メキシコ・グアダラハラへの旅 Viaロサンゼルス(2)
(表紙写真)オスピシオ・カバーニャス(筆者撮影・2023年2月)
朝起きると、昨晩の深夜に到着した際の印象とは一転して、かわいらしい小綺麗なペンションに自分が滞在していることが分かった。
階下に降りていくと中央の廊下の奥にキッチンがあって、そこは宿泊客たちが自由に使ってよいスペースになっている。朝9時くらいになるとペンションの奥さんが無料で朝食を出してくれた。卵とニンジンを茹でたのと、オレンジジュースみたいなものを出してくれた。薄味でHand madeのお母さんの味という感じでなかなかおいしい。とりあえずおはよう(Buenos Dias)と言ってみた他は言葉もあまり通じない。ここは完全にスペイン語の世界である。同じタイミングでメキシコの大学生の卓球チームが複数人で宿泊していて、和やかな雰囲気であった。部屋もきれいにベッドメイクされていて、当たりの宿であった。
グアダラハラ市中心部を目指して宿から街へと繰り出す。街の中の印象としては平地の上にひたすら1、2階建ての建ての低層の平家が並んでいる感じで、どの家も窃盗(強盗)対策なのか戸締まりは厳重にされている。雰囲気は北中南米や台北のゴミゴミした住宅街という感じであろうか。細い路地が碁盤の目状に広がっており、方角を確認した上で進まないと逆の方向へと行ってしまう。2月であったが日中は気温が20℃以上に上がり、初夏のようである。少し厚着していたので汗ばむ。各街区にはキリスト教の教会があって、ドイツやサラエボを歩いていた時のことを思い出した。しかし、メキシコの教会は聖人の像などが鮮やかな色で彩色されており、華やかな印象を受ける。この辺りはヨーロッパとラテンアメリカということで同じキリスト教圏でもかなり文化が異なるということなのだろう。
30分ほど歩くとPlaza Guadarajara(グアダラハラ広場)へと到着した。「西部の真珠」、メキシコ人たちはグダダラハラをそう呼ぶ。広場の中心にはゴシック様式のGuadarajara Cathedral(グアダラハラ大聖堂)が聳え立ち、現役のハリスコ州庁舎やデゴジャト劇場などが軒を連ねている。いずれの教会や行政機関もスペイン様式(スペインに行ったことはないが)で建てられていて、壮観である。
Miguel Hidalgo y Costilla通りを通ってデゴジャト劇場の沿いに進むと、Hospicio Cabañas(ホスピシオ・カバーニャス)の正面右手の広場へと出た。朝早かったのでまだ人通りはまばらで、大きな歩行者天国になっている参道沿いの露天商たちが露店の準備をしていた。脇道を通って来てしまったが、デコジャト広場からホスピシオ・カバーニャスまでは一直線で参道になっていたのであった。
ホスピシオ・カバーニャスは中近世に建てられた西語圏北米で最大の複合病院施設(コンプレックス)である。病院施設の中には救貧院、孤児院、感化院など多様な施設があり、恵まれなかった人々、貧しかった人々がしのぐための宿を求めた。建物はイベリア・スペイン風であり、イスラム建築の影響も受けていると思われる。
この病院は広大な施設であり、敷地内には23の庭と106の部屋がある。それぞれの庭や部屋は76の回廊によって接続されており、「病人、年配の人、子どもたち容易に行き来しやすいように」床面は施設全体に渡ってフルフラットである。庭があることから外気より新鮮な空気が取り込まれるようになっており、空気の循環と換気が確保されるようになっている。メキシコ最古のバリアフリー看護施設といったところであろうか。
敷地内に入ってまず姿を表すのはLos Naranjos(オレンジ)と呼ばれる四角形の広場である。この広場には8本の果物の樹が庭を囲むように立っており、石造りの建物から来る冷気、木々の呼吸と2月の穏やかな陽気が訪れる者に安らぎを与える。
