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「ナーラダ・バクティ・スートラ(についての解説)」スワミ・ブーテーシャーナンダ

神の恩寵はどのようにして下されるのかということを知る方法はないので、それを全然得られないかもしれない。われわれはまったく知ることができないのだ。もしそれが無条件のものであるなら、当然それを得るための方法はない。 それだから、ここに二つのことが述べられている。

第一に偉大な魂の人すなわち神人の恩寵。それはわれわれも探し求めることができ、得ることができる。
第二にわれわれは神の恩寵のみによってもまた、信仰を得ることができる。これら二つのことは、ある人がたとえ求めていなくても彼の上に下ることのある、あの神の恩寵の偉大さを示すために述べられているのだ。恩寵は自然に誰かの上にふり注がれるだろう。これを恩寵と呼ぶなら、それは無条件に下されるべきだ。恩寵は無条件なければならない。恩寵とは、われわれがそれだけの徳を積んでもいないのに、それに値してもいないのに受けるもののことだ。つまりわれわれが誰とも交流せず、どんな修行もしていないということだ。しかし、 神がその恩寵を誰にでも彼にでもお示しになるとは限らないので、われわれはそれを受けることなく、むなしくいつまでも待たなければならないかもしれない。それだから、もうひとつの部分が述べられているのだ。


第三に、(私が私のもの)という観念を捨てた人だ。所有の観念は捨てられるべきだ。もしわれわれが所有欲に満たされていたら、内部に恩寵の働く余地がないだろう。恩寵がわれわれの上に働くためには、 われわれは「私はぜひ、これこれの人から恩寵を受けたい」という受容力のある態度をとるべきだ。

われわれが所有の観念に満たされていたら、心は新しいものを受け入れることができない。私はこれを持っている、あるいは私はあれを所有していると思うと、すぐにもっと持とう、もっと持たねばならぬという欲 望が現れる。 心はそれにとらわれて、(私のもの)という考えが心を他のものに引きつけて、そのために偉大な魂の人びとの恩寵を受けないのだ。

〜ゆえに、二つのことが必要だ。 受容の態度と謙遜の心だ。われわれは神の恩寵あるいは神人の恩寵を受けたいと願うが、もしわれわれが、(私が・私のもの)という意識に満たされていると、受容力がなくなる。


54. それ(プレマ)は属性を持たず、何の欲望も持たず、不断に刻々に増大し続ける。それは中断されることのない内的経験で、もっとも精妙なものより精妙だ。


彼を尊敬する人びとが、彼の善行の果実を受ける。そして彼を憎んだり彼に反対したりする人びとは、彼の悪い行為の結果を受けるだろう。どうして彼が悪い行為などできるのか。それに対する返答は、知らぬ間に彼も何ものかを害しているかもしれないということだ。歩きながら生きものを殺しているだろうし、 ものを食べながらも殺しているだろう。誰がそれらの悪行の果実を刈り取るか。彼を憎む人びとが彼の行為の悪い結果を受けるだろう。これが聖典が与えている結論だ。
ゆえに、神人は全体としては行為を放棄することはないだろう。しかし彼が何をしようとも、自分自身のためにその行為の結果を得ようという欲望はまったくない。それが要旨だ。


要するに、人の心を神から遠ざけるものは避けるべきだということだ。心を神の想いからそらせるものはすべて、彼の不断の神の記憶の邪魔をするものはすべて、用心深く避けなければならない。そのような思いにふけっていると、心の中に徐々にに神から離れる傾向が生まれてくるのだ。それは、単に客観的な考えではなく、そのような思いに気ままにふけっている人の心の中には、ある執着が生まれてくる。



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ダビデの詩
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