの仕事が多かった私は、もっと自分の言葉を書く仕事も増やしたいと思ったんです」

その企画書はあるウェブメディアに採用され、連載がスタート。
読者がどんどん増えていき、以降、他のウェブメディアや出版社からもエッセイの仕事が舞い込むようになりました。

2023年には、自身のカウンセリングの記録を綴ったエッセイ『死ぬまで生きる日記』を出版。第一回生きる本大賞を受賞し、初めて賞をもらうという経験をしました。
それを機に、トークイベントが増えたり新聞連載が始まったりと、新たなチャレンジをさせていただいています。

「今も相変わらず、『自分の言葉』と『他者の言葉』を行ったり来たりしながら文章を書いています。その両方を行き来することが自分の執筆スタイルなんだと思うし、これからもずっとそんなふうに書き続けたいと考えています。

それに加えて、最近では音声コンテンツの配信や、学校や企業での講義も増えてきました。今後は書くことだけではなく、話すというやり方でも、言葉を生み出していけたらと思います」

最後に、今後の「未来」について。
「逆に教えてほしい」と笑いながらも、こんなふうに締めました。


「心身を整えながら、いいものを書き続られる自分でいたいです」

後編では、土門が大事にしてきた「対話」についての話や、DAYの皆さんとの質疑応答についてレポートします。

どうぞお楽しみに!


取材・文 土門 蘭    
写真   辻本しんこ


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