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ブログが書けない理由
文章は頭で書くものではない。感性で書くものだと思っている。
感性が立っている時は何も考えずにポンポンとキーを叩けるが、頭で書こうとする時は、指が全く動かなくなる。
3月に書き始めたブログだが、半年で感性が尽きてしまって文章が浮かんでこなくなったので、お休みしていた。
ブログを始めようと思ったきっかけは、メンタルトレーナー、まーちゃんのセッションを受けた後で、私の感覚が急に開けたからだった。
(メンタルトレーナーとは、クライアントの心理的なパフォーマンスを向上させ、潜在能力を最大限に引き出せるように導くお仕事である。)
感覚が開くとは…
なにげないものを見ても、思い出やそれにまつわる出来事などが思い出され、心がワクワクしてくること。
仕事や雑事に忙殺されると理性が勝ってきて、感性が消滅していく。右脳が働けない状態になってしまう。
2週間前、久しぶりのまーちゃんのセッションを受けた。
私は自身のことを人に話さない性格なのだが、まーちゃんを前にすると饒舌になり、自分のことを話したくなる。
トレーナーと受講者の関係だから、当然そうなるが…
ただ夫にも家族にも言ってない自分の秘密を他人に話すということは、勇気もいるし、プライドも捨てないといけないし、どんなトレーナーにもそこまで話せるか?というと、そうではない。
そこはまーちゃんの人間力だと思う。
フレンドリーで、我々と常に対等な意識を持たれているので、自分のことを〝先生”とは呼ばないで〝まーちゃん”と呼んでと言われる。
私は年に一、二回セッションを受けているが、年々メンタルが強化されていっているのを実感する。
自分がとらわれている「ねばならない」ブロックから少しずつ解放されて、何よりどんな人とも対等な意識で接することができるようになった。
「年長者や先生、先輩に対して対等はないだろう」と思われるかも知れないがそうではない。
タメ口を聞くとか、そういうレベルの話ではない。一般的な礼儀は残して、意識が対等なのだ。
それができない場合は、親子でも、夫婦でも、先輩後輩でも、社長部下でも、「王様と奴隷」の関係になってしまう。
そうならないように、立場が上のものは下のものが「ノー」と言える状況や雰囲気を作りながらオファーする。
下のものは、我慢したり、1人で抱え込んだりしないように、嫌なこと、できないことは相手の気持ちを配慮しながら「ノー」という意思表示をすること。
この簡単な図式が自分の中で当たり前になるのに、何年かかったことだろう。
それに気づきもしないで、ここまで生きてしまっていた。
あとは大事なこととそうでないことを明確に区別することができるようになった。
自分にとってあまり意味のなさそうなことはやんわりと切ってしまうこともできるようになった。
自分がやらないといけないこととそうでないこと、人に任せてよいことがたくさんあることにも気づいた。
そして新しいミッションも見つかった。
お陰様で、最近私は特に何も悩みがないのだが、それでもまーちゃんに会うと、私の心の奥底に封印していたものがあらわになる。
今回のセッションも、何も悩みがなく受講したが、私が封印していた奥深いものが、今にまで影響していて、私の活動に制限を与えていることがわかった。
セッション後、そういう自分に気づいて変わりたいと思う。
いっぺんには変われないが、少しずつ変化していく。
自分が変化すると周りの反応も変わってくる。
その繰り返しが8年積み重なると、自分も周囲もかなり変わるのだ。
今、私の中に、昔の私はほぼ残っていない。
強く、優しく、赦せるようになる。
はっきりと、やんわり、自己主張できるようになる。
ストレスが限りなくなくなる。
新しい世界が広がってくる。
この先の楽しみがたくさんできてくる。
まーちゃんに「感性が尽きて、ブログが書けません」と言ったら「ブログが書けないことを書いてみたら?」と言われて、今日久しぶりにnoteを開いてみた。
自分の気持ちを久しぶりスラスラと書けた!
心を支えてくれるメンターがいることをしあわせに感じる。