アートとデザイン
タイトルをつけるのは難しい。なんか気の利いたタイトルがつけれないものか。そういえば、研究題目をつけるときにも随分苦労したものだ。それだけじゃない。noteに少しずつ文章を書きながら、未だにプロフィールは「美術家 芸術工学者」にとどまっている。芸術工学者?確かに私はそれで博士の学位を取得しているのだけど、芸術工学という言葉は変な言葉で、実のところ「デザイン」の日本語訳だったりもする。
じゃぁ私はデザインの勉強をしてきたのかといえば違う。絵画を描き、絵画とその周縁、特に共同体との関係について研究をしてきた。(厳密に言えば共同体という言葉は幻想とされたり、地縁・血縁関係を伴ったりするため、この場合は必ずしも適していない。ただ同じルール、文化を背景にしている人々の集まりと考えれば、共同体という言葉は想像しやすい。)絵画が共同体の紐帯だった時代は本当に終わったのか、その手法は現代においてどのように展開しうるのか、そういうことを考えてきた。おや、デザインの要素とは?そもそもデザインとはなんなんだろう。
公益財団法人デザイン振興会によれば、
「常にヒトを中心に考え、目的を見出し、その目的を達成する計画を行い実現化する。」この一連のプロセスが我々の考えるデザインであり、その結果、実現化されたものを我々は「ひとつのデザイン解」と考えます。
が、デザインなのだという。なるほど。UXデザインという言葉もあるように、人々の体験すらもデザインされる時代だ。一方でアートはそれに当てはまらないのだろうか。少なくとも、共同体の紐帯であった絵画ーー宗教画とか正しく、は人々を結びつけ共同体を強固なものにするために機能していた。そもそも現代アートにしても、「芸術の終焉」が謳われ、新しい絵画、のようなものがナンセンスになった現代において、作品の主眼は、鑑賞者にどのように働きかけるか、になったのではないか。ただそれは数値で測れるものではないし、時代の射程距離も随分と長い。働きかけの方法においてPDCAサイクルが成立するものではないのだけど。アートはデザインだ!なんて乱暴なことをいうつもりはない。ただ、芸術を芸術という確固たる何かとして捉えるのではなく、ヒトとの関係性において研究、実践を行うものだと考えるならば、私にとって「芸術工学」という言葉はしっくりくるように思える。まだ学者というにはスタート地点ではあるのだけど。
なんでこんなことを考えたのかと言えば、明日、とあるプロジェクトでお魚屋さんのところに取材にいくからだ。彼らが売りたい商品を、この世に出すために一アーティストとして関わりに行く。面白い反面悩ましいのが、アートとニーズのコラボレーションという部分だ。売りたい商品を売るためにはデザイナーが入ったほうがよっぽど早いだろう。それでもアート、に期待する。ありがちではない何か、アプローチが生まれるんじゃないかという期待だ。
昔、福島のプロジェクトに関わったことがある。震災後、風評被害が甚だしい時期だ。それを打破したい。そのアプローチの一つとしてアートが選ばれた。その時に私の先生が「デザイナーを入れればもっと早いんじゃないですか」と聞いたのだという。全くだ。それでもその時の学芸員さんはアートが入ることによって起きるノイズ、混乱を期待するのだと答えたらしい。ゴールからすれば寄り道なのだけど、その寄り道が走る人々に何か影響を与える。もしかしたら違うゴールに行き着くかもしれない。でもそれは誰かが作ったゴールではなくて、走る人々が選んだゴール(この場合は中間地点でしかないだろうけど。震災はいつまでも終わらない。)になるということなんだと思う。
じゃぁ一体どんな寄り道ができるか、どれくらい寄り道ができるものなのか悩みどころだけど、多分それが私の仕事になるんだろう。まだ自分でゴールは決めるべきじゃない。自分に言い聞かせて、明日に挑もうと思う。
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