この広場の奥に、この病院において最も目を引く建物であるCapilla Mayor(マヨールのチャペル)がドームとともに聳えている。このチャペルは正面から見て横長の十字構造となっており、それぞれの十字端に出入り口がある構造となっている。建物内部には半円状のドームが8つあり、特に中央のドームは高さは32.5mに及ぶ。その中央ドームの下方向き円曲部にはオロスコの筆になる「炎の人」が描かれている。建物の外側から見ると、この中央ドーム部は王冠の様な形状をしており、現世に対する形而上学的な世界の存在を感じさせる。
チャペル内部には57の壁面画が描かれており、それれはいずれも1937年から1939年の間にオロスコと彼の制作チームによって制作されたものである。オロスコの制作技法上の特徴は漆喰を半分固めた顔料を塗料として用いることであった。この顔料は被膜をつくり、結晶化し、壁面にて凝固することから時間が経過しても劣化しなかった。この画材を用いることにより、彼の壁画は強い色彩を満ち、特に生身の人間の身体の描写においては迫真性と切迫さの描出に成功している。
この建物には華やかさは一切なく、そこにあるのは病人や年配者を想定したプラグマティズム(実用性)である。華美さの排除は人民の生活を一切考慮に入れない政治や社会に対する怒りの表出であり、その歴史を描出しているのが周囲の壁面と天井面に描かれた壁画たちである。そこには装甲車のように武装した軍馬や兵士、生身の身体を撃ち抜く銃弾、労働による搾取が描かれている。
特に中央ドームには4人の混血インディオたちが穹隅(支え)となり、16の職業(商業、学術、彫刻、絵画、建築)を支える様子を彷彿とする天上絵が描かれている。それはインディオたちが征服によってスペイン人たちをトップとする社会秩序(≒士農工商)を支える下部カーストとなったということと同時に、その下層カーストから職業の世界へ這い上がらなくては生存を担保されなかったという彼らの困難と苦痛を物語っている様に思われる。
チャペルから見上げると、ドームの中央に描かれた「炎の人」はじわじわと焼き尽くすような炎に包まれ、虚空をただ漂っている。それはまるで業火に焼かれつつも行くべき場所を見つけることのできない為すすべなき人間の姿であった。
その中で印象的だったのはチャペル向かって右手の壁面に描かれている壁画であった。その壁画にはホスピシオ・カバーニャスの設立者である司祭Don Juan Cruz Ruiz de Cabanas y Crespoの肖像と、救貧院に殺到する民衆の姿、また革命を目指して政治運動を起こす人々の姿が描かれている。
司祭Don Juan Cruz Ruiz de Cabanas y Crespoは元々スペイン出身の司祭・神学者で、教皇ピウス6世による叙任に伴いレオン管区(現在のグアテマラ)に派遣された。グアダラハラ管区に任ぜられた彼は教区内に学校を設立し始め、やがて教育の仕事を始めた。貧しい人々を助けるという信念によって孤児を保護しながら学習ワークショップを開く様になった彼は、やがてオスピシオ・カバーニャスの前身となる「慈善と慈悲の家」を創設した。
院の前に殺到する黒い群衆を目の前にした彼の目に生気はないが冷徹さは失っていない。そして彼の両手はそっと幼子たちの頭の上に置かれている。やがて彼もイダルゴ率いるメキシコ独立革命の動乱に呑み込まれ、政治的騒憂から逃れることはできなかった。しかし、彼の姿勢や取り組みはメキシコ民衆史から見た別の側面ー聖職者による慈しみの伝統を表象するものとして受容されており、彼は実際に聖者の一人としてLa Estanciaという町に葬られたようだ。
オスピシオ・カバーニャスの救貧院、孤児院としての当初の理念や伝統を表象しているのは、有名なオロスコの絵画よりこちらの絵画だろう。オロスコの手による壁画は1937-1939年と比較的新しい時代に制作されたものである。いずれにしてもこの病院の訪問によって突きつけられたのは、メキシコでは何人も政治から逃れることはできなかったという苛烈な現実であった。
(参考)
https://es.wikipedia.org/wiki/Juan_Cruz_Ruiz_de_Cabañas
Hospicio Cabanas博物館のオーディオガイド(Youtube):