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狗奴国、この地図だと鹿児島・宮崎なんですけど・・・・。


これ、YouTubeで見た邪馬台国関連の動画で気になった地図です。
狗奴国、この地図だと鹿児島・宮崎なんですけど・・・・。

狗奴国は鹿児島なのか?

邪馬台国と覇を争っていた国が狗奴国ですが、北東に位置するということでしたが、鹿児島というのは新説なのか?
仮に鹿児島としたら、この時期の鹿児島は隼人がこの地を治めていました。熊本は球磨ですよね。

YouTubeで見てびっくりした画像

尋ねられてもいないのに歴史うんちく

邪馬台国や狗奴国があった時代に南九州の地方豪族として、昔から球磨族と隼人族がいました。多分、縄文〜弥生時代からこの地方にいたんでしょうね。
で、古墳時代になるとヤマト王権は国内を統一していこうとします。九州全土もそれに含まれます。それに立ち塞がっていたのが南九州の豪族の熊襲(くまそ)でした。熊襲とは「球磨(熊本の人吉あたり)と曽於=贈於(鹿児島の霧島市〜曽於)」(くま・そお)のことのようです。それをヤマト王権に従わなかったので熊襲(くまそ)と名付けたのでしょう。ある意味「恐れ」「侮蔑」の意味があります。で、ヤマト王権は日本武尊を南九州平定で遣わし球磨を従わせます。しかし、曽於=贈於の隼人族は球磨地方から山を越えていかないといけないので、ヤマト王権としては地理的に行くのも困難で、なかなか支配が及ばせるのは困難だったようです。球磨族と隼人族は繋がりはあったんでしょうか?

日向隼人・・・諸県君一族?

隼人でも、日向地方の隼人族が早い時期に恭順の意を示し、天皇に妃を出したりするようになります。僕はその時の日向地方の隼人族が諸県(もろがた)という豪族だったんじゃないか?と思っています(改めて調べたらビンゴ!だった)。諸県君牛諸井の娘、髪長姫が応神・仁徳天皇の時代に妃になっています。という訳で今での宮崎県にある諸県郡という名前はその名残でしょう。そして、西都原古墳群は当時の日向の支配者層、特に諸県一族の墓だったというのが有力な説のようです。古墳時代のヤマト王権のフランチャイズを受けた訳ですね。鉄器具、鎧などが古墳から出土していますが、ヤマト王権の統一されたデザインになっています。

大隅隼人・・・曽君一族

で、曽於は鹿児島の大隅の方にある地方ですけど、当時の豪族の隼人族の中で一番勢いのあったのが曽君(そのきみ)を主君とする大隅一帯に分布した隼人でした。都城地方も曽於から近いのでこの曽君の影響下にあったと思いますが、都城は早水神社の由来(上記の諸県君牛諸井の娘、髪長姫)を考えると地理的に諸県一族の影響も受けていたと思います。それに都城には前方後円墳が出ています。となるとヤマト王権との繋がりもあった筈です。

でも、奈良時代の720年に隼人が反乱を起こしたときには、反乱軍のリーダーの弥五郎に従っていますね。で、国分(霧島市)で国司を殺害し国衙を焼いたのです。前の712年に律令制が施行され、先祖代々からの土地が公地公民制度で朝廷に収公され、公民として田畠を耕すことになり、その上に過酷な租庸調が課せられる。自由な民、隼人にとってそれはとても我慢できるものではなかったと思います。

当時、霧島山は霧島とは呼ばれておらず曽の山、曽の峰と呼ばれていたようです。曽君一族が神聖な山と崇めていたようです。鹿児島には曽山(贈山)という姓の人がいますが、その曽山は霧島山をさしているのかもしれません。園山という姓も由来はそうかも?しれません。
高千穂峰に神社がありヤマト王権風の刀(天の逆鉾)が立っているのは、神話の世界の話ですが、実はヤマト朝廷が曽君一族を朝廷の軍門にくだしたという意味なのかも?分かりませんが。

大隅直の古墳

大隅でも曽於よりも南に大隅直の古墳が東串良にあります。鹿児島では数少ない古墳ですが、この古墳の位置からして、大隅直一族と諸県一族が海路での交流があり、つながりがあったのでは?と言われております。志布志湾と肝属川がありますので曽君一族よりは開けていたのかもしれません。で、陸路での交流は曽君一族の領地を通らないといけないので、まず無理だったと思います。この辺りから出土した鉄の鎧がヤマト王権の統一されたデザインになっています。

記・20250219

